月光
「………………怪我は、ありませんか、イザベル」
激しい振動と、衝撃。一気に視界が暗くなり暫く。私を抱きしめる女の腕から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
……怪我などあるわけがない。
私は落下の間際、リコリス・コルヴィナスに庇われ、抱きしめられ、彼女が私に覆いかぶさったおかげで何一つ、痛い思いなどしなかった。
辺りは暗く、狭く、あちこちから人の叫び声やうめき声がする。潰れる人から流れる血の臭いがした。
「…………あの方が貴方を必ず見つけだすでしょう。イザベル。何も、貴方は心配しなくてよいのです」
リコリスが囁く。
なぜ、と私はただ困惑した。今この女は、あまりにも気の毒な人生を送った女は私をただの赤ん坊だと思って守っている。そうではないことを彼女はよく知っていて、本気でそう貫き通すつもりなのだ。
私の赤ん坊としての心が泣き出した。オギャア、と、赤ん坊の仕事として泣いているだけではなく、自分の母親が死ぬかもしれないと、死ぬと察して泣き出した。耳障りだろうその甲高い鳴き声を最も近い位置で耳にしてもリコリスは煩わしいと顔を顰めることはなかった。私を抱き、頬に触れる手を動かしてあやす。
「公女ともあろう者が、そうみだりに騒ぐものではありませんよ。イザベル。貴女は美しいレディになるのです。花を愛で、白いレースや優しい人たちに囲まれて、その手に持つのは刺繍針。カトラリーより重い物など、ましてや剣をその手にすることなどないように」
リコリスの体温が少しずつ、失われていく。
彼女の体のあちこちから流れる血が、私の体を濡らした。
指輪を返してくれと私は叫んだ。
あの黄金の指輪があれば、私は赤ん坊のままではなくなる。剣さえあれば、こんな生き埋めの状態から脱出できる。腹に納めたそれを返してくれと、私は母に懇願した。
「あの頃の貴方を知る若い娘は皆、貴方に憧れておりました。愚かなわたくしもその一人だったことが、実はあるのですよ」
私の訴えがわからないわけのないリコリスは、それでも淡く微笑んで首を振る。
「思い出せてよかった。わたくしは、貴方の役をすることがそれほど嫌ではなかったのです」
嘘をつくなと私は思った。
そんなはずがないだろう。この女は嘘をついているのだ。最後の最後に、私が気に病まないように、嘘をついているのだ。
私を憎んでいて、大嫌いだったではないか。そうに決まっている。私のような女さえいなければ、良い人生を送れただろう、それがわかっている賢い女が嘘をついている。
「薔薇の剣を抱いた貴方はここでわたくしと死にます。もう貴方はイザベル・コルヴィナスとして生きるのです。これでもう、よろしいですわね」
すっと、大きく息を吐いてリコリスが私を抱きしめた。
最後に一度だけ強く抱きしめて、そしてそれっきり、リコリスは動かなくなった。
そのほんの少しあと、私はアーサーから助け出された。




