飛ぶぞ?
私がトラウマとして利用しているトラブルは大して物騒なものじゃない。
女官になったばかりの頃、ある夜会でダンスを申し込んできた男性がいた。身長こそ若干低めだけれどちょっとタレ目なのが可愛らしい、優しげな笑顔の美青年だ。
私達はダンスを二曲続けて踊った。そして外の風に当たろうとバルコニーに連れ出された。どえらくあからさまなモーションである。この時ピシャリとお断りするのを躊躇ったのを、私は後々後悔することになった。
16歳の小娘に見えても脳内は28歳。ダダ漏れしてくるコイツの下心にピンと来ない私ではない。どこで知ったか知らないが、私が妃殿下の息のかかった女官だと勘づき、知名度が低い今がチャンスだと近付いたのだろう。女官だけでもオイシイのに妃殿下のお気に入り。それなら冴えない実家も地味な見てくれもどうでも良いじゃないかと思う気持ちもわからなくはない。わからなくは無いから一応付き合ってはやった。脳内28歳のお姉さまの温情だ。でもそんな理由で取り入ろうとしたヤツに深入りするなんてお断りだ。
私は初心過ぎて超鈍感な16歳になりきった。熱のこもった眼差しも頬に添えられた手も髪を滑る指先も、全てに対してキョトンを貫いたのだ。そしてとうとうヤツは渋々引き下がった。
ちょっと口説いてキスでもしておけば小娘なんて簡単にオチると高を括っていたのに、いかんせん反応が鈍過ぎる。このまま突き進んだら怖がらせかねない。こりゃだめだ、一度引いて少しずつなびかせるしかないだろうと思った……後に自爆して洩らした話によるとそんな事情だったようだ。
解放された私は疲れていた。何が何でも落としてやると意気込むヤツの必死さに、笑いを堪えるのが大変だったんだもの。それでちょっと休憩しましょうと廊下の隅に置かれたソファに座り込んだのだが、ヤツはとことん不運らしい。
大きなキャビネットの死角になり誰かがいるとは夢にも思わなかったのに、よりによってその誰かが私。それなのに全く気付くことなく連れ立って来た友人と直ぐ側で立ち止まり、イライラと話を始めてしまったのだから。
「ちょっと恥じらうくらいなら初々しく可愛らしいが、何をされても意味すら理解できないとは、あの女はどんだけアホなんだ!」
唸り声を上げ腹立ち紛れに花瓶に生けられた花を引き抜き投げ捨てる。ヤツは予想以上のクズだった。
「この俺が迫ってやったんだ。しかもこっちは休憩室に連れ込んで一気にコトに及んでも構わないとすら思っていたんだぞ」
なんか有り難がれと言われているようで非常に不愉快な発言だ。確かにアンタの顔がそこそこ良いのは認めるが、この俺がと言われる程ではないと思うのだけれど?
それからもヤツは罵詈雑言を吐きまくった。例のキスすりゃ簡単発言に留まらず、落とすまでの手間を思うと気が遠くなるとか面倒くさいとか。こちらとしては別に頼んでないしむしろ断固お断りだ。なのにどうして一々恩着せがましいのか甚だしく疑問でしかない。
「あんなに鈍いんだ。そういう感度も悪いに決まっている。ゴロンと転がっているだけで楽しませることの一つもできないつまらない女に違いない。あれでは妻にしたところで愛人でもいなきゃやっていられないな」
『…………なっ、何言ってんのっ!』
咄嗟に両手で口を抑えて声を圧し殺したが、それでも腹の底から沸き上がって来る怒りでぷるぷると身体が震えだした。
これはダメでしょ?何決めつけてくれてんの?脳内28歳をナメるんじゃない!
年相応に恋愛経験有りだぞ?付随してそれなりの経験も有りだぞ?そこそこ色んなコトを知ってるぞ?試してみるか?
飛ぶぞ?
徐ろに立ち上がった私はコツコツとヒールを鳴らしながら二人のいる方へと歩きだし、目の前で立ち止まった。腕を組みつつじっと見上げると、ヤツは気まずさで狼狽え逆ギレ気味に睨み付けてくる。
「残念でした。生憎と全て不正解ですよ」
「は?」
詰られると思ったのだろう。ヤツは思わぬ言葉を掛けられてポカンとしている。
「意味なら全部理解していましたが?必死に口説こうとなさっているのに門前払いもなんだなぁと気を使って差し上げたのに気付かないなんて、どんだけアホなのでしょうか?」
「……なっ!」
「どうにかキスに持ち込めないかと隙を狙っているのも見え見えでしたし、休憩室の方をチラ見しているのもバレバレでしたけど?ですがあなたにも羞恥心と言うものくらいはおありでしょうから、無闇に傷付けるのもお気の毒だなとわざわざすっとぼけておりましたの。多少は気が付かれたかと思ったのですが……相当鈍いのですね。と言うことは?」
そこまで言ったところでとうとう耐えきれなくなって私はプッと吹き出した。
「悪いけど……演技しなきゃダメなんて、面倒くさいからお断りです」
表情も言葉も無くしヤツは呆然としていた。隣にいた友人もよっぽどびっくりしたのかビシッと固まっていて、それはなんか、驚かせてごめんねだ。
では、とにこやかに告げて私はその場から立ち去った。
報告を受けた妃殿下は激怒した。ヤツはうだつの上がらない文官で、私と結婚し一発逆転の大出世を目論んでいたらしい。それでも強引に何かをやらかした訳じゃないし、面倒くさいとぶーたれつつも落とすまでに手間をかけるつもりではあったのだ。
クズだけど誠意はある……ような気がする?
結局ヤツへの表だったお咎めはなく、この一件を噂として流し注意喚起するだけに留めた。この先純真無垢なホントのネンネちゃん達が被害に遭わなければそれで良いのだ。けれどもヤツが好条件の縁談を掴むのは絶望的だろう。
それにしても、転生したからってメリットなんか一つもないと思っていたが、思わぬことが役立つものだ。クズを撃退しただけじゃなく厄介な夜会を回避する口実も作れたんだものね。
そのせいで妃殿下の心労を益々募らせてしまうのだけれど、別に私に結婚願望が無いわけではない。妃殿下こそがハードルを上げているその人なのだから自業自得なのである。
敢えて言おう。
アンジェリーヌ妃殿下は、脳内お花畑の夢見る夢子ちゃんであると。
勉強して勉強して努力して努力して、脇目も振らずに走り続け燃え尽きた結衣ちゃん。そんな彼女は生まれ変わり恋をして、大好きな人と永遠の誓いを交わした。そして見事に幸せボケを発症した。しかも完治の見込めぬ重症だ。
貴族とくれば政略結婚。この国でも恋愛結婚は珍しい。そんな中、未来の国王が幼馴染との恋を育み妃に迎えたなんて、我が国の王太子殿下のご成婚は稀に見るケースだ。
『私、彼に会うために生まれ変わったんじゃないかと思うの』
優秀で美人さんなのに男っ気皆無だった結衣ちゃんが、そんなことまで口走るとは。しかも結婚三年、パパとママになった今でも三日に一度は聞かされるなんて。
恋って怖いっす。
だけどそれが妃殿下自身のことならば一切文句なんかない。幸せ一杯夢いっぱい!良きかな良きかな、だ。しかしながら問題は自分が幸せだからってそれを私にも強要しようとするところである。
そう、妃殿下は断然恋愛結婚推しなのだ。
にも関わらずその布石として無理くり女官に押し込めば、封蝋に明け暮れ執務室に篭る毎日で。夜会で売り込めと言いたいが、手心で女官にしたせいでクズに言い寄られてトラウマを作る。転生して恋の素晴らしさを知ったからには、同じ転生者の私にも是非恋愛経由で幸せになって欲しいという妃殿下の想いが、完璧に空回りしている。
私も行き遅れは回避したい。ついては政略結婚だろうが見合いだろうが構わない。ついでに実家の両親もどうでも良いと思っている。恋愛結婚に拘っているのは妃殿下一人だ。
「縁談なんて持ち込まれてご覧なさいよ。『美味しいから食べてみて』ってお菓子を勧められたのと同じスタンスで、『では頂きます』って簡単に受けちゃうに決まってるんだから!」
仮定の話でプンスカされても非常に困るのだが、強ち否定はできない。婚活らしい婚活もせず勝手に縁談が転がり込むなんて、こんな手間いらずを有り難がらずにいられようか?しかもありとあらゆるプロセスをすっ飛ばして即婚約、即日取り決め。挙式までの期間も大幅に短縮できるのだ。かなりおいしいと思うけどな。
「ダメよ、絶対にだめ。そんな結婚は許しませんからね」
何も言わなくても顔を見れば解りますと、目をカッと見開いた妃殿下が唸る。
「まったくもう。仕事に夢中になってすっかり干からびちゃって!彼氏の一人もいなくてどうするのよ!一生一人でいるつもりっ?」
「なんか……絹枝おばさんみたいよ?」
結衣ちゃん、よくこんな風に親戚の絹枝おばさんに絡まれてたな。あの時はニコニコ聞いてるけど目が死んでて、さぞウザがってるんだろうなって子ども心に同情してたのに。
転生先で絹枝化するなんて酷くない?
「っ、全然違うわよ!絹枝おばさんのは単なる価値観の押し売りじゃない!私は梨子ちゃんに幸せな結婚をして欲しいだけなのっ!」
膨れっ面の妃殿下よ。典型的幸せボケなあなたがなさっているのも、間違いなく価値観の押し売りです。