天正七年・秋
天正7(1579)年、葉月(旧暦8月)。
浜松の城内。万は自室で寛いでいた。
(私も、もう三十……)
自分が初めて目通りした折の築山御前は、そのくらいの年齢だったはず。しかし現在の己には、あの当時の御前の落ち着きも無ければ、優雅な風情もない。国守の妻としての自覚も足りていない。
(奥方様には、まだまだ及ばない……)
万は苦笑する。
魯鈍な己を、御前との比較の俎上に載せるとは、増上慢にも程がある。家康の側室としての生活に馴染みすぎ、知らず知らずのうちに思い上がっていたようだ。
自分など、奥方様の前では塵にも等しい身であるのに。
(衣装も、食事も贅沢になって。私は──)
今更ながら、身にまとう着物を確かめてみる。
万は小袖の上に、桜文様の打掛を羽織っていた。襟元を軽く引く。
季節は、秋。大気は日々、冷えていく。
(でも、ここ数日は過ごしやすい陽気だわ)
岡崎城下、築山御殿の庭の桜はどうなっているだろう? 『葉月』の名に相応しく、葉を落としているだけなのか?
それとも、もしや。
再び狂い咲きを──
ほんの少し瞬きするだけで、鮮明に思い出せる。
瞼の裏に焼きついて離れない、あの夜の光景。
(もう十年以上も前の出来事なのに、つい昨日の晩にあったかのような……)
闇夜の桜。
万の身体が結わえられた幹。
万の血を吸った花弁。
まだ十代であった自分──
桜は、春を彩る花。
それが、秋に咲く。
間違っている。正しくない。
異常で。奇怪で。狂っていて。
血に迷っていて。
常識から外れている。
倫理に背いている。
しかしながら、それはあまりにも美しく。
幻のようで。闇の空に掛かる、白虹のようで。
あの夜の夢から、覚めたくない。
永遠に微睡んでいたい。だから万は好んで、桜柄の着物を身にまとう。
(奥方様──)
ふと、万は背中が疼くのを感じた。築山御前に笞打たれた際に出来た傷は、完治している。皮膚の裂け跡も、かなり薄くなった。
けれど、時折チリチリとした痛みを覚えるのだ。甘い痛みを。何故であろうか?
万が、笞を振るう御前の姿を脳裏に描きつつ目を閉じていると──
「万よ。話がある」
男の掠れた声が、唐突に聞こえた。
目を開く。着座している万のすぐ前に、家康が居た。
長篠の合戦で武田に大勝してから、家康の立ち居振る舞いには、以前には無かった余裕と威厳が備わるようになった。
が、今日の彼は、崩れるように床へ腰を下ろしている
いつになく、憔悴した顔つきの家康。
その額には、汗が浮かんでいる。
「お屋形様……」
重大事の予感。
万は、居ずまいを正した。
「何事でしょうか?」
「御前が死んだ」
「は?」
家康の言葉が、万の耳には入らない。
「あのぅ……御前とは?」
「築山だ」
頭の中が真っ白になった。
意味が分からない。
理解したくない。
「……………」
家康は、一旦口を閉じた。
万が返事するのを待っている。
「どうして、奥方様が……」
「……………」
「どうして!?」
絶叫のような、悲鳴。
「何故? どうして? 奥方様、奥方様が──」
黙したままの家康へ、荒い声をぶつける。
万は低い身分の生まれだ。実家の後ろ盾などない。それ故に、万は内心はどうであれ、家康の機嫌を損ねないように注意深く暮らしてきた。我が身はどうなっても構わないが、於義丸の行く末だけは守ってやりたかったためだ。
けれど、今、万はその自戒を忘れた。
家康が苦渋に満ちた表情を浮かべる。
「岡崎衆と浜松衆との間に、齟齬が生じた。その間隙に武田がつけ込み……信康謀反の噂が立った」
「そのようなこと、あり得ません!」
「分かっておるわ!」
家康が怒鳴る。万はビクッとなる。家康に大声で叱られたのは、これが初めてであった。
「しかし、その風評が信長殿にまで達した」
「織田信長様……」
信康の正室である徳姫の父。そして、事実上の天下人。
「信長殿より伝言があった。〝信康は我が娘婿ながら、切腹させても苦しからず。遠慮は無用〟と」
それは、実質的には織田家からの命令――いや、厳命。格下の徳川家に逆らうすべなど無い。
「ならば、奥方様は……」
「浜松へ参る途中、命を落とした。信康の助命を願っての自害だそうじゃ」
「――っ!」
嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!
万は、直感した。あの誇り高く、賢い築山御前が、そのような短慮に走るはずがない。
信康の命乞いが目的なら、何はさておいて、家康と面談しなければ話にならない。おそらく築山御前は、家康と直談判するために岡崎より浜松へ向かったのであろう。
だが、家康は御前に会いたくなかった。家康は既に、信康の命を諦めている。徳川家を守るために、〝信康は捨てる〟と決めてしまったのだ。
万は知っている。
家康は、そういう人間だ。薄情なのではない。何があっても、優先順位を揺るがさないのだ。いざとなれば、家の為と割り切り、己の命も家族の命も当然のように投げ出せる男。それが、徳川家康なのである。
家康は、嫡男の信康を愛していた。もとより、今でも愛している。
その将来に期待をかけていた。しかし、救おうとはしない。
まかり間違って、なおいっそう信長を怒らせれば、徳川家が滅んでしまう。
肉親への思いに溺れて転落する自儘など、大名には許されない──家康は、そう固く信じている。
けれど。
そんな家康も、御前に直に責められたくは無かったのだろう。御前より敵意の眼差しで見られるのが、恐かったに違いない。御前に「信康を殺す」とは告げたくなかった。夫が妻へ「子を殺す」とは、どうしても言えなかった。
だから、代わりに築山御前の口を塞いだのだ。家臣に指示し、御前の生命を奪ったのだ。殺したのだ。奥方様を。あの貴婦人を。あの美しい方を。尊い方を。私の主を。
私の、誰よりも大切な人を。
(奥方……さ……ま……)
そうだ。奥方様は、今川義元公の姪。信長が討った、義元公の。今も生き続けている、古き因縁。
加えて……築山御前の実家である今川は、武田の縁戚。御前と信康をまとめて殺すことで、織田への言い訳は完璧に立つ。これ以上、つけいる隙を与えたりはしない。
そのように、家康は──徳川家の当主である家康は考えたのかもしれない。
でも。
酷い。酷すぎる──
(────つっ!)
背に、激痛が走る。たった今、切り裂かれたかのような痛み。傷など、とっくの昔に塞がっているのに。
万の血が、逆流する。
眼前の家康。奥方様の仇。この男をこそ、今この場で殺してやりたい。
我を忘れて家康に掴みかかろうとして――――万は、動きを止めた。
(え────?)
家康が顔を伏せ、泣いていた。何事かを呟いている。
「――、――、――」
家康の口より何度もこぼれ落ちる、同じ女の名前。
高貴な女性の名に相応しい、その典雅な響き。
……
…………
………………ああ。
……ああ、これが。
(奥方様の、本当のお名前)
かつては侍女であり、現在は側室にすぎない万には、口にすることが出来ない名。
その名を今、家康が慟哭しつつ発している。
何度も。何度も。何度も──
そう。
思えば、家康と築山御前は二十年を超えて夫婦であったのだ。万には窺いしれない絆もあれば、情もあったはず。
(この男も、男なりに、奥方様を愛していたのか)
いいや、違う。この男――では無い。
(私は、側室の身。けれど)
家康はれっきとした我が夫、我が子の父なのだ。
気が付くと、万も涙を流していた。閉めきられた部屋の中、二人の嗚咽が響きわたる。いつしか男と女は互いの体温を求め合い、寄り添い合っていた。
(温かい……)
万が家康に抱かれてから、既に十余年。万は初めて、家康を愛しく感じた。
(――奥方様。万もお屋形様も、奥方様を失ってしまいました)
築山御前は殺されると悟った時、どのような思いを心中に抱いたのであろうか?
憎悪か、未練か、絶望か、それとも――
築山御前殺害の地は浜松の南西、富塚と伝わっている。
御前は、ついに浜松の地にたどり着くことは出来なかった。
了