第15話 反応速度測定
第1部 過去への贖罪
「これはまだ第一項目だ。落ち込むにはまだ早い。次で覆せ。あるいは、次も証明し続けろ」
その言葉が落ちたあと、演習場はしんと静まり返った。
けれど、それはさっきまでの沈黙とは違う。
打ちのめされた静けさじゃない。
喉元に刃を突きつけられたまま、次を待っているような沈黙だった。
誰も動かない。
蓮次は正面を見たまま、浅く、静かに呼吸を整えている。
本多は俯いたまま拳を握り込み、指の骨が白く浮いていた。
俺も無意識に、自分の指先へ目を落としていた。
第一項目で見えたもの。
足りなかったもの。
今の自分の限界値。
頭の中ではそれぞれ何かを噛みしめているはずなのに、口を開く人はいない。
その張り詰めた空気を、如月副隊長の声が断ち切った。
「十五分の休息にする」
淡々とした声音だった。
「実戦では、都合よく頭を切り替える時間など与えられんが、今日は初日だ。今だけは気を休めろ」
各々、床に座り込む者、立ったままの者、寝そべる者など様々だ。
そして――十五分後。
「休憩は終わりだ。これより、第二項目へ移る」
如月副隊長が壁際の操作端末へ視線を送る。
待機していた隊員が無言で一礼し、操作盤の上を指で滑らせた。
次の瞬間だった。
演習場そのものが、息を潜めたまま姿を変え始める。
三重結界を区切っていた白い隔壁が、床の中へ静かに沈んでいく。
音はほとんどない。
だが、その無音が逆に不気味だった。
さっきまでそこに確かにあった仕切りが、跡形もなく消えていく。
白い床は何事もなかったような顔で、滑らかな面を取り戻していく。
第一項目の痕跡が、目の前から消えていく。
床を走っていた光のラインがふっと弱まり、空間の意味が塗り替わっていく。
――天井が、白い。
なぜか、最初にそう思った。
白い。
広い。
冷たい。
第一項目が終わっても、演習場の色自体は変わらない。
それなのに、空気だけがまるで別物だった。
さっきまで標的が浮いていた空間は静まり返っている。
床の光も落ち着いている。
なのに、場の緊張だけは一瞬たりとも緩んでいない。
壁面の発光ラインが、一度だけゆっくりと脈打つ。
その次の瞬間。
壁の継ぎ目が見えた。
いや、継ぎ目じゃない。
もっと薄い。
もっと浅い。
ほんのわずかな凹みが、一定の間隔で、天井から床まで真っ直ぐ走っている。
一本、二本、三本。
壁一面に、規則正しく。
背筋に小さな悪寒が走った。
「第二項目である反応速度測定を始める」
如月副隊長の声が、白い空間をまっすぐ貫いた。
俺は黙って前を見る。
副隊長は演習場の中央へ視線を流し、短く告げた。
「中央の円形エリアに立て。一人ずつ測定する。待機者は壁際で見ていろ」
床が淡く発光した。
浮かび上がったのは、直径十五メートルほどの半透明な光の壁。
薄いリング状の光だが、その中だけが、まるで切り取られた舞台のように見えた。
本多が反射的に一歩前へ出る。
「順番は俺が決める」
ぴたり、と足が止まる。
「最初は天宮蓮次だ」
「はい!」
蓮次が短く応じ、光の中へ歩み出た。
測定室と呼ぶには広すぎる演習場が、今はその壁の内側だけに圧縮されて見えた。
白い床が淡く光を返し、その中央に立つ蓮次の輪郭だけが、妙にはっきりしている。
「前半は単発の即応反応だ。正面、左右、背後。どこから飛ぶかは毎回変わる。発射間隔も一定ではない。対応は自由だ。避けてもいい。防いでもいい。撃ち落としてもいい」
如月副隊長の声に、無駄はない。
「ただし、一発ごとに大きく飛び退くな。次が来た瞬間に立て直せなくなる者が多い」
その一言で、空気がさらに細く張る。
「ここで見るのは速さだけじゃない。どれだけ無駄なく、続けて処理できるかだ。一発に振り回される奴は、その時点で実戦向きじゃない」
全員が蓮次を見る。
蓮次は光の壁の中心で、肩幅に足を開いた。
力みはない。
派手な構えもない。
ただ、そこに立っているだけだ。
なのに、隙が見えなかった。
「始め」
開始のブザーが鳴る。
そのあとに訪れた無音が、妙に長く感じられた。
――開いた。
壁の凹みが、細い裂け目に変わる。
そこから放たれたのは、淡い橙色の光弾。
一直線に正面。
速い。
だが、蓮次は一歩も動かなかった。
右肩が、ほんのわずかに引かれる。
重心が軸足の上で滑る。
それだけで光弾が肩の横を抜け、壁の奥で消えた。
次は左。
スリットが開く。
その瞬間には、もう蓮次の腰が動いている。
軌道から最短で外れる位置へ、体が静かにずれる。
小さい。
あまりにも小さい。
大きく避けない。
飛び退かない。
余計な呼吸すら見えない。
必要な分だけ、そこから外れる。
三発目は背後。
振り返らない。
蓮次は半歩だけ前へ出た。
それだけで背後から飛んだ光弾が虚しく空を切る。
「……」
誰かが息を呑んだ。
四発目。
五発目。
六発目。
速度が上がる。
間隔が縮む。
だが、蓮次は崩れない。
正面、左、右、背後。
どこから来ても、同じ質で捌く。
動きが荒れない。
姿勢が浮かない。
焦りが滲まない。
数発に一度、迎撃が混じった。
指先にだけ小さく魔力を集め、飛来する光弾を正確に弾く。
光がその場で弾けて消えた時には、もう次の処理へ戻っている。
十二発目。
背後――しかも速い。
蓮次の右足が半歩だけ外へ滑り、上体がわずかに沈む。
橙の線が腰の横をかすめて抜けた。
終了のブザー。
蓮次は平然と立っていた。
呼吸も乱れていない。
今の十二発が本当に飛んでいたのか疑いたくなるほど、変化がなかった。
壁の発光ラインが鋭く脈打ち、今度は複数のスリットが、わずかな時間差をつけて開いた。
後半が始まる。
「ここから多方向連続反応に移る」
如月副隊長の声が続く。
「二発、三発、四発と連続で発射する。一発ごとに区切るな。次が来る前提で捌け」
その低い声と同時に、最初の二発が飛んだ。
正面。
右。
蓮次は正面を最小限で外し、その流れのまま右の一発を肩の開きだけで処理した。
止まらない。
動きが繋がっている。
避けた、終わり、ではない。
最初の一動から、もう次の一発に備えた形になっている。
三発連続。
左、背後、右。
背後への対応で姿勢を乱す者が多い並びだ。
だが、蓮次は乱れない。
左へ僅かに軸をずらし、背後の線を前への半歩で空振らせる。
最後の右だけを、指先に集めた小さな魔力で弾いた。
弾けた光が散って消える。
それでも、まだ大きく動いていない。
「……すげぇ」
誰かが、思わずといった声を漏らした。
四発連続に入る。
正面、左、右後方、背後。
嫌らしい並びだ。
一発目で前へ引けば、次で足を取られる。
横へ流されれば、後ろが遅れる。
だが蓮次は、そこでようやく半歩分だけ位置を変えた。
正面を紙一重で外し、左は腰の切り返しだけで処理する。
右後方には振り向かない。
肩を引き、線だけを逸らす。
最後の背後には、その場で重心を沈めるだけで間に合わせた。
静かだった。
連続で飛んでいるはずなのに、蓮次の動きには焦りの音がない。
無理がない。
急がない。
それでも遅れない。
後半に入っても、単発の時と質が変わらないのだ。
最後の高密度連射。
複数のスリットが、壁と天井で連鎖する。
正面。
左。
背後。
右。
さらに正面。
光が奔る。
蓮次はここでも崩れなかった。
一発目を最小限の体捌きで外し、左は足ではなく上体の角度だけで逸らす。
背後への反応も遅れない。
半歩前へ出た流れで右へ繋ぎ、最後の正面だけを迎撃する。
光弾が弾け、白い床に細かな粒となって散った。
終了のブザー。
蓮次は静かに息を吐いた。
最後まで処理の質は落ちなかった。
終わってみれば、最初に立っていた位置からほとんど動いていない。
単発で完成されていた動きが、連続でも崩れない。
それが、そのまま蓮次の強さに見えた。
蓮次は一礼し、光の壁の外へ出た。
「次。本多哲也」
本多が前へ出る。
立った瞬間に分かった。
蓮次とは、真逆だ。
両足は広い。
肩に力が入っている。
拳はすでに半ば握り込まれ、目は獲物を睨む獣みたいに前へ据わっていた。
始まる前から全身が戦闘状態だ。
「始め」
最初の一発――正面。
本多の反応は速い。
だが――大きい。
横へ、一歩半。
光弾の線から大きく飛び退く。
避けたというより、振り切ったに近い。
その時点で、もう足は壁の縁近くまで流れていた。
二発目。
来る。
本多は戻ろうとした。
だが、戻りきらない。
肩口を光弾が掠める。
「っ、くそ……!」
低く漏れた声が、白い演習場に刺さった。
三発目は左。
また大きく飛ぶ。
四発目が来た時には、すでに動きが荒れている。
反応自体は悪くない。
むしろ速い。
ただ、毎回出力がでかすぎる。
一発ごとに全力で捌く。
だから、一発ごとに体勢が削られる。
次が来た時には、もう前の動きのツケを払わされている。
七発目――背後。
本多がわずかに遅れた。
気づいてはいる。
反応もしている。
だが、踏み直しが入った。
その一拍の遅れを、光弾は逃さない。
腰の後ろを打つ。
乾いた被弾音が鳴った。
本多の肩が跳ねる。
悔しさが背中からそのまま伝わってきた。
「っ、まだだ!」
八発目から、無理やり動きを抑えにいったのが分かった。
けれど遅い。
全身で捌く癖が抜けていない。
十二発が終わるまでに、被弾音は三回響いた。
だが、そこで終わりじゃない。
壁の発光ラインが鋭く脈打ち、複数のスリットがずらして開く。
後半。
本多の肩が、わずかに揺れた。
単発だけでも荒れていたのに、ここで連続になる。
見ているこっちにも、それが本多にとって相性の悪い領域だと分かった。
最初の二連続。
正面、左。
本多は一発目には間に合った。
だが、大きく避けた分だけ二発目への戻りが遅れる。
光弾が脇腹を掠めた。
「っ……!」
息を呑むような声。
本多の顔が歪む。
苛立ちと焦りが、一気に表へ滲んだ。
三連続。
右、背後、左。
一発目に反応しすぎたせいで、背後への切り替えが一拍遅い。
無理に振り向いて体勢が流れ、最後の左で足場が乱れる。
被弾音。
短く、重い音が鳴る。
本多の奥歯が噛み締められるのが、離れていても分かった。
「……っ、まだ……!」
声が低い。
押し殺しているのに、押し殺しきれていない。
四連続ではさらに露骨だった。
全部に全力で応じようとする。
だから、全部に少しずつ遅れる。
動きそのものは鋭い。
踏み込みも強い。
反応だって遅くはない。
なのに、噛み合わない。
強さが、そのまま処理の雑さに変わっていた。
正面を大きく避ける。
戻りが遅れる。
次に間に合わせようとして無理に踏み込む。
さらに体勢が崩れる。
悪循環だった。
最後の高密度連射に入る頃には、本多の呼吸は目に見えて荒くなっていた。
それでも止まらない。
止まれない、という方が正しいのかもしれない。
被弾音が一度。
続けて、もう一度。
さすがに壁際の空気が重くなる。
本多はそこでようやく一歩、踏ん張るみたいに足を止めた。
肩で息をしながら、それでも前を睨みつけている。
悔しいんだろう。
自分でも分かっているはずだ。
反応できていないわけじゃない。
動けていないわけでもない。
なのに、届かない。
噛み合わない。
そのズレが一番、本人を苛立たせていた。
終了のブザー。
本多は息を荒くしていた。
肩が大きく上下している。
握った拳が震えていた。
一瞬だけ、床を睨む。
その視線の落ち方が、妙に生々しかった。
悔しさと苛立ちと、たぶん、自分への腹立たしさ。
全部を飲み込めないまま、それでも本多は顔を上げた。
負けたまま終わるのが嫌だと、背中が言っていた。
それでも光の壁の外へ出る足は止まらない。
ふらつきも見せない。
そこだけは、本多らしかった。
その後も測定は続いた。
初動は鋭いのに、背後への反応だけが露骨に遅れる者。
単発では良くても、連続になると一気に処理が荒れる者。
防御を選びすぎて足が止まる者。
逆に、避けられるのに毎回迎撃を選び、次へ繋げられない者。
反応速度測定は、第一項目とは別の残酷さで、それぞれの癖を容赦なく暴いていった。




