アリだ。大いにアリだ!
ここはひとまずミロをアレンに渡した方が良いのだろうか?でもなぁ、ここに来るのが憚られたせいですっかりミロネッコ不足の私と違い、アレンは会おうと思えば好きなだけ会えたのに。それなのにもうミロを渡さなくちゃダメなの?
ん?待って。
私はミロをギュッと抱きしめてツツッと1メートルほど飛び退いた。
「リコ?」
「嫌よ!」
一気に冷たく凍りついたみたいにきゅーんとなった心臓の製で息が苦しい。声が上ずって震えたがそれでも私はキッパリと言い放った。
私は子猫のミロを引き取るつもりで準備をしていたけれど、具体的な話はしていない。ミロをうちのコにするって決めた時、婚約が取り消しになったら私が連れて行こうと心に決めただけだ。
だけどあの時アレンも私が抱いていたミロにメロメロで、これは親権争いになりそうだな、なんて不安が頭を過ったではないか。アレンがここに呼び出した理由って、もしかしたらミロネッコの親権について話し合う為!?
なるほど、それならこの話し合いが別邸で行われるのも合点がいく。というか、それが一番しっくりくる。アレンは本気だ。ミロネッコの親権だけは何がなんでも譲らないつもりなんだ。
そうはさせない。ミロネッコは絶対に渡さないんだから!
「リコ?」
武者震いだろうか?その話し合い受けて立とうじゃないのよ!と小刻みに震える私を、アレンはもう一度不安そうに呼んだ。
「ミロはうちのコよ!」
「え?」
アレンはポカンと口を開けている。やっぱりそうか。ここはアレンの家になるのだしミロはこの家の厩舎で保護された。だからアレンは当然のようにミロを自分のコにするつもりなんだ。でもそれが何?親権を取る根拠になんかならないよね?
「ミロは私の家族なの!」
じんわりと滲んだ涙で視界が歪み情けない鼻声になった。
それでもミロの親権は断然アレンに有利なのだ。ワンルームの私の部屋と名門貴族ベンフォード侯爵家の別邸。日中は仕事で留守にするしイベント前には残業続きになる私に対して、アレンはもっと多忙だけれどこの家にはマリアン達がいる。保護した時よりも毛艶が良くなり丸々しているのも丁寧に世話をしてくれているお陰に違いない。多忙で殆んど家にいない母親と多忙ながら育児を任せられるお手伝いさんがいる父親なら軍配は断然父親だ。経済的にも環境としても私には勝ち目がない。そしてそして、当然の事ながらミロは私の実の子ではない。猫のミロと私には母子の絆という決め手すらないのだ。
次々と涙が零れ落ちる頬をミロがペロペロ舐めている。別にこれ、慰めている訳じゃないのは知っているけれど、それでも私は胸が一杯になった。もうプライドも何もどうでも良い。ミロを手放すくらいならなんだってする、してみせる!
「アレン、お願い……」
私はその場にペタンと座り込みしゃくりあげながらアレンを見上げた。
「ミロネッコを……私から奪わないで……」
「………………一体何を言っているんだ?」
「私、大切にするから……お留守番はしてもらわなきゃならないけれど、休憩時間には必ず様子を見に戻るしどんなに疲れていても仕事から帰ったら思いっきり遊ぶわ。それに夜は私のベッドで一緒に寝るって約束する……」
アレンはまた『ゲホっ!』と
咽た。この人、やっぱり一度検査を受けるべきじゃなかろうか?
「同じ……ベッドで……」
「そうよ、換毛期で無限に毛が抜けたって平気。毎晩抱っこして寝る、絶対よ!」
アレンはまた激しく噎せた。収まったように見えたが我慢していただけだったのだろうか?
マリアンが持ってきたコップの水を飲み干し、アレンは大きく肩で息をしてから口を開いた。
「つまりリコはミロを引き取りたいと、そう言っているのか?」
親権に関する話し合いに呼び出しておきながら今更何をと私は思わず顔を顰めた。
「ここに比べたら環境が良くないのは認める。でもその分愛情を掛けて大切に育てるわ。だからお願い……ミロと、ヒャヒャっ!ミロネッコとヒャヒャヒャっっ!離れるなんて……ヒャっ!嫌……絶対に嫌なんだもん……ヒャヒャヒャヒャヒャっっっ!」
私は本気で泣き出すと息がヒャヒャヒャヒャってなって上手く話せなくなる。だから何を言わんとしているか通じないのではという不安で益々涙が溢れたが、言わんとしている内容は傳わったらしい。
「だがミロはここが自分の家だと思っているぞ?昼寝をするお気に入りのソファも決めているし、食事の時間には厨房のドアの前で座って待っている」
「だ、だけど……ヒャヒャっ!」
厳しい顔で諭してくるアレンはやっぱりミロを手放すつもりは無いのだろう。そしてホントは私だってわかっている。ミロにとって狭い私の部屋よりもこの屋敷の方が何倍も良い環境なんだって。
とうとう声を上げて号泣し始めた私にマリアンがタオルを差し出し背中を擦ってくれた。
「ほらほら、そんなにないた目が腫れてしまいますわよ?美人が台無しではありませんの!」
「ヒャっ!……美人なんかじゃ、ヒャヒャっ!ないもん。パッとしない、野暮ったいヒャヒャヒャっ!田舎者なのよ」
隣にマリアンが腰を降ろすとすかさずミロがその膝にピョンと飛び乗った。そう、ミロは可愛がって世話をしてくれるマリアンが大好きなんだ。私よりもずっと。
諦めなければとわかっていてもやっぱり涙は止まらない。どうせほぼほぼノーメイクで化粧崩れの心配なんかないのだ。私は恥も外聞もなく泣きじゃくった。
「……リコ……」
いつの間にかアレンが直ぐ側に膝を付き私の顔を覗き込んでいた。
「ヒャック…………ナニ?」
「間違いない。リコは……リコはパッとしない田舎者なのかも知れないが」
「自覚しているのに……ヒャっ……念押し……ヒャヒャっ、しなくても良くない?」
自分で言うのと人から言われるのは全く次元が違う。ムスッとした私に何故かアレンは優しく微笑んだ。
「だが……パッとしない田舎者でもとびきりの美人だ!」
「それは……ヒャっ、どうもっ!」
こんな私と偽装婚約しなきゃならなかったのが苦痛だったクセに言ってくれるじゃないか!
私はアレンを一睨みし立ち上がろうとした。だがそれよりも早くアレンに両手を取られた。
「今度は……ヒャヒャヒャっ、ナニ?」
「ミロと暮らしたいか?」
アレンが射抜くように私の目を見つめている。だから見ての通りだって!じゃなきゃいい年したアラサーの大人が……というのは中身の方だけど、それでも19の社会人が人目も憚らず泣く訳がないじゃないか!
悔しさにまた涙が溢れほっぺは滝状態だったが、そろそろ泣き疲れた私は文句を言うのも億劫で黙って首を縦に振った。
「それなら」「ダメですよっ!」
雷鳴のような叫び声に驚いて振り向くと別人のように目を吊り上げたコニーがアレンを睨み付けていた。
二度びっくりだ。一体いつの間に現れたのか?
「マリアンから知らせを受けて馳せ参じてみれば……」
つかつかと前に進み出たコニーの背中から物凄い怒りのオーラが立ち昇っている。でもさ……
何があなたの地雷だったのか私にはさっぱりわからないのですが。
「アレン坊ちゃま!人としてやって良いことと赦されぬことがございますでしょう!」
「…………」
アレンはお説教を感知した子どもみたいに後ずさった。しかも何も答えられないってことは何か赦されない事をしようと企てた訳ね。
絶叫に驚いたらしいミロがアレンの肩に飛び乗って『落ち着けアタチっ!』と言わんばかりにシャツで爪とぎをしている。子猫の小さくて薄っぺらい爪だから余計に痛いらしく、アレンは眉をしかめながらも優しい手付きでミロを持ち上げて床に降ろした。
ほら、上質なお高いシャツで爪とぎをされても叱りもしないのよ?アレンの溺愛ぶりが手に取るようではないか。っていうか、そこはキッパリ『駄目なものは駄目』と躾けるべきかなと思いますが。尻尾をピンと立て意気揚々と立ち去るミロを視線で追いながら私はそう思った。
「こんなにミロを欲しがっているお嬢様にミロと暮らしたいかなんて!よくもまぁそんな卑劣極まりない事がっ!」
コニーの声が鼻に掛かっている。泣いてる?泣いてるのかな?でもどうして泣いてるのかな?実際私ミロネッコを引き取りたいのですよ。大概のことなら耐えますから、取り敢えず取引きを持ち掛けられているのなら内容を聞いてみたいんですけれど。
なんかすんごい怒っていらっしゃるけれどこの人は真面目人間ですからね。そうそう人の道に反した話はしないと思いますよ?等と考えながらこっそりアレンの顔を伺うと、思いっきり目を泳がせバツが悪そうにしている。ちょっと、いや、かなり嫌な予感がするような……
「わかっておりますよ!だったらここでミロと暮せばいい、そう仰るおつもりですわね!?」
エッ?それってここに下宿したらどうだっていう提案なのっ?
『それは……』等とアレンは口ごもっているが決して悪い話ではない。名門侯爵家の別邸を甘く見てはいけない。例えるならホテルは無理だろうがペンションくらいならやれちゃう規模の建物だ。客間が複数あるのも把握済み。お家賃に上乗せしてマリアンにごはんを食べさせて貰うこともできるかも?丁度城の食堂のご飯にも飽きて来たんだよね。
アリだ!快適な住まいに美味しいご飯、そして可愛いミロネッコ。多いにアリだ。今後のアレンの婚活に影響がないとは言い切れないが、ミロと暮らすためならそんな些細なことを気にしてはいられない。形振り構わず突き進むのみである。
よし、乗ろう。交渉開始だ!
そう思ったのだけれど、立ちはだかるコニーの背中から立ち昇る怒りの炎が勢いを増しているのはなぜでしょう?
「恥を知りなさい!」
絶叫し仁王立ちになった後ろ姿が明王に見える。なんでそんなに怒ってるのか全然わからないけれど、とにかくコニーはめちゃめちゃ怒っておられる。
「ミロを口実にするなんて、そんな卑怯なやり方このコニーは見過ごす訳にはまいりません」
ミロを口実にってなんだ?
考えようにも大混乱の私の頭はギコギコとしか動かないのでもう放棄しようと思う。どうせコニーのお説教で内容がわかるだろうし黙って見物することにする。
「……卑怯だと罵られても良い。探して探してやっと見つけたんだ。俺にはどうしても手放すことなんてできない」
コニーを見上げながらそう言ったアレンの声は力なく掠れている。そうか、アレンは元々猫好きでピンとくる猫を探していたけれど中々見つからず、やっと出会えたのかミロだったってわけね。きっと女性に限らず何かとチルチルミチルなタイプなんだな。ミロにメロメロなのは気がついていたがそこまでの思い入れの深さだったとは。何が卑怯なのかは皆目見当が付かないがとにかくアレンもミロと離れたくないのはわかった。だからミロのお家はベンフォード別邸、どうしても一緒に暮らしたきゃ下宿すれば?っていうアレンの提案なんだろう。
「だったらお気持ちを正直にお伝えになれば良いでしょう?何を戸惑っておられるのです!」
「わかっている!しかしもし拒絶されたらと思うと……まるで首を締められたように何も言えなくなって……」
アレンは床に両手をついてがっくりと項垂れているが、コニーは追及の手を緩めるつもりはないようだ。
「お情けないっ!全ては坊ちゃまの意気地の無さが招いたことなのですよ!姑息なやり方で逃げ道を塞いで雁字搦めにして。それも愛情の深さ故と察する勘の良いお相手ならばまだしも、このお嬢様はまるで真逆だとご存知でしょうに」
?……このお嬢様って私のことですかね?突然何のお話が始まったんでしょうね?




