New Ballgame その一
ぼくが編入された偵察班はお散歩二日めの早朝に、赤い森の生存競争に新規参入したと思われる未確認ゴブリン集落に出くわした。集落は巧妙に隠蔽されていた。その遭遇戦で副班長が原始的な弓矢に上腕を射抜かれ、先導役の伍長が脚に重傷を負った。木を尖らせた投げ槍を太股に食らったのだ。〝森の狩人〟の異名をとるゴブリンは体力にも追跡能力にも秀でており、満足に走れない負傷者を抱えて逃げ切れるものではい。ぼくは殿と囮の二役を買って出た。
レトル湖畔の仮設小隊本部に帰着後、エニュイ班長は「通常は部外者に殿など任せませんが、負傷二名、逃走速度の鈍り、およそ一〇対一の数的劣勢、と一秒の判断の遅れが全滅に繋がる状況下では如何ともしがたく、自分とエズラはクスマンを担いで離脱しました」と報告した。「生まれながらの偵察隊員と呼んでも差し支えないカロ冒険者が、自己犠牲も同然の時間稼ぎで班を救おうとしているのだと思った」とも語った。
自己犠牲?
まさか。
やれると思ったから殿と囮に志願したまでの話。
実際のところ、人目をはばからずに《倉庫》を使える単独行動のほうが、生存率は遥かに高かったのだ。具体的には、猟刀・手斧・石弓・投擲用魔石で〝軽武装〟した冒険者カロでは余命数分。歩く武器庫カリストに一時復帰すれば(願わくば)四分の三世紀後のまどろみにも似た大往生。
《倉庫》の武器類は主に飛び道具を充実させてあった。無機物無劣化を活かし、弦を引いて装填済みの石弓が三〇〇挺。内二〇〇挺の太矢に塗布してあるのは、一矢で灰色熊をも殺す紫茸由来の神経毒。裏稼業も表稼業も基本ソロ活動なので、これくらいの備えは当然だった。緊急時用の偽装または好餌の、水袋に詰めた豚の血も数クォートあった。風弓の発射筒も二六本残っていた。
ぼくはまず、雷術が封入されている遅効性の魔石をひとつかみ投げた。投擲用の安い魔石は個体差の関係で魔術の開放に五秒から一〇秒と幅がある上、威力も弱い。でも牽制には充分。投擲方向でバチバチばりばり雷術が炸裂する中、〝使う・仕舞う・新しいのを出す〟スタイルの石弓の速射で迫りくる突撃の勢いを弱め、豚の血をまき散らしながら偵察班とは別方向へ走り、血の余りで汚した変装用の背負子や狩猟帽といった魅惑物をぽつぽつ放置し、班の離脱路を攪乱すると同時に追跡隊の動きを誘導して、右へ左へ、前へ後ろへ、上へ下へと移動しつつ、こっちに釣られた連中を一体ずつ狙い撃ちにした。半数は急所を外したものの、一分後には神経毒が回って軒並み行動不能に陥るか、ゴブリン用の天国の門を叩くかした。偵察班の脱出路を辿っていた冷静で注意深い数体を始末したあと、ぼくは攻撃の矛先を集落に向けた。角灯などに用いる鯨油を撒いて、ゴブリン集落周辺の複数箇所に火を放ったのだ。
本気で焼き討ちを仕掛けたわけじゃない。もし森林火災に発展したら、森中の魔物という魔物が近隣一帯にあふれ出て大惨事になる。悪くするとマウバント山脈の麓に燃え広がって、地獄の蓋があく。
数本の生木と若木の幹が焦げて白い煙がもくもく立ちのぼった。
闖入者を追いかけてるどころじゃないぞ、との警告は正しく伝わり――
――ほうぼうから鳥の鳴き声を模した合図。
小火の辺りでがさがさ火消しの音がした。
そして、耳に痛いほどの静寂。
遭遇戦で血がのぼっていた連中の頭が、こっちの思惑どおり冷えたらしい。これが現実のゴブリンだ。冒険小説に登場する〝野蛮で低能な人型の虫〟とは違う。連中は独自の言葉を持ち、独自の文化に依って生き、まともな本能を備えている。基本、彼らの行動理念は安全第一。与し易いと踏めば猛然と襲い、仲間の被害が嵩めば深追いをやめる。そして常に、赤子や子供の保護を最優先する。数千年か数万年の時間を与えたら、ゴブリンは原始生活を抜け出して一大文明を築き上げるかもしれない。
ともあれ、緑色のチビどもは集落に引っ込んだようだった。
新たな追跡隊が繰り出されることもなかった。
散歩の前に取り決めてあった離散時の集結地点の一つで、ぼくは偵察班に合流した。幽霊に会ったような顔をされた。ぼくはこう説明した――石弓と猟刀で数体を仕留め、連中の注意が完全にぼくに向いたあと、森の中で鬼ごっことかくれんぼをして振り切ってきた、と。嘘がバレる心配? ないない。ゴブリンは仲間の遺骸を放置しないし、そうでなくとも肉食獣やほかの魔物の餌になる。
ぼくは訓練〝中断〟後報告会議の場でも同じ証言をした。
「命の恩人です」と脚を負傷したクスマン伍長。その傍らで本部付の医療将校が、応急処置が良かったおかげで半月後には現場復帰できるだろうと請け合っていた。
「いやはや」と訓練責任者のフロウバス大尉。「きみが兵士なら青十字殊勲賞に推薦しているところだよ。紹介状を用意したら、入隊する気はあるか? わたしの隊で偵察班を一つ任せてやるぞ」
「今晩、あたしの天幕に来ない?」と男勝りのエニュイ准尉は別の誘いをかけてきた。
お気楽な冒険者カロとして、ぼくは後者の誘いに乗った。
翌夕刻、バラガズの編入されていた偵察班が予定刻限に帰着した。特に問題は生じなかったそうだ。三日間の行程中、赤い森の生存競争で頂点の一角を占めるトロールの集落に忍び寄って丸一日観察しただけだ、とバラガズは軽く言ってのけた。大変危険で困難なことをやり遂げたというのに、出発前と同じくらい元気溌剌とし、泰然自若。本当に大したやつだ。
そう思ったのがぼくだけじゃないのは、デレルマ大尉の労いの言葉や、フロウバス大尉の入隊打診や、調理担当が軍隊風ごった煮料理の夕食に一杯の蜂蜜酒を付けてくれたことが物語っている。
翌朝、訓練小隊の面々に別れを惜しまれながらレスレーン支部に帰ると、デレルマ大尉は特別授業の結果報告を終えるなり新妻のもとへ飛んで行った。入れ替わりで支部長執務室に請じ入れられたぼくとバラガズは、第二等級偵察徽章を授与された。一支部が独断で発行し得る最高位の偵察徽章にしては、作りがチャチ。〝Ⅱ〟と刻印された留め針式の菱形の鉄片。紛失時は二〇ポンドで再発行可。
「ところでだ、バラガズ」リヴロー支部長が抽斗から筒状の封書を取り出して振り立てた。「一昨日、おまえさんの元職場から返信が届いた。照会にあった種族・身体的特徴・経歴などから本人で間違いないと思われるが、念のためにこう質問しろとある――〝ナスタルといえば?〟」
「〝貴君の言葉遣いは目に余りますぞ、近親婚で生まれたど低能のゲロ野郎が〟」バラガズは即答した。「団の古株しか知らない笑い話でさ」
「なんのことやらさっぱりだが、ほれ、こっちはおまえさん宛てだ」
その私信を横から覗くと、封蝋に馬の印章があり、その隣には〝黒猫の戦友へ、アファリディ男爵〟と差出人の名が記されていた。慣例的な花文字ではなく、なぜか活字体で、デカデカと。ぼくの視線に気づき、バラガズがニヤリとする。
「エンヌレス団長からだ。殿下より賜った似合わない苗字と爵位を自分で皮肉ってんのさ」
「へえ。あの名高い髭長族か。有名人の文なんて初めて見たよ」
「こっちの話を続けてもいいかね、ボクちゃんたち?」とリヴロー支部長。「あとはリピィ嬢と栗毛の坊や次第だが、結果が出るまでの三週間かそこらのあいだ、ぼけっと待ってる暇はないぞ。本日中に低級徽章持ちを何名かつけてやる。各々班を組んで簡単な調査をやってみろ。予行演習だ。等級から言っても、経験や実力から言っても、おまえら二人が専従調査班の班長と副長になるんだからな。バラガズは冒険者の扱いに慣れろ。カロ、おまえは人を使うことを覚えろ」
バラガズは了承した。
ぼくは控えめに異を唱えた。グリフィン像の納期が迫っているし、チェス盤セットのほうも早々に習作を注文主に見せに行かないと、困ったことになる。リヴローは眉根を曇らせたが、もともと本業優先の取引だしな、と異を容れてくれた。
「だが、なあなあが良くないのはわかるよな? おまえさんの都合を尊重するにしても、限度がある。規則でがんじがらめにするつもりはないが、大枠くらいは設けておかんと、調査班運用の面でも心情の面でも行き着く先は不調和と不信感だ。せめて今後の冒険者活動のおよその日程ぐらいは、この場で取り決めておきたい。そこでだ――用意の良さを褒めてくれてもいいぞ――おまえらの不在中に、前回聞いた本業の諸事情とやらを勘案した草稿を作ってみた。読んでみろ」
今度はバラガズが、ぼくの受け取った紙を横から覗き込んだ。
(一)半月ごと、ひと月ごと、二ヵ月ごとなど、決まった周期でレスレーンに滞在。
(二)顧客からの呼び出しなどで滞在を途中で切り上げる場合、次回の滞在期間延長の形で調整。
(三)来訪を前倒しする場合、その後の日程をすべてずらすか、次回の不在期間延長の形で調整。
(四)滞在周期は折々の状況に合わせて調整・変更可。
(五)事前連絡を徹底。レスレーン滞在中に支部長または副支部長が捕まらない場合は、班員または受付に行き先を含めて要伝言。
「あー、問題ありません」
「よろしい。次はいつ来れるね?」
「来月頭。周期のほうは……ひと月ごとで。とりあえずですが」
「いいとも。そこにも書いてあるように、都合が悪くなったら調整できる」
「ただですね、必ずしも一年の半分をレスレーンで過ごせるかというと――」
「難しいのはわかっているさ」リヴローが遮った。「草稿の要点はおおよその見通し、規則性だ。いつ来ていつ帰るかぐらいの目安だよ。ちなみに、いま抱えている注文も遠方かね? 顧客を訪ねて大陸中を飛び回っているとか言っていたが」
「どちらもカリプト在住の方です」
「カリプト? メデル王国のカリプト市のことか?」
「イド海の宝石との呼び名高い、そのカリプトです」
「よくもまあ、あんな場所まで。好奇心から訊くんだが、細工師にはそれが普通なのか?」
「でもないですね。ぼくの場合、以前取引させていただいた顧客からの紹介です。その方の外国の友人や親戚が集まったときにぼくの作品を見て、という繋がりでして」
「メデルとの通商条約はどうなんだ? 自国産業の保護だとかで、両国の職人は国境を越えた商売がやりにくくなっていると聞くが」
「どうもこうも、ひたすら面倒ですよ。向こうの木工職人組合を通さなきゃで余計な時間を食うわ、組合間仲介手数料という名の関税を取られるわ。ただでさえ旅費や宿泊費のことがありますからね、ぶっちゃけ赤字です。でも名を売りたい駆け出しじゃ仕事を選んでいられません」
嘘は何ひとつ言っていない。
「カリプトね」リヴローが物思いにふける顔になった。「香辛料を利かせた腸詰めの燻製が有名だったな。土産はそれでいいぞ」
ぼくは支部館を出る前に告知板を確認した。受諾依頼をばっくれた簡易登録冒険者四名の情報を求める貼り紙が増えていた。そのおざなりで事務的な短い文面からは、緊急性がまったく窺えなかった。レスレーン支部はこの件で大騒ぎをするつもりはないようだ。それどころか、帝国騎兵とドンパチやったくさい厄介者どもが自然消失したことを喜んでいる節さえある。
そしてこの一週間、あの四人組の件でぼくのところに聞き込みに来た者はいないし、監視がついている様子もない。よし。
宿泊延長に延長を重ねている宿の部屋に戻ると、鍵を挿す寸前、戸越しに微かな水音がした。
聞き耳を立てる。
女中が拭き掃除をしているのかもしれない。
もしくは、招かれざる客が何か飲みながら待ち構えているのかもしれない。
可能性は低いが……こちらの尻尾をつかんだ帝国の猟犬だろうか?
ぼくは戸枠の横にしゃがみ、取っ手を引いてみた。
施錠されている。
ふうむ。
鍵を挿してゆっくりと回す。
カチャ、という小さな解錠音が、ぼくの耳には皿の山が崩れたように聞こえた。室内にいる誰かにもそう聞こえたはず。通路が無人なのを確認してから、低くしゃがんだまま防護板を立て、猟刀を抜き、そっと戸を開け放つ。腹の高さを狙った太矢か魔術の飛来に身構えていたのだけれど、湿り気を帯びた空気と石鹸の微かな芳香が廊下に流れ出ただけ。香油の甘い匂いもする。ちゃぷちゃぷいう水音が大きくなる。風呂? 部屋は……間違えていない。
《倉庫》から出した手鏡で室内を覗く。
人影はない。が、見慣れない旅行鞄がでんと置かれ、すべての鎧戸と、右奥の浴室の戸が開いおり、後者から白い湯気がもうもうと立ち昇っている。
防護板を仕舞い、ぼくは足音を殺して中に入った。《猫歩き》でもって、まさに忍び足の猫のように。床板は人間様の都合なんてお構いなしに軋むから、一番軋みにくい壁際に沿って浴室に近づく。
手鏡を使い、浴室内を窺う。
琺瑯の白い浴槽に浸かっているしなやかな裸体の、曇った鏡像。
彼女は、わかりづらい二つの種族的特徴を備えていた。褐色耳長族のそれと、小人族のそれ。二つの血が混じり合い、薄め合い、程よく中和されている。耳はやや尖っている程度に。肌は小麦色の日焼け程度に。美貌は人目を惹きすぎない程度に。性的魅力過多でも貧相でもない程度に。大人とも子供ともつかない程度に。
混血は全方位の差別を意味するけれど、ごく簡単な変装でヒト族の少女になりすませる外見を本人は気に入っている。拾われたときは向こうのほうが数インチ背が高ったけれど、今ではぼくのほうが半フィート高い。
師匠だ……
どうやってここを見つけ出したのかは、(一)出先での病気・事故などが原因の連絡途絶に備えて、使い魔の目印になる指輪の予備を梁の上に隠してあるし、(二)新人講習初日の夜に、レスレーン滞在が長引く旨、事情を簡潔に記した文を速達で出しておいた。
問題は、何しにここに?
鏡の中で目が合った。
「いつまで覗き見しているつもりかね?」耳長族の長老くらいしか話者のいない古代エルフ語の問いかけ。
ぼくは手鏡と猟刀を仕舞った。
「何してるんです?」壁に後頭部を預けたまま、苦手なエルフ語で問い返す。
「見てのとおり沐浴だ。おまえも体が冷えているんじゃないか? 温まるぞ。来いよ」
部屋の戸を閉めに行き、万が一の盗み聞き防止に鎧戸も閉めて回り、浴室の戸口の横に戻る。
「師匠?」
「いまさら照れるようなものでもないだろう? いいから入って来い」
「なぜここにいるんです? 何かあったんですか?」
「良い子にお小遣いをあげようと思ってな」と師匠。「掃除代だ」
掃除。
三〇〇〇ポンドの仕事。
誰かの〝面倒を見ろ〟と。
「それを伝えるためにわざわざここへ?」声に疑念が滲んだ。
「愛弟子の顔を見に来て何が悪い」
「ゴア化すのはやめてください」
「誤魔化す。発音が甘いぞ。何ひとつ誤魔化してなどいないよ」
「これまで梯子のどこか上のほうから――」
「わたしは目を見て話すのが好きだ。入れ。命令だ」
ぼくは浴室に入った。
「これまで梯子のどこか上のほうから仲介を通して〝用事〟を言いつかってきましたし、貴女はぼくの実務に不干渉でした。一年と七ヶ月のあいだ、一度の例外もなく。様式や形式が破られたときはまず裏を疑え――そう教えてくれたのは貴女ですよ。何があったんです?」
「教師冥利に尽きるじゃないか。教え子の成長のかくも感慨深きことよ」皮肉っぽく笑い、手の平にすくい上げたシャボンの泡をふっと吹き飛ばす。
ぼくは続きを待った。
師匠の表情が真面目なものに変わった。
「漠然とした物言いになるのを赦せ。わたしが鋭意対応中のとある事業計画がある。意義も見返りも大きいが、諸条件の厳しさゆえに成功はおろか一定の成果すら危ぶまれる、暗礁に乗り上げかけていた計画だ。それがつい先日、隧道の終端に光明を得たのだ。乗るべき流れ、躍進の兆し、突破口――そういったものをね。
とはいえ、綻び一つで破綻をきたす危うさは変わらん。軌道に乗せるまでは、必要最低限以下の人員で繊細に事を進める必要がある。そういう次第でわたしは今、おまえの取った宿で湯浴みをしているのさ」
「持ってこられた件は今回限りではなく、貴女がされている何かへの継続的な補助の端緒、という理解で合ってます?」
うなずき。「近々、詳細を共有することになるだろう」
思わず眉をひそめた。「あの、ぼくなんかを引き入れて大丈夫な話なんですか、それ?」
「遠回しな不服従の表明かい?」
「ではなくて、ぼくは所詮下っ端ですし」
「レイならこう言うぞ――階級なんざ関係ない、最も難しい仕事を最も優秀な者にやらせろ。それがあいつの所属していた部隊の論理だそうだ。わたしの言葉で言い直すとこうなる――もしも地獄の最下層をぶらつくことになり、お供を一人選べるのなら、おまえを連れて行く。本件に関しても適材適所に則った判断だ。おまえ以上の適役はいないよ」
「あー、ご信頼に与り光栄です」
話が漠然としすぎていて何が何やらだけど、確かなのは――
――何か大事が進行中。
そして命が下された。
「現段階で直接的に動くのはわたしとおまえのみ。期間は未定。目途が立つまで、または失敗が確定するまで、この事業計画に専念してもらう」
「となると、表稼業からは手を引いたほうが良さそうですね」
「いや、現状を維持しろ。まだどう転ぶかわからん。そこまで上手く作り上げた偽装をふたたびこしらえるのは骨だぞ」
「それはわかるんですが……文は受け取られました?」
「うん、受け取ったよ。冒険者組合のレスレーン支部長に気に入られたそうだね」
「というより、こき使われそうなんです。おかげで、身一つでは足りないほど忙しくて。専従調査、工芸関係の注文、貴女から言いつかったばかりの仕事――正直、手が回りません」
「その点は考慮するさ。わたしとしても無理を強いるつもりはさらさらない。無論、流動的な状況への応変を求められるがね。それでいくと、悪いが、最初に口にした件は待ったなしだ」
また急ぎか。
「で、誰の〝面倒を見る〟んです?」
「俗っぽい言葉遣いはやめろと注意したはずだが?」
「どこを〝掃除〟すればよろしでしょうか、ご主人様?」
「まずは沐浴。次に食事。それくらいの時間はある。ほら、おまえも服を脱いで洗髪を手伝ってくれ」
ぼくは服を脱がず、袖まくりして師匠の銀髪を泡まみれにした。湯で流している最中に、そこらの魔術師にはとても頼めない用件を思い出す。
「射出筒なんですが、風術の補充をあとでお願いできますか?」
「何本だ?」
「七本です」
「ふむ。では着替えもよろしく頼む」
師匠の髪を拭いたり、体を拭をいたり、肌に香油を擦り込んだり、下着や衣類を用意したり、頭髪をややこしい感じに結って尖った耳先を隠したりと、召使みたいにせっせと世話を焼きながら、木工細工の時間をどうやって捻出しようかとぼくは無い知恵を絞った。
思いがけないことは重なるもの。
身支度を整えて宿を出たとたん、知った顔にぶつかりかけた。
「おっと、失れ――カロ?」
〈酔いどれ会〉の隊長、ピルピンだった。三〇過ぎだそうだけれど、小人族の例に漏れず、ヒト族の一二歳に見える。その背後に立っているのは、ヒト族らしく歳相応の中年男、アモンテ。その隣にネピス。全員完全武装。三人はぼくと師匠を見比べた。
「あー、やあ、ピルピン。アモンテも久しぶり。ネピスから迷宮に潜るって聞いてたけど?」
「その帰りさ」とピルピン。「アホな新入パーティがやらかしくさってね、一四層が通行不能。取り急ぎ組合に報告しなきゃなのさ。そこより深く潜ってる連中がいないのは幸いだが、到達階層更新計画がパーときた」
「そんなにぶつくさ言うなら」とアモンテ。「自然回復するまで待てば良かったんだ」
「迷宮の気紛れな自己修復を? 下手すりゃひと月かかるってのに? 馬鹿言え」
目玉をぐるりと回してから、ピルピンはぼくと師匠に向き直った。
「で、こちらの素敵なお嬢さんは……?」
ぼくは時間稼ぎに曖昧な微笑を浮かべた。
なんとも答えにくい質問だ。
この〝素敵なお嬢さん〟が、ブレーネンバーグ近郊で一〇歳のぼくを衰弱死の瀬戸際から救い出したのみならず、読み書き算数や一般教養に始まり、複数の外国語、貴族階級の作法、変装術、尾行術、家宅侵入技術、戦闘技術、殺人術に至るまで、多岐に渡る知恵を授けてくれたなんてことは――ついでに言うと「女の色香に迷わされていては話にならん。耐性をつけろ」との理由で、師匠相手に女性の繊細な体の仕組みやその悦ばせ方の実技指導を受けたなんてことは――口が裂けても言えない。
〇・五秒の熟慮の末、一応の事実で答えておく。
「あー、ぼくの語学の先生。たまたまこっちに来られていて」師匠に顔を向ける。「彼らは冒険者業界で知らぬ者のいない〈酔いどれ会〉です。ピルピンに、アモンテに、ネピス」三人に顔を戻す。「みんな、話したいことがたくさんあるんだけど、来月の頭に戻ってくるから、そのときにでも。ちょっと予定が立て込んでるし、先生を書店に案内しなきゃだから。ノルト語の課外授業を兼ねて」
ピルピンはニヤリとした。「うん、そうだろうとも。まるで愛鳥のように寄り添って腕を組むのは、生徒と先生のあいだじゃごくフツーの距離間だよな」
「あまりずけずけ言うな」とアモンテ。「不作法だぞ」
「そちらの〝先生〟のお名前をまだ伺っていないのだけれど?」とネピス。
お名前か。お名前ね。
ぼくは、師匠が魔導士並みの高位魔術を使えるのを知っている。リオニー産の苺に目がないのも知っている。衣類や家具の趣味も知っている。寝室の匂いも知っている。怒った声も、笑い声も、性的絶頂の喘ぎ声だって知っている。師匠が対外的には、親族の遺産で何不自由なく暮らす変わり者の魔術師、無位無官の古代魔術研究家で通しているのも知っている。
でもどういう経歴の持ち主なのかは、一切知らない。地下組合でどんな役割を果たしているのかも教えられていない。一年の半分をどこでどう過ごしているのかも。本当の名前も。
かれこれ六年の付き合いになるというのに、この人は謎が多い。
ぼくが通称の〝デマリザ〟で紹介しようとした矢先、師匠が口を開いた。
「ネピス、だったね?」
「ええ」
「名乗りが遅れた非礼を詫びよう。メイヴレンだ」
宿屋の真ん前で女二人は静かに対峙した。どちらも笑みを湛えているけれど、決闘が始まる寸前の空気に似ていなくもない。ピルピンとアモンテが〝どうにかしろ〟と目顔で合図を送ってきた。
と、師匠の指がぼくの耳たぶをつまんだ。
「痛い痛い痛い! 何? なんで引っ張るんです?」
上体が大きく傾いだところで指が離れた。と思ったら、お次は万力じみた馬鹿力で後頭部と顎をがっちりつかまれ、半開きの口を貪られた。「んー、んー」いう抗議の声を無視して、舌が舌に絡まってくる。師匠はこっちを見ていなかった。横目でネピスのほうを見ていた。
「行きましょ」
ネピスが言い、氷柱みたいな一瞥をくれながら傍らを通り過ぎた。冷やかしの口笛を吹くピルピンと、苦笑気味にかぶりを振るアモンテがあとに続く。ほかの通行人も口笛を吹いたりかぶりを振ったりしていた。
「カロ君」アモンテが短くぼくに声をかけた。「たまには文くらい出すように」
「んー」
「メイヴレンさんとやら」ピルピンは師匠に声をかけた。「あまりうちの娘っ子をいじめんでください」
三人の足音が遠ざかった。こっちの下唇を甘噛みしてから、拘束が解かれ、唇が離れる。師匠が親指でぼくの口元をぬぐう。〈酔いどれ会〉の姿はとっくに雑踏に呑まれていた。
「人前ではしたない。いきなりあんな――」
「縄張り維持のおしっこさ」
「なんですって?」
「喧嘩を売られたものだから、ついね」
「喧嘩なんか売られていないでしょう? ネピスは礼儀正しく振る舞ってた」
「いいや、今の耳長は物欲しそうな目でおまえを見ていたし、わたしに対しては、心の刃を覗かせたけしからん目つきを向けていたよ」
「気にしすぎです」
「おとぼけも大概にしたまえ。あの耳長、おまえを自分のものだと思っているぞ。アレと寝てるのか?」
「寝てません」
「どうだかね。さて」
師匠がまたぼくの腕を取り、中央街のほうへ足を向けた。
「いつだかったか、交叉大路に素晴らしい料理店があると言っていたよな? 近頃流行っている珈琲なる飲み物を出すと。そこへ行こう。どんなものか試してみたい」
「仰せのままに。近道をしましょう」
小路に入り、人気が途絶えたところで、ぼくは耳打ちした。
「ところで」
「うん?」
「さっきの名乗り、メイヴレンってやつ、レイと引き合わせてくれたときも使ってましたよね? 気に入ってるんですか?」
「そりゃ気に入っているさ。亡き祖父にいただいた幼名だからな」
足が止まる。「本名なんですか?」
「あくまで幼名だ。もう過去を知る者などいないのでね、私的な場ではメイヴレンを名乗っている。研究者としてのデマリザも幼名の一部だ。デマリザ=メイヴレンで一続きなのさ」
「へえ……」
「〝じゃあ成人後の名は?〟と口に出さない思慮分別を評価してやろう」
「ありがたき幸せ」
師匠がぼくの腕を引っ張った。
「ほら、行くぞ。腹ペコだよ。先の件の段取りもあることだしな」
実際の順番は、買い物、昼食、散歩、また風呂、馬乗りになられての精力的な性交渉、みたび風呂、そして段取りだった。一緒に湯船に浸かって話を聞くうちに、ぼくは胸の内で思わず嘆息した。
〝掃除〟は〝掃除〟でも、拘束が主じゃないか。急ぎのみならず、またもや生け捕りとは……
どうして忙しいときに限ってややこしい用事が重なるんだろう?
師匠の使い魔が梟に化けて通信文を呑み込み、依頼人のもとへ飛び立ったのは、とっぷり日が暮れたあと。烏の姿で戻ってきて返信を吐き出したのは、明くる朝食時だった。
ぼくは前回の反省を活かして着ぶくれするほど防寒対策を整えてから、民営亜竜便でいったん北部飛行網の結合点になっている新アリグザンドリアへ飛び、工芸の商談を装ってエバウハルト方面へ乗り継ぎ、そこからは新米行商人に扮して陸路、徒歩でエバウハルト街道を下った。
街道を外れ、森と野原と小川が織り成す無人地帯をジョギングすること八マイル、領と領を隔てる見えない境界線を越えた。
ロービンゲン男爵領からプレトマイア侯爵領へ。
厳密には、侯爵領の最西端に位置するプレトマイア卿直轄の猟場へ。
依頼人の事前情報もあり、暗くなる前に山荘を見つけられた。小高い山の中腹に建てられた白壁の二階建て、馬屋付きの立派な屋敷だ。麓には守衛小屋があり、林道伝いに森を出ると、野原にぽつんと平屋の狩猟番小屋。どれも人気なし。宵闇が迫る中、二マイル先の低地に目を凝らす。人口数百人といったところの村がある。狩猟番一家は普段、あそこに住んでいるに違いない。
ぼくは山荘に戻った。石畳の張り出し床は綺麗に掃き清められていた。小枝一本落ちていない。土で汚さないように綺麗な短靴に履き替え、ぐるりを回りながら正面口、各部屋の鎧戸、裏口、と順に試してみる。散々難儀を重ねた挙句に正面玄関が開いていた、なんてことが時折あるのだけれど、今夕はそこまでツイてなかった。裏の外壁を登り、今度は二階の鎧戸を試していく。東向きの部屋で――大当たり。うっかり者の閂の掛け忘れ。高価な硝子の嵌った上げ下げ窓もすんなり開いた。
窓枠に腰かけ、室内履きに履き替えたのち、そっと侵入する。
意識的に《夜目》を働かせる。真っ暗な室内の様子が緑色の濃淡で浮き彫りになる。
外から見てもわからないよう鎧戸だけ閉め――
――いざ検分。
ぼくは屋内を隈なく歩き回った。中も掃除された形跡がある。長期不在中の住居にありがちの埃避けの布が調度品や絵画にかかっておらず、どこを撫でても綿埃ひとつ指につかない。大方、関連物件の管理を任されることの多い狩猟番が、主を迎える準備を整えたのだろう。
画帳と万年筆を手に二階、一階、地下の葡萄酒蔵、と順繰りに見て回り、間取り図を完成させた。さらに何度か見て回り、間取りを頭と体に覚え込ませる。当日の状況を想像してみた。当然だが、標的の到着時刻とお供の数によって予想される展開が変わる。あれこれ考えた末に、天上の高い三室に的を絞る。食堂と、吹き抜けの居間と、主寝室。それぞれ高い位置にある採光窓の枠に油を注し、具合を確かめ、予行演習しておく。
最初の窓から外に出て、地方地図を頼りに検分の範囲を広げた。
二日後には、〝自分んちの裏庭のように〟とまではいかないまでも、遠い親戚んちの裏庭くらいには、猟場とその周辺の地形を把握できた。ぎりぎり及第点といったところか。でもまあ、ここいら一帯を見回る狩猟番に気取られないよう細心の注意を払って動かなければならなかったし、第一、準備期間がたった三日なのだ。これ以上を求められても困る。
日中、藪の中で寝ていると、落ち葉のカサつく音で目が覚めた。青目の烏。師匠の使い魔。合い言葉の「浴槽いっぱいの苺ジャム」に反応して烏が通信文を吐き出す。烏は消滅しなかった。往復用か。ぼくは山盛りの毛布と毛皮から手を出して筒状の紙片を拾い上げた。
愛しい貴方へ
どうか明日のお日様より早く発ってください。そうしたら夕方には逢えるでしょう? 宿が決まったらこ
の子を遣わしてくださいね。ああ、たったの一日がまるで永遠のよう。太陽と月よ、わたくしたちのため
に一日の勤めを早く終えてちょうだい。早く、早く、早く! キスを、キスを、キスを、百万のキスを!
追伸。Ⅱ10、1-4。お会いしたとき、どうかわたくしに囁いて。
貴方の忠実な恋人
この月並みな恋文を翻訳すると――〝一行は明くる払暁前に王都を出立す。夕刻に現地到着予定。直ちに回収地点を添えて返信されたし〟。
追伸の数字のほうは、昨今じゃ猫も杓子も遊び感覚で使っている書籍暗号。地下組合のそれの最新の種本は、考古学者タザの名著『大陸見聞録』の共通エータ語訳と、詩聖ランサムの処女作『陰の歌』の原書。前者がⅠで後者がⅡ。ぼくは『陰の歌』を《倉庫》から出した。一〇ページを開き、第一行から四行を確認する。
我ら詩人、内なる三千世界を征服せん
我らが握りし得物は夢中歩行と覚醒を分かつ霊感
皮相と実相を見分けるまなこ
自我の声と心の声を聞き分ける耳
了解。