雨で濡れた水玉模様
戻ってきたアレンが残りのアップルパイを食べ終わり、私達は帰路につくことにした。
「次にいらした時には若奥様と呼ばせて頂けますわね」
お土産にと包んだアップルパイを手渡しながらコニーが目を潤ませ、ロバートはそれを優しく見守っている。アレンへの溢れんはかりの愛情と喜びにはち切れそうな二人の笑顔に、曖昧な返事しかできない私は無理やり口角を引き上げて見せた。
街道に出る角を曲がるまで二人はずっと手を振っていた。膝の上の包はまだほんのり温かい。まるでアレンを慈しむコニーの気持ちみたいだ。遠くの山の向こうに広がる真っ赤な夕焼け空をボーっと眺めている私の胸の奥で、さっきら絶え間なく何かが暴れている。
これまで考えもしなかったけれど、私達は作戦の為に沢山の人達を欺いた。そして私はそれに対する後ろめたさなんて少しも感じてはいなかった。だってこれが作戦上必要な偽装婚約だったと知っても、『おやおやそうなのか』で終わる人ばかりだから。私達が騙したのはその程度の関わりしかない人々だ。
膝の上のアップルパイが少しずつ冷たくなっていく。私はたまらなくなって思わず溜息を吐いた。
「疲れたか?」
私はゆるゆると首を横に振った。
「良いところね」
「そうだろう?秋には林檎狩りが出来るから、リコを連れてくるようにとコニー達が楽しみにしていたよ。だから、また一緒に行ってくれるか?」
秋……か。どの面下げて私を連れて行くつもりなんだろうと、アレンらしくない間抜けさに乾いた笑いが込み上げてきた。でもそうだ。私は、私とアレンはこのままじゃいけない。
アップルパイの包みを指で撫で、それから私は思いきって顔を上げた。なんとなく笑顔でと思ったが、油が切れたようにぎこちなく思うように表情筋が動かない。
「そうね。また……連れて行って。そして…………二人で謝りましょう?」
多分私は泣きそうな顔をしていたのだろう。ゆっくりとこっちを向いたアレンもギシギシと軋むように顔を強張らせていった。
「リコ?」
「ロバートとコニーは他の人達とは違う。アレンを想い幸せになって欲しいってずっとずっと願っていたはずよ?あの二人は、傷付けちゃいけない人達なの。それなのに……」
ゆっくりと見開かれたアレンの瞳が小刻みに揺れている。オレンジ色の夕日を受けて複雑に変化したその色はとても美しく、そして哀しかった。
「これは囮捜査だって、どうして二人に教えなかったの?」
教える必要なんてないと言われればそれまでだ。私達は挙式を目前に控えた婚約者同士だという設定の真実味を増すために を訪れたのだから。でも、あの二人なら協力を仰いでも上手くやってくれるだろうし、裏切る心配なんてない。何よりも、これが偽装婚約だと知ってがっかりさせたり悲しませたりせずに済んだのだ。
アレンは狼狽えているのを誤魔化すかのように視線を前に戻し、『そうだな』と小声で言うなりじっと考え込んでいた。
「ロバート達に喜んで欲しい……わたしはそれしか思わなかった。わたしは宝石を見つけたと、そして幸せを掴んだのだと……二人には純粋に祝福してもらいたい、それだけしか」
重い口振りのアレンの言葉に思わず空を見上げた。二人はアレンがお嫁さんを連れて来るのを楽しみにしていた。それは私にも痛い程伝わってきた。だからって後の事なんて考えず一時凌ぎの幸せを見せて喜ばせるなんて、アレンはそんなに思慮の浅い人間だっただろうか?
でもアレンはそれを選んだ。そして私は二人を落胆させると気が付いていながら何も明かさずアレンに同調した。それなら私にも咎はある。
「あんなに喜んでいたんだもの。これが偽装婚約だと知ったら相当気落ちするに決まってる。だからせめて謝りたいしアレンにも謝って欲しい」
「リコ、それなら……」
アレンはそこで押し黙り、馬車の車輪が回る音だけが耳に響いた。思わず力を込めた指に、アップルパイの包みがカサリと音を立てる。
アレンがこちらを向き、絡め取るような眼差しを私に注いだ。
「このまま、わたしの妻になればいい」
私はギュッと眉間を寄せてアレンを見つめ返した。冗談を言っているわけではない。それは確かだ。
「結婚も偽装して、そしてまた二人を騙すの?」
「そうじゃない。言った通りだ」
アレンの冷たい指が私の指に絡み、その存在を確認するかのように婚約指輪をスッと撫でた。
「このまま、わたしの妻になって欲しい」
「本気で言ってるの?」
「もちろんだ」
咄嗟に引いた指はしっかりと絡められていてびくともしない。そうか、そういうことか……
勝手に育てていたアレンへの信頼が、砂のお城のように脆く崩れていく音が聞こえるような気がした。
「ジョルジュと何が違うの?」
「え?」
「何が違うのよ、ジョルジュと同じでしょう?」
思いっきり引き抜いた手でアップルパイの包みを抱きしめて、怒りと軽蔑を込めた目でアレンを睨んだ。
「そうよね、これだけ側にいたら案外利用価値が有るのに気が付かないわけがないもの。結婚するのも悪くない、そう気が付かない方がどうかしてるわ」
馬車はもう王都に入り人通りも多い。怒鳴りつけたいのを堪えながら話す声は所々震えていた。
ジョルジュが目をつけたのは、私が妃殿下の一存で女官に採用された親戚筋の娘だからだ。しかしアレンは囮捜査で行動を共にするうちに、それだけじゃないことに気づいたのだろう。
私自身は冴えない見た目のパッとしない伯爵家の娘でしかない。けれども後見人は有力貴族であるベーゼン侯爵夫妻だ。妃殿下はもちろんのこと、殿下にはお兄様と名乗るほど構われて、ボードリエ公爵夫妻にも目を掛けられていることが、この偽装婚約で次々と明らかになった。
なるほど、確かに私はアレンが見つけた宝石だったのだ。ただの転がっている石ころを拾ってみたら、思わぬ光を受けてピカピカ光り出した粗野で下卑た見せかけだけの宝石……
横から手を伸ばして手綱を掴みグッと引くと、馬は嘶きながら脚を止めた。こんなことをするとは夢にも思わなかったのだろう。驚いて言葉を失ったアレンを無視して私は馬車から飛び降りた。
「後はどうなってももう知らない。悪いけど私、これ以上付き合う気はないから」
「リコ!」
踵を返した私をアレンが呼んだ。
「好きだっ!」
背中に向かって叫んだ声は切羽詰まったように聞こえたけれど、それが何だと言うのだ?今さら取って付けたように好きだなんて言われて、素直に信じるほど私は間抜けじゃない。
振り向きもせずに小走りに大通りを突っ切り、人々が行き交う小路へ飛び込んだ。人の並を縫いながらどんどん奥へと進んだが、とうとう息が上がりふらふらと商店の壁に寄りかかった。ドキドキと煩いくらいに暴れている心臓のせいで胸が痛い。
パタパタと音を立てたアップルパイの包みを見下ろすと、降りだした雨に濡れたように水玉模様が出来ていた。けれども見上げた空には登ったばかりの月が白い光を放っている。それなのに増えていく水玉模様の正体に私はようやく気が付いた。
ごしごしと目元を擦ってもう一度月を見上げ、私は一人歩きだした。
「もう何もしないって……どうしたのよ、梨子ちゃん!」
久し振りに一日中執務室に籠り一歩も外に出ずに封蝋に明け暮れ、それでも作業が終わらずに残業していた私を不審に思ったのだろう。一度は出ていったものの様子を伺いにきた妃殿下に何があったのか追及され、私はやけっぱちになり全部白状した。
「私にも我慢の限界があるの。申し訳ないけれど、もう私一切協力はできないから。何なら偽装婚約はそのままにしていても構わないわよ?でもこれ以上アレンと関わるのはお断り。特別ボーナスは諦めたから」
「でもね、好きだって言われたんでしょう?」
私はそれが何だと白けた顔を上げた。
「大きな魚は逃がしたくないものね。しかも雑魚かと思って糸を手繰ったら想像を遥かに越える大物だったのよ。どうにかしたくて一か八か叫んでみたんでしょ?」
「梨子ちゃん……」
それでも妃殿下はまだ何か言いたげだ。何かというよりも、アレンのお望み通りこのまま惰性で結婚に突入しちゃえば良いのにと思っているに違いない。だって婚約は周知されているし、とんでもなく短い期間だったにも関わらず挙式の準備も恙無く進み後は良き日を迎えるばかり。何よりもアレンは好条件の結婚相手で二度とこんな機会には恵まれないだろう。未練が経ちきれないのも理解はできる。
だけど嫌なものは嫌。裏切ったアレンと一生偽装夫婦として生きていくなんてお断りだ。
「あのねぇ、婚約者の振りをしているアレンは気の毒になるくらい我慢に我慢を重ねていたのよ?それなのに、思いの外利用価値がありそうだから結婚しようだなんて、あり得ないから」
「我慢は……まぁ色んな意味であったらしいけれど……でもね?」
「でもも何も本人の為にもそれが良いの。能力の高さは認められているんだから、変な欲をかかないで自力で頑張れば良いじゃない?それにアレンならちょっと匂わせただけでゴロゴロ縁談が転がり込むだろうしね」
「転がり込むのは間違いないけれど……うーん、困ったなぁ」
「何が困るのよ?きっと直ぐに綺麗な奥さんを見つけて、私に感謝の祈りを捧げるわよ!」
「あのね、梨子ちゃん。アレンはね……」
妃殿下はそこまで言うと何度も何度も何かを言いかけては躊躇するように、口を開けたり閉ざしたりを繰り返した。そして大きな溜め息と共に首を大きく横に振り疲れきった顔をして立ち上がった。
「やっぱり私が口を挟むことじゃないわね。これはアレンが悪いわ」
「だから言ってるでしょう?全部アレンが悪いの。私は信頼できる友達だと思ってすらいたのに、それを台無しにしたのはアレンよ。私に反省なんか求めるのはお門違いだってば」
「反省とかそういうことじゃないけれど……梨子ちゃんは斜め上に行っちゃうしアレンは信じられないくらいにヘタレだし。でも……お似合いだったのになぁ」
良くわからないことをぼやいた妃殿下は、『キリの良いところで終わらせるのよ?』と言い残して出ていった。そしてこれ以降、特殊任務を投げ出したことについて触れる人は一人としていなかった。




