子は鎹、猫も鎹
掻き乱す、とまで言うのだからよっぽどだと思うが、一体全体私は何をやらかしたのだろう?私は特殊任務を真面目に遂行していただけで……っていうかその特殊任務こそが偽装だったんだから私の努力なんか必要ないヤツだったのよね?
一生懸命婚約者として怪しまれない言動をしていたんだもの。邪心と雑念で溢れかえったアレンの心を引っ掻き回していなかったとは断言できないし、私を見つめているアレンの切なげな目をみれば逆に断言できる。
わたくし、知らず知らずにアレンの気持ちを掻き乱し引っ掻き回しておりましたわね!
「この世にリコの無意識ほど恐ろしいものはないね。俺は何度も息の根を止められるかと思った」
こりゃまた物騒な言い回しだがアレンは優しく目を細めている。引っ掻きまわされて苦しんでも恨まれないのであればありがたい。仰る通り、私は引っ掻き回すつもりなんかなかったのだもの。
と安心したものの、すぐにアレンは苦しそうに眉をしかめた。
「懐に入ったは良いが身動きが取れなくなってしまい、何もできないまま自分だけが雁字搦めになっていく。殿下から許された期間は結婚式のその日までと限られていた。このままではリコを失うんじゃないかという不安と焦りを募らせながら、リコに気持ちを伝えることすらできなくなった。しかもやる気があるとは思えなかったリコが実際は任務遂行に一生懸命で、どうも何かと勘違いばかりしてチャンスと俺の努力も片っ端から潰してしまうから尚更核心に迫れなくて……結局大事なことは何一つ言えなかった」
言われてみれば特殊任務にしてはアレンはやり過ぎだった。でも私はおや?と思うこともなくそれなら自分もっと頑張らなきゃと努力に努力を重ね、結果アレンを妨害していたってことで。この意味不明な計画もやむ無しと思わせた私はなかなか酷いが、アレンも負けじと酷かった。どうりでコニーが意気地無しだのじれったいだのと激怒し明王化したわけだ。
私は問題の複雑さに顔をしかめて考え込みながらミロを撫でた。私もアレンも何も言わず、ミロがゴロゴロと喉を鳴らす音だけが響いている。
「だけど……やっぱり酷いと思うの」
ピタリと手を止め再び同じ言葉を繰り返した私を、喉を鳴らすのを止めたミロが不満そうに見上げた。私はごめんねとミロの顎をくすぐり、それからアレンに向き直った。
「リコを陥れ裏切り傷つけてでも手に入れようとするなんて、とても赦されるようなことじゃない。リコに憎まれるのは当然だ」
そう言ってアレンは力なく項垂れ、けれども力一杯握りしめられた両手が小刻みに震えている。そして私はそれになんとなくしっくりしない引っ掛かりを感じた。
「リコ……」
名前を呼ばれて顔を上げた私は思わずピシリと身体を強ばらせた。私を見つめるアレンの視線はあまりにも力強く、私は絡めとられたように目を逸らせなくなった。『にゃっ!』と小さく鳴いたミロが膝から飛び降りた音がする。でも目で追うことすらできず、私はただアレンを見つめ返していた。
「それでも俺は諦めきれず婚約を解消できなかった。みっともなくても良い。縋り付いてでも……いやしがみついて……齧りついて……何でもいいからリコと結婚したい。何が何でもしたい。俺はリコを愛している。地味で野暮ったい、けれども美しい光を放つ俺の宝石をどうしても手放せないんだ。だからリコ……」
何かを言いかけたままアレンはふっと笑った。力強かった視線は弱々しくなり美しい瞳が悲しげに揺らいでいる。アレンはきっとわかっている。これから問いかけることに私がどう答えるかを。それでも拗れた私達の関係に結論を出すためにずっと言えなかったその言葉をようやく今投げ掛けるのだ。
「愛している。俺の妻になって欲しい……」
こんなに切ないアレンの声は一度も聞いたことがなかった。もう何一つ疑いようなんてない。アレンは私を、私自身を愛してくれている。私の手をそっと握ったアレンの手は微かに震えていて、そしてその震えと共に私への深い想いが注がれているのを、私は確かに感じていた。
それでも首を横に振り『できないわ……』と答えた私を、アレンは優しく微笑みながら見つめていた。
「私は一人の人としてアレンが好きよ。でもそれは男性としてじゃない。私、結婚に夢も希望もなかったし、結婚相手からの愛情なんか望んでもいなかった。でもね、お互いに信じ合える関係ではいたかったみたい。アレンが私を愛してくれたとしても私は違う。そしてアレンへの信頼を失くした私はあなたに寄り添うことすらもないの。そんな私との未来はアレンを苦しませるだけよ?」
「……リコの言う通りだ」
アレンが手放した私の指は凄く寒々しく感じた。
「ミロ?」
どこに隠れていたのか、アレンが呼ぶと尻尾をピンと立てたミロが寄ってきて待ち構えたアレンの手に頭を擦り付けている。アレンは笑いながらミロを撫で、それから抱き上げて私の膝に乗せた。
「俺とリコとミロ、そんな家族になりたいと思っていたが、これからはリコがミロの家族だ。ここでミロと暮らしたら良い」
「え?」
「リコには迷惑をかけたからね。慰謝料代わりだとでも思ってくれ。コニーはブツブツ言ったが俺がいなければなんの問題もない。俺は今まで通り宿舎で暮らせば良い。だから、リコがここにおいで」
「でも……」
戸惑う私の膝からミロが飛び降りた。そして慣れた様子で意気揚々と歩き、そこここに身体を擦り付けて回っている。なんだか『あたしのおうちよ!』と宣言しているみたいだ。アレンはしばらくそれを目で追っていたが、立ち上がるとドアに向かって歩き出した。
「引っ越しはいつでも構わないが今日は送るよ。馬車を廻してくるから待っていて……」
アレンがドアを開けるとすかさずミロが駆け寄って今度はアレンの脚にすりんと身体を擦り付けた。そんなミロにアレンが優しい眼差しを向け、見上げたミロが『にゃっ!』と鳴く。すっかり家族になっているアレンとミロ。ミロは純粋に真っ正直にひたすらアレンが大好きだと全身で伝えている。
そんなミロを目の当たりにした私は、耳元でシンバルを鳴らされたような凄まじい衝撃を受けた。
ふらふら立ち上がった私は何かに突き動かされたみたいにミロを追いかけ抱き上げると、柔らかなお腹に顔を埋めた。
「行かないで…………」
振り向いたアレンがミロに頬を舐められている私に、小さな子どもを宥めるような笑顔を見せている。
「大丈夫、ミロはここでリコが来るのを待っている。だから泣かないで?」
「違う……ミロだけじゃだめ……アレンもここにいて……」
「…………それは無理だな。コニーも言っただろう?」
「違う……そうじゃない……」
音もなく次々とこぼれ落ちる涙をミロは夢中で舐め続けた。
「私……」
しゃくり上げたらもう話なんかできなくなる。我慢しなくちゃと必死な私の頬をミロはせっせと舐めていて相当ヒリヒリしてきたけれど、その痛みがどうにか心を落ち着けられて大きく息を吸った私はしっかりとアレンの瞳を捕らえた。
「アレンと一緒なら本当の自分でいられた。だってあなたは私に色んな感情を呼び起こしてくれたから……私がおざなりにしてきた大切なものを……」
人生を悟ったつもりになって捨て鉢だった私。本当の自分を隠していた臆病な私。でもアレンはそんな私を解放してくれた。アレンの前では素直に笑い腹を立て呆れ、そして傷付いて泣くこともできた。それでも臆病者の私は自分の気持ちを閉じ込めて自覚すらしないようにしていた。それだけじゃない。アレンに対する想いを友情や尊敬だとすり替えて自分で自分を誤魔化していたのだ。
だけど……今になってやっとのことで素直に自分の気持ちと向き合うことができた私は……
「大好きなの……アレンが」
近寄ったアレンがぽすんと私の頭を撫でた。
「わかっている。ミロはすっかり俺に懐いているからね。でもこれからはリコがいれば大丈夫」「違うわ!」
私はブンブンと首を振った。
「ミロだけじゃない……私もアレンが好き……」
「…………え?」
アレンはポカンと口を開け呆然とした。そして焦点の定まらぬ目付きのままパチンと自分の頬を叩くと何故か大慌てで開いていたドアを閉め、額を押し付けるように寄りかかった。
「ミロじゃないのか?」
「ミロは好き。だけど……アレンも好き。だから行かないで……っっっ」
『フギャッ!』と叫んでミロが飛び降りた。まさか押し潰しはしないと思うけれど、振り向くなりガシッと私を抱き締めたアレンに驚いたんだと思う。
「リコ……結婚しよう!」
「…………えーと、でもそれは……一度白紙に戻さないと……」
「何故だ?俺はリコを愛している。リコを失ったら生きる希望をなくしてしまうんだ。もう二度と悲しませたりしない。だからお願いだ」
「わかるんだけど、ちょっと冷静になって!」
私はアレンの手を引いてソファに並んで座った。
「リコは俺を一瞬だけ天に昇らせてあっさり地獄に突き落とすつもりなのか?」
アレンの両手にほっぺを挟まれてまたしても私のお口はアヒルちゃんの嘴だ。それでも渾身の力を振り絞り可能な限りぶるぶると首を振ると、ちょっとだけ……口を動かせる程度には力が緩んだ。
「そうじゃないの。ただ現実的に考えてみてよ。偽装婚約だったんだから手続きが済んでいないでしょう?書類を出すだけって言ってももう時間がないもの。お式は一度白紙に戻して色々準備しなおさないと」
「何故?」
「何故って……だからあの婚約誓約書は偽造書類だもの。先ずは婚約を認められなきゃ挙式はできないでしょう?」
「本物だが?」
「へ?」
アヒルちゃん故に大したポカンにはならないが、それでも私は呆然とした。
本物?あの偽装婚約式で記入した偽装の誓約書が本物?
「リコは知っていたじゃないか。自分で『本物だ!』って騒いでいたぞ?それに『本当に婚約しちゃいます!』とも言っていたし」
「…………うぅ」
そうだった。署名台に置かれた書類は本物で誰あろう私が、両面を何度もひっくり返すだけじゃなく透かしを陽にかざして本物だと確認した。そして『本当に婚約しちゃいますってば!』と焦る私にアレンは一言も否定はしていない。ただ『何も心配いらない』と答えただけだ。
つまりこの私が偽装と信じてきた婚約こそが……
「指輪に誓ったプロポーズをリコは受け入れてくれた。『このプロポーズは偽装だ』なんて一言も言っていない。俺は伯母上の望み通りリコの王子様になり、正式に結婚を申し込んだ。俺の気持ちには偽る気持ちなど欠片もない。始めからこの婚約は偽装なんかじゃないんだ」
「ふぐっ!」
今度こそ罵ってやろうとしたが察知したアレンが手に力を込め、私はまた言葉を失った。しかも意地悪そうにニヤリと笑ったアレンはアヒルちゃんの嘴に強引にキスをした。
「大事なファーストキスなのに……」
涙目で睨む私に悪びれることなくアレンは額にもキスをした。
「ウィリアム王子には許しているじゃないか」
「そうだけど……」
実は王子はキス魔である。虫歯になるからやめなさいと口煩く言う妃殿下はもちろん、乳母や侍女にもお見舞いしてくる。そして一番奪われているのはついついメロメロになってしまう私だ。
「それなら……」
アレンの手から力が抜け優しく頬を包み、そっと触れるように唇が寄せられた。けれどもそれはすぐに情熱的なものに変化した。記憶があるとは言ってもブランクの長い私は忽ちクラクラしてしまったのだが、いつの間にか戻ってきたミロが『にゃーん』と鳴きながらアレンの足元にこつんこつんと体当たりをしたせいで解放された。
「なんだミロ。邪魔するなよ」
そう言いながらもアレンは抱き上げたミロを優しく撫でている。
「いいのよね、ミロは家族だもの。アレンと、そして私のね」
「そうだな。そしてミロが一緒にいてくれたからこそ俺達は家族になれた」
「なんで?」
「子は鎹的効果と言っていた。リコにとっては猫も鎹だと。だからミロの同席は必須だ……意味はさっぱりわからなかったが、妃殿下は自信がお有りの様子だったな。そしてミロは妃殿下の期待を裏切らないいい仕事をしてくれたと思う」
「あー……」
ウィリアム王子と同じ手口か……と苦々しく思うと共に、まんまとやられている自分が情けない。
それでも良い。
ミロは私達を家族にしてくれたのだから。




