英雄卿の愛娘
春の暖かな日差しに、ついうっかりとうたた寝をしていたルシアは、慌てて目を覚ました。
コルヴィナス公爵家の長女の乳母を務めた女は、この春に家政婦長へと任命され、今日は午後はお休みを頂き、ゆっくりと編み物でもしようかと思っていた。本来ならこの時期に休みを頂くなどもっての他だと、責任感の強い彼女は断固として受け入れなかったが今年だけは別だった。
「まぁ、公女様ったら!」
公爵邸の窓の外から聞こえてくるのは、金属のぶつかる音、だけではない。コルヴィナス家の有する薔薇の騎士団、その騎士たちが切磋琢磨する訓練場からは明るい少女の声が歌うように聞こえてきた。
ルシアは大急ぎで自分の部屋から飛び出し、訓練場へ向かう。すれ違う使用人たちが皆ルシアに敬意をもって挨拶をし、真面目な彼女はそれにきちんと返事をするが、何人かが時間稼ぎのためにあえて丁寧なあいさつをしてきていることもわかっていた。
「あ、母さ……じゃなかった。家政婦長。えーっと、あ、えーっとですね。そうだ。あの、夕食のメニューについてご相談があるのですが……」
「そこをお退きなさい、ハンス。わたくしは今日はお休みを頂いてるのです。そうした話は執事長となさい」
「で、でもですね……その」
きつく睨みつければ息子のハンスはたじろいだ。料理人見習いから副料理長になったハンスは相変わらず気が弱い。母親の剣幕に後ずさり「ごめん、お嬢様」と両手をあげて降参し、母に道を譲った。
ずんずん、と、長いスカートを持ち上げて進むルシア。普段は女性使用人たちの憧れの存在だが、美しい顔を真っ赤にしている姿は、誰が見ても恐ろしい。
訓練場に入ると、ルシアに気付いた若い騎士たちが「うっ」と怯え、身を竦ませる。何人かは「だ、誰か公女様を……!」と駆け出しそうになるが、ルシアが強く睨みつけ「そこにいなさい」と言うと、彼らは「はい」と子供のように返事をすることしかできなかった。
「ははは!あはははは!!うん!騎士団長!!なかなか良い剣筋だな!腕を上げたな!」
「恐れ入ります、公女様」
キンキーン、と、金属音を重ねて、歌うように笑うのはまだあどけない少女。
炎のように赤い髪に、青空よりも青い瑠璃の瞳の愛らしい公女様。公子のようなズボンにシャツという装いで、片手で細い剣を操り、彼女の倍以上もある厳めしい騎士を相手にしている。大人が子供を相手に手加減をしているという風景ではない。腕力、体格、背丈の圧倒的な差をまるで差とも思わずに、むしろそれくらいなければまともに相手ができないと、ルシアも知っていた。
しかし、そんなことは重要ではない。
「イザベル様!!!!!!!!」
淑女がそんな大声を出すなどはしたないと、普段のルシアであれば思うのだが、しかし仕方ない。
大きな声で名を呼ぶと、訓練場で玉のような汗をかき大変快活にお過ごしあそばされていた公女様は「うっ!!!!!!」と声を詰まらせて動きを止める。
「ル、ルシア……」
乳母であり、今は家政婦長であるルシアの存在に気付き、一瞬顔を引きつらせたものの「ここで後ろめたい顔をしたら負けだ」とでも思っているのか、公女様はそれはもう愛らしい満面の笑みを浮かべた。
「ごきげんよう。精霊も微睡む良い昼下がりだな」
イザベル・コルヴィナス公女。
一月後に12歳の誕生日を迎え、王族とご婚約されることが決まっている貴族令嬢。
ルシアが赤ん坊の頃から大切にお育てした公爵令嬢は、相変わらず暇を見つけては乳母の目を盗んで訓練場に入り浸っている。




