New Ballgame その二
巨蝶の鱗粉の人為的空中散布は、失敗の歴史だ。
ものの本によると、風術に乗せて敵陣に大量散布したら相手方の風術にあっさり散らされたのみならず、そもそもが広い戦場では、鱗粉の密度が薄くなりすぎて、指先が少し痺れるくらいの被害がせいぜいだったそうな。戦では真っ先に狙われる亜竜がバカスカ落とされて友軍の頭上に鱗粉をばら撒いた、なんて事例もある。投石機などで射出した試みもあるが、鱗粉入りの小樽が地面を弾んだだけで終わり、壊れやすいように細工した樽は射出の衝撃で四散するか、敵陣に届く前に空中分解し、樽を袋に替えたら扱いがもっと難しく……
加えて、蒸留水に溶かして濃縮した加工液とは異なり、未加工の鱗粉は弱毒性。
冒険者は身に覚えがあるだろう――不注意か何かで巨蝶と接近戦を演じ、鱗粉を大量吸引したとしても、体に力が入らなくなるのは約五分後(種族差・男女差・体重差・体質差あり)。ふたたび力が入るようになるのはそのまた五分後。直前まで自覚症状がないので急にガクっとくるけれど、不自由な状態は長く続かず、後遺症も残らない。要は、鱗粉の小袋を咄嗟に敵兵に投げつけるくらいなら、石ころや兜のほうが断然役に立つ。
こうした諸般の事情により、軍事利用では日の目を見なかった。
一方、その安全性に着目した組織がある。
日夜犯罪と闘う、警備隊だ。
警備隊の常套手段は、容疑者の自宅や隠れ家の煙突、鎧戸の隙間、通風孔などから鱗粉を風術に乗せて少しずつ送り込み、時間をかけて屋内を飽和状態にしたのち、素早く換気して、ぐにゃぐにゃの対象を捕縛。
もし警備隊が知ったら気分を害すだろうけれど、前々回の拉致で、ぼくは彼らの手法を模倣させてもらった。民間での取り扱いが禁じられている未加工鱗粉の出所は、足のつきやすい闇市ではなく、自己調達。そのとき倒した巨蝶は三羽。デカい羽から鱗粉をこそぎ落とす作業中に何度も麻痺を味わったけれど、師匠のしごきに比べたら屁でもなかった。
ともかく、まだ手元に約二パウンド残っている。
ともかく、今回も模倣しない手はない。
今や山荘では夕餉が終わり、風呂の支度が整えられ――
食後のくつろいだ時間、国王の懐刀と称されるアグリフ・プレトマイア侯爵は、一三歳には届いていないように見受けられる少年と二人、居間の暖炉の傍で安楽椅子に座っていた。湯上りで化粧着姿の侯爵の手には葡萄酒の杯。馬丁見習い風の出で立ちの少年は紅茶か何かの杯。
王立美術館で観た肖像画には後光が射さんばかりの威厳があったけれど、実物のアグリフ・プレトマイア侯爵は中年の坂をだいぶ下った普通の男だ。あの特徴的な鷲鼻がなければ、肖像画家氏の絵画技法上の化粧直しのせいで本人とは認識できなかったかもしれない。
ぼくは小さな庇の上に立って採光窓越しに二人を窺った。室内の会話は聞こえないものの、手の甲に接吻したり膝を撫でたりする様子を見れば、侯爵が古代東方諸国式少年愛の実践者なのは明らか。食事の最中からずっとこんな調子だ。
採光窓を音もなく半インチ押し上げたとき、声変わり前のアルトが漏れ聞こえた。
「我らの夜は長い。先にお清めを済ませたいのだが」
上流階級の抑揚、対等な言葉遣い――少年も高貴な出のようだ。
その声に緊張の色がある。
「ごゆるりと」侯爵が喉の奥で笑うような柔らかい声色で言う。「のちほど、上で」
少年が退室した。侯爵は暖炉の火の始末を始めた。
おっと。
ぼくは窓を閉め直し、壁伝いに主寝室に向かった。壁面に張りついたまま採光窓を薄く開け、待機する。いったん屋根の上で休もうかと考えたとき、室内から蝋燭の金色の明かりが射した。
侯爵が燭台を床に置き、暖炉の火を熾す。
ぼくはその背中を見下ろしながら、窓の隙間に手製の細い木筒を挿し込んだ。
筒の尻をとんとんと叩き、揺らし、気取られないよう少量ずつ鱗粉を撒く。
もちろん、ぼくは風術を使えない。
が、火を使って暖を取る冬場、鱗粉は室内で発生する微かな対流に乗り、拡散し、長時間浮遊する。一オンスもあれば一般的な広さの部屋を麻痺室と化せしめる。
主寝室は高級宿の続き部屋くらいあり、天上が高いため、ぼくは筒三本、計六オンスの鱗粉を撒いた。
その間、侯爵は暖炉の火を大きくして、オレンジ色の炎を眺めながら葡萄酒を啜っていた。
未加工の鱗粉についてもう一点。
酒精を摂取すると、毒性がほんの少し強まり、回りが早くなる。
侯爵の影絵がふらついた。
手から杯が落ち、ぐらぐら揺れ、膝から崩れる。
何度か助けを呼ぶ声を上げ、遂には声も出せなくなり、うつ伏せの姿勢で動かなくなる。
ぼくは襟巻きで鼻と口元を覆ってから室内に侵入した。床に着地するなり、すべての窓と戸を開け放つ。吹き込んだ寒風が、四柱式寝台の垂れ布をはためかせ、暖炉で燃え盛る炎を揺らした。廊下に出、並びの裏窓を全開にして回って風の通り道を作り、空気が清浄になるのを待つ。ぼくは隣室で二四〇数えた。仮面を着けて主寝室に戻り、侯爵を拘束する。
されるがままの侯爵が回らない舌で何か言った。ショックと麻痺から回復しつつある。そして〝天より使命を帯びし尊き青い血〟と権威を総動員して睨みつけてきた。かつてのぼくなら、素朴な農民らしく脊髄反射で畏敬の念に打たれただろう。お許しくだせえ、とひれ伏したかもしれない。しかし侯爵にとって残念なことに、現在のぼくは、ピラミッド型階級社会は本質的に集団幻覚にすぎないと学習済み。お貴族様、と揶揄を込めて呼びだしたのはいつからだっけ?
侯爵が猿ぐつわ越しに抗議の声を上げ始めた。
背後で人の気配がした。
先の少年。寝間着姿で戸口に立ち、目を見開いてこっちを見つめている。
「おめぇのこたぁ聞いてんぜ」ぼくはチンピラ声で言った。「ご注文どおり、場は整えた。あたぁ煮るなり焼くなり好きにしな」
なおも見つめてから、「では貴方が……メイヴレンの弟子なんだね?」
「てめぇ、クソガキ。その名をみだりに出すんじゃねえよ」
「失礼した。彼の護衛は……?」
「心配すんな。邪魔は入らねえ」
麓の守衛小屋に二つ、山荘の裏手に一つ、すでに骸が転がっている。侯爵の護衛はそれで全員だった。一行が林道に現れたときは随行員の少なさに思わず眉をひそめたものだけれど、別荘で少年といちゃつかんとする目的を察した瞬間、納得がいった。侯爵には妻と、成人した四人の子息や息女と、一個分隊の孫がいる。人里離れた私有地、側近を数人だけ、とこそこそしたのが運の尽き。
少年は戸口でためらっていた。
「ジジイになっちまうぜ」ぼくは促した。
「すまない。ただ……」
「手伝うか? それとも代わりに?」
「いや、わたしがやる」少年が侯爵のほうを見やる。「自分の手で。だが、少しだけ、待ってくれ」
短い濡れ髪を荒っぽく掻き揚げ、震えるといきを吐き、ぼくに目を戻す。
「先ほど、わたしのことを聞いていると言ったね? どれくらい……?」
「ありゃ言葉の綾だ。表面的なことを除きゃ、これっぽっちも知らねえ。何か御大層な計画の関係者にして、そこのお貴族様に抜き差しならねえ用がある依頼人――これで全部だ。おいらはただ、助太刀するよう言いつかって参上した、つまらねえ幽霊さ」
聞いているのかいないのか、目立った反応はなかった。
ぼくは再度促した。「よう、今すぐやるか、永遠にやらねえかだぞ」
少年が意を決した面持ちになり、小さくうなずく。
そして壁に飾ってある短剣に手を伸ばした。形状や意匠からして、ポルメーア戦争までさかのぼりそうな骨董品/美術品だ。
少年が骨董品を抜き放ち、鞘を床に落として、アグリフ・プレトマイア侯爵に近づく。
大きく広げた両足首を寝台の支柱基部に、大きく広げた両手首を支柱上部に結わえられて、磔に近い姿勢を強いられている侯爵の目が、ぼくと少年のあいだを忙しなく行き来する。少年が言う。
「この男はわたしの母と祖父母を殺した。祖父の代から仕える家令も、女中も、園丁も――」
「やめてくんねえか? 何ひとつ知りたくねえ」
少年はやめなかった。
「さも同情した親身な態度でこの男が訪ねてきたとき、わたしは真相を……悟り、最悪の予想の裏付けを得た。ありがたいことに、頭はいくらか冷静さを保ってくれた。この汚らわしい男は、慰めの言葉をかけながらわたしを舐めるように見ていたよ。色情が透ける目つきで。会うたびに少しずつ、それらしい反応をしてやったら、ロフト王国一注意深い男が、注意深さを忘れた。自ら狩猟の手ほどきなる表向きのお膳立てを整えさえした――今夜のために」
話すほどに、少年の声が冷たく、硬く張り詰めた。
「そしてプレトマイア卿ともあろう者が、劣情に目を曇らせ、あつらえられた私刑の場に飛び込んだのだ」
くだんのプレトマイア侯爵は少年に向けて首を振り、激しくもがき、うーうー唸っていた。
少年が肩越しに振り向く。
「貴方にはやきもきさせられた。いつまで経っても現れる様子がないから、この薄汚い男と褥を共にすることになるではないかと、本気で不安にさせられた。杞憂に終わって良かった」
ぼくは肩をすくめた。
少年の蘭々と光る双眸の上で、眉毛が困ったように八の字を描いた。
「どうすればいいだろう?」と短剣を小さく振ってみせる。
「好きにやりゃいい」
前を向く。「どうすればこの畜生を苦しませてやれる?」
「畜生みてえに腹ぁ裂きゃいいんでは?」
「苦しむか?」
「相当に」
これを聞いて侯爵の目が飛び出しそうなほど見開かれ、なおも激しく身をよじった。むーむー、うーうー騒がしい抗議の声を無視して、少年が問う。
「貴方ならそのとき、なんと言う?」
「言葉なんざかけねえ」
「貴方がわたしの立場なら、なんと言う?」少年は繰り返した。
「そうさな……〝てめぇのはらわたを眺めながらてめぇでてめぇの死に水をとれ〟」
少年が進み出、侯爵の口から猿ぐつわを外した。
「誤解だ!」とたんに侯爵の口から言葉が溢れる。「聞いてくれ。すべて誤解だ。いいか、よく考えろ。わたしが何者かをよく考えるんだ。あとで間違いだったでは――」
「嘘つきめ。母の仇め。お爺さまとお婆さまの仇め。皆の仇め」
「やめろ、やめろ、やめ――」
乱れた化粧着から覗く締まりのない腹に突き込まれた刃が、相手から言葉を奪った。刀身が力任せに、ぎこちなく横へ動くと、侯爵の喉から苦悶の叫びが短く迸り、脚が萎え、宙吊りのままガクガク痙攣した。
「深く刺しすぎだ」見かねてぼくは口添えした。「先っぽの数インチで足りる。そんですっと滑らせろ。横じゃなく縦に」
少年は手こずりながらそうした。
寄せ木細工の美しい床に内臓がこぼれ落ちる。
損傷が激しい。ずたずたの臓物の周囲に黒い海がみるみる広がる。
小卓の葡萄酒の瓶が、侯爵の背後のシーツに投げられた。
「そら、自分のはらわたを眺めながらおのが末期の水をとるがよかろう、下種め」
指で触れそうなくらいの憎悪に満ちた声だった。
侯爵の耳に届いたかどうかは怪しいところだ。出血多量ですでに、死の急坂を転げ落ちている。深く垂れたこうべから血液混じりの唾液が糸を引いて滴り、ひと呼吸ごとに胸の動きが弱まっていく。
ほどなくして、ロフト王家を支えてきた懐刀は息絶えた。
自分の手から凶器が滑り落ちたことにも、クワンという耳障りな音にも、まるで気がついていない様子で、少年は静かに佇み続けた。
風と炎の音だけになる。
「よう」
無反応。
薄い肩をつかんで振り向かせると、暖炉の火を剥製みたいに照り返す虚ろな瞳が仰いできた。
「わりぃがグズグズしてらんねえ。ずらかるぞ」
暗い屋内では足元が覚束ないであろう少年のために、寒風に吹き消されていた燭台を暖炉の火で再点灯し、廊下へ導く。たっぷり血を吸った室内履きのべちゃべちゃいう足音が突き当りの客間まで大人しくついてきた。少年の荷は多くなかった。箱型の旅行鞄が一つ、壁に吊るされた外出着が二着、外套が一着、帽子が一つ、短靴と半長靴が一足ずつ。数時間前に窓から室内を確認したときと変わっていない。燭台を窓際の机に置く。
「着替えろ。おい」
少年は呼びかけに答えず、魂を抜かれたみたいな有り様でぼんやり突っ立っていた。ぼくが寝間着に手をかけて一気に脱がせようとしたとたん、身をよじって後ずさり、胸元を掻き抱いた。
「何をする?」
「カリカリすんな。着替えを手伝ってやろうと――」
「いい、結構だ。自分でできる」
「なら急げ。肌着は箪笥の中か? 荷造りはこっちで適当に――」
「ぜんぶ自分でやるから、着替えるあいだ、一人にしてくれ」
頑な態度に加え、声に激発の兆候。ここで押し問答をしても時間のムダ。少なくとも、円滑な撤収の役には立たない。
「わあった。だが〝もしも〟のために戸を少し開けておくぜ。三分で済ませろ」
ぼくは廊下に出た。
一インチほどの戸の隙間から聞こえてくる衣擦れの音がすぐに止まった。
「手が……」
「何?」
「あいつの血で汚れてる」
「寝間着でぬぐえ。全部は落ちねえだろうが、我慢しろ」
「足もか?」
「足もだ。汚れた服はそこらにほかせ。急げ」
衣擦れの音が再開する。
「このあとは?」先よりも幾分しっかりした声で少年が尋ねた。
「手ぇ止めんな」
「止めてない。このあとは?」
「聞いてねえのか?」
「細かいことは何も。メイヴ――彼女からの文には、貴方の指示に従えとだけ」
だったら、もっと素直に従ってほしいもんだ。
「回収地点で運び屋と落ち合う。そいつにおめぇさんを引き渡し、隠れ家かどこかへ連れてってもらう。それがどこかは訊くなよ。おいらも細けぇこたぁ知らねえ」
「わかった。その回収地点は近いのか?」
「ちょいと離れてる。おめぇ、遠乗りの経験は?」
「ある。馬は得意だ。そんなに遠いのか?」
「うんにゃ。四マイルってとこだ」
「てっきり、ここから直接、亜竜か何かで逃げると思っていたのだが」
「んな迂闊なマネしねえよ」
「なぜ迂闊なのだ? そのほうが早くて安全ではないか?」
答えても害はない質問なので、講釈を垂れてやる。
「なぜかっつーとだな、故プレトマイア侯爵は王の片腕だからさ。そんな立場のやつは小便するだけでも事前に予定を立て、王の許可をもらい、配下にも、どの便器にどれだけの尿を垂れるのか伝えとくのが世の習いってモンだ。するとだ、王都でなんかありゃ、文字どおり急使がすっ飛んでくる。ま、そういう事態が起こんのは一〇回に一回かもしんねえ。おいらは用心のしすぎかもしんねえ。だが用心を怠ったときに限って足をすくわれる。ゆえに運び屋をこんなとこに呼べねえし、可及的速やかにここを離れなきゃなんねえのさ。だから急げ」
「急いでいるとも。して……あれはどうする?」
「〝あれ〟?」
「侯爵。埋めたりしないのか?」
「しねえ。捨て置く」
「なぜ?」
「質問が多いな」
「すまない」
「別に謝るこたぁねえ。理由その一、あのメチャクチャな血痕は、拭き掃除くれえじゃキレーに落ちねえ。床板を張り替えるほうが早え。つまり、死体を隠したところで、世界一の馬鹿でも何があったかわかる。外にある護衛の血痕も似たようなもんだ。そっちは比較的後始末しやすいが、見るモンが見りゃ、埋め直された地面やら乱れた雑草やらに気づいて、かなり正確に状況を推測してくる。そもそも、隠蔽工作してる暇がねえ。だから無駄な骨折りなし。捨て置く。ちゃんと手ぇ動かしてっか?」
「動かしている。証拠を消すために遺体を埋めて建物に火をかける、というのは素人考えだろうか?」
「物騒なこと言いやがる」
「悪手、という意味か?」
物音が止まっていた。
「手ぇ動かせ」
「動かしているとも」と衣擦れの音。
話しているほうが着替えと荷造りがはかどると踏み、ぼくはみたび講釈を垂れた。
「悪手じゃねえが、場合によりけりだ。つーのも、こういう半分石造りの、比較的窓の小せえ屋敷はな、なかなか焼け落ちねえんだよ。火元を複数用意しようが、火の通り道を作ろうが、鯨油を一〇ガロン撒こうが、あっさり自然鎮火しちまうことがあんのさ。かといって、血痕だけ燃やすような半端な真似すりゃ、推理の材料を与えちまう。さらに言うと、ここは亜竜便の飛行経路からちけえし、ほんの五マイル東には軍の補給所。最悪、急行してきた軍属の魔術野郎に消火されて、集まってほしくねえ注意が集まるだけで終わっちまわぁ。そもそもだ、おいらたちにゃ時間がねえ」
「わかった。二つめの理由は?」
「担当者の捜査努力で侯爵のお供の身元が一人残らず割れ、唯一姿のねえおめぇさんが重要参考人もしくは被疑者としてお尋ね者になる、と最悪を仮定しても――」
「彼らは直ちに知るよ」少年が言葉を被せた。「わたしの身元も。ここに来たことも」
「そうだとしても、いいか、おめぇはまだガキだ。これから見かけがどんどん変わる。数年もすりゃ、うっかり本名を名乗るとか知り合いに会うとかしてヘマこかねえ限り、そうそうバレやしねえ。今夜を乗り切ったあとにどうなるかは、おめぇ次第ってわけだ」
「そうか……。肝に銘じておく」
「マジで急げ。残り一分切ったぞ」
ちなみに、胸に秘めた理由その三。少年にバレないようご遺体を《倉庫》に放り込み、客間の寝台を血で汚すことで、五名とも他殺の疑いが濃厚な失踪――そう見せかけようと思えばできなくもない。けれども、わざわざ遺体が持ち去られている点から偽装工作ならびに内部犯行を疑われ、その社会的立場ゆえに賊の標的は侯爵だとごく自然な推断に至り、どの道、少年を含む随行員四名の手配書が回る。
そして、いささか手際の良すぎる複数の遺体の持ち去りは、収納魔術持ちが関与しているのではないか、との疑惑を生む公算が大。もちろん、そんな細い線からぼくまで辿られる可能性は無視していい。しかし、主義としてぼくの〝匂い〟を犯行現場に残したくない。
二分超過して少年が出てきた。燭台ではなく、角灯を提げていた。もう片方の手には小ぶりの帆袋。
「そんだけか?」
帆袋を掲げて、「大切なものだけまとめた。ほかは置いていって問題ないと思うのだが」
「荷が少ねえのは結構だが、忘れモンしても、取りに戻れねえぞ」
「大丈夫。二度確認した」
「念のためにもっかいしとけ」
三度めの確認作業が終わるのを待って正面階段を下り、玄関扉に近づいたところで、ぼくは少年の手から角灯を取り上げた。
「外じゃ使うな。火は目立つ」角灯の心を指でもみ消し、壁の台木に置く。
「しかし――」
「月が出てる。真っ暗闇じゃねえ」
銀色の光が降り注ぐ屋外に出、張り出し床に沿って馬屋へ向かった。中を覗くと、人間の気配に反応して四頭がそれぞれの馬房から頭を突きだしていた。左側の二頭の白馬に用はないので、右側の葦毛と鹿毛に頭絡と引き綱を付け、馬房から出す。王都ロフタニアからここまで三〇マイル弱。馬車の曳馬はクタクタでも、護衛一号と二号の乗馬は体力に余裕があるはず。山荘到着から五時間近く休んでいるし、駆歩の四マイルくらい、どってことないだろう。
二頭を横木に繋ぎ、馬装を取って外に戻ると、少年が手伝いを申し出た。
「ほいじゃ、そっちの葦毛を頼んまあ」
馬は得意と言うだけあって、少年は、ぼくより手際よく鞍敷きと鞍を載せ、腹帯を締め、ハミを噛ませ、鞍袋に帆袋を入れ終えていた。踏み台代わりの横木に腰かけたまま、無表情に葦毛の首筋を撫でている。
「すまねえ。待たせた」
「いや」
「ほれ。こいつを着けろ」
腰の道具袋から取り出した元老院議員ムルトワラの仮面を手渡す。
少年は意匠を確かめようと月明りにかざした。
「他者の過ちに寛大たれと演説した古代の政治家だね。あてつけかい?」
「なかなか学があるじゃねえか。あてつけじゃねえよ。偶然だ。よう、今から言うことを憶えろ。麓に下りたら林道を右に行く。森は五〇〇ヤードで切れる。次は森林線に沿って左に四マイル弱。二つめの小川を越えた野原が合流地点だ。もしはぐれても慌てずこの道順で進め」
「あれか?」
「たまたまあすこで休憩中の別の誰かじゃねえなら、あれだな」
煌々と射す月光の下、半マイル先の森の端に小型亜竜の目立つ影がある。少年の目にはその黒い輪郭しか見えていないのだろうけれど、《夜目》のあるぼくには御者らしき人影も辛うじて見分けがついた。
距離が縮まるにつれて、暗い緑色の背景に溶け込みそうな暗い緑色の人型が明瞭になり、濃淡がくっきりし、細部が段々と……
ぼくは仮面の下で眉をひそめた。
これまでとは様子が違う。
これまでに接触したことのある運び屋は三人。彼らは皆、男も女もヒト族も狼人族も、判で押したように地下組合の正装姿だった。つまり、無個性な衣類を身にまとい、仮面で人相を隠していた。長い鼻面のせいで選択肢の限られる狼人族でさえ、南国風の鳥形の面で上手にしのいでいたもの。
それでいくと、今回の運び屋は異色だ。遠目にも誂えとわかる体の線に沿った膝丈の外套、パリッとした縁折帽、白の長靴下と飾り付きの短靴――どれも地味にまとめられ、主張が強くない。さながら上流階級の従僕。そして面は――冗談だろ?――目元だけを覆う仮面舞踏会スタイル。
「おい、速歩に落とすぞ」
右隣りの少年に命じながら、近辺に視線を走らせる。夜間目視限界距離内にほかの人影はない。
「おいらの前に出んな。てか、五ヤード後ろに付け」
「なぜだ? 何かあったのか?」
「なんかいつもと違う。気に入らねえ」
「あの亜竜ではない?」
「御者が一応顔を隠してっから、あれだと思うんだが……とにかく下がれ」
くだんの御者は、五分の一マイルを隔ててようやくぼくたちに気づいた。よく見ようと首を伸ばして、こちらをじっと窺っている。
「ここで待ってろ」
最後の三〇ヤードをぼくは単騎で近づいた。常歩でゆっくり進み、《倉庫》からいつでも石弓を取り出せるように心の準備をしておく。
運び屋が帽子を脱いで胸に当て、その拍子に薄い頭髪が風に乱れた。見かけで判断する気はないけれど……この御仁、えらく風采が悪い。生え際の著しく後退した頭はデカすぎ、丸顔なのにやつれ、短躯で、猫背というより背虫。馬上のぼくを見上げながら、北部訛りの流暢なジェノナ語で切り出す。
「我ら詩人、内なる三千世界を征服せん――」
小男らしいキーキー声かと思いきや、耳朶を打ったのは、二〇年物の火酒より深く、天鵞絨より滑らかな、歌劇役者張りの美声。これにはちょっと驚かされた。
ぼくは得意のジェノナ語であとを引き取った。「――我らが握りし得物は夢中歩行と覚醒を分かつ霊感、皮相と実相を見分けるまなこ、自我の声と天上の声を聞き分ける耳」
「〈星花〉様、お待ちしておりました」運び屋がロフト語に切り替え、軽くお辞儀する。「どうかお急ぎを。お連れ様をお呼びいただけますでしょうか?」
物腰がいやに丁寧だけれど……罠ではなさそうだ。
腕振りの合図に応えて少年がポクポクやって来た。覗き穴の奥から不安気な眼差しをぼくに投げる。
「だいじょぶだ。そのオッサンの指示に従え。ほいじゃま、達者でな」
「〈星花〉様、お待ちを」運び屋が呼び止める。「貴方様もご案内するよう仰せつかっております」
遅ればせながら気づく。亜竜の背に、背もたれ付きの鞍が三つ。
「おいらも?」
「さようでございます。貴方様の仕える仮面の淑女より、そのようにと。我が主の別宅にてお待ちです」
口振りからして、どうやら、地下組合とは関係の薄い立場にあるらしい。しかもこんな話、聞いてない。困惑に次いで猜疑心がぶり返した。運び屋に目を戻す。懐に手を入れようとしていた。
「おい、動くんじゃねえ」
手がピタリと止まる。「失礼、一言お断りを入れるべきでした。貴方様がわたくしの言葉を鵜呑みにされることはなかろうと、仮面の淑女より小物と文をお預かりしてございます。よろしければ……?」
「出せ。ただし、手元が見えるようにだ。死の床の老い耄れみてえにゆうっくりとな」
「かしこまりました」
運び屋は外套の前身頃を開いて保持すると、隠しから絹の包みを恭しく取り出し、手のひと振りでほどいた。あらわになったのは、二つ折りの紙片と矩形の小物。手渡される前に後者が何かわかった。師匠に頼まれて彫った魔杖入れ用の装飾――楓の葉を模した透かし彫り。これを強奪するには師匠の隙を突くか殺すしかない。不可能とは言わないけれど、とてつもない難事なのは確かだ。文には見慣れた書体で――〝急な変更に謝罪を。彼と共にご足労願いたし。その者の言葉をわたしの言葉と思え〟。
謎の事業計画関連で何かあったんだろうか……?
「あー、不作法を詫びるぜ。聞いてた手筈と違うんで、ついな。すまねえ」
「こちらこそ不手際で要らぬ誤解を招きました。くどいようですが、お急ぎくださいますよう」
「つーわけだ」と少年に顔を向ける。「降りて馬装を解け。大切なモンとやら、忘れんじゃねえぞ」
運び屋が手を貸してくれたので二〇秒もかからなかった。二頭ぶんの馬具を手近な茂みに放り捨て、デカ尻をぽんと叩いてやると、葦毛と鹿毛は向かいの森のほうへ駆けていった。運び屋の先導で亜竜に歩み寄る。
「で、どこなんだ? 主の別宅っつーのは」
「ヘーデル伯爵領ワトレン近郊でございます」
ワトレン。行ったことはないけれど、表面的な知識くらいはある。北はネグラビカ半島から、南はイド海を挟んだアルトゥーラ大陸まで、海洋交易の中継地点の一つとして栄えるロフト王国屈指の港町。王都ロフタニアの約九〇マイル南西。現在地からおよそ一二〇マイル。亜竜と言えど楽な距離じゃない。
ぼくの思考を読み取ったかのように、運び屋が言う。
「万一のための欺瞞行動としてまず北へ飛び、それから東、南、西と転進いたします。数十マイルは飛行距離が延びますし、三度か四度の休憩を挟むことになりますが、夜明け頃には到着するかと」亜竜の鞍袋から毛皮の裏打ちの飛行服と飛行帽、厚手の毛布を取り出す。「上はことに冷えます。こちらをお使いください」
ぼくと少年は勧めに従った。運び屋のほうは縁折帽を飛行帽に替えただけ。
「あんたこそ着替えねえのか? それじゃ尻が凍っちまうだろ?」
微笑。「連峰育ちなものですから、この程度は寒いうちに入りません」
差し出された手に羊革の上着を渡す。〝我が主〟が何者かは訊かなかった。ぼくが知るべきなら、師匠が教えてくれる。そうでないなら、知らぬが身のため。