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永禄十年・秋

 家康と万が結ばれて──


 築山御前の目を盗んで、家康は幾度も万のもとへ通ってきた。万は、格別器量よしでは無い。けれども万の若くて健康な四肢(しし)は、家康にとって(たま)らないものだったらしい。


 万は、男のなすがままに任せた。疲れるだけの交わり。身体が、悲鳴を上げる。その一方で、心は弾む。


(この男は、奥方様の夫)


 家康に征服されつつ、万は己が築山御前を征服しているような錯覚に陥った。ただの侍女である自分が、この上も無く高貴な女性である奥方様を――

 それは例えようも無いほどに、甘美で刺激的な感覚であった。



 秋の深まる、空が高い日。

 澄んだ空気に抵抗するかのように、築山御殿の庭に植えられた桜が狂い咲くのと時を同じくして。


 万と家康の密通が、築山御前に露見した。


 御前は、激怒した。夫である家康の不貞には慣れていたものの、よりにもよって、己が可愛がっていた侍女に手をつけるとは。

 家康に裏切られ、万にも裏切られた。


 御前から見ての、家康と万──傾けている心の形は違えど、大事に思ってきた二人が同時に自分へ背を向ける。陰で秘かに笑い合っているのに相違なく──許せるはずもない。


 夕暮れ時、築山御前は万を自室へと呼び出した。脇息(きょうそく)にもたれかかりながら、物憂げに万へ話しかける。音程が低い。


「万よ。こなた、殿よりご寵愛を賜ったそうじゃな」

「は、はい……」

 万は喉がひりつき、声を出せない。恐怖のためではない。愉悦(ゆえつ)のためだ。


 これまでは、奥方様にとって万は単なる侍女に過ぎなかった。〝目を掛けてくれている、大事にしてくれている〟とは言っても、所詮は大勢の中の一人。普段は気にも留めない。よしんば不意に万が失踪(しっそう)したとしても、御前はわざわざ探したりはしないだろう。幾らでも、替わりの者は居る。

 万にとっては御前はただ一人だが、御前にとって万は特別ではない。


 しかし、今は違う。万は、一個の明瞭な人間――生身の女として、御前の瞳に映っている。

 ────嬉しい。


「こなた、しがない下女の分際で、殿へ色目を使うとは……許せぬ」

 脇息を転がし、御前はヨロヨロと立ち上がった。平素の(たお)やかな姿は、見る影も無い。憤怒のあまり、その形相は歪んでいた。顔面は蒼白で、目は血走っている。


 にもかかわらず、万は

(ああ。奥方様は、怒りの表情もお美しい)

 と胸中の鼓動を早めた。


 万へ近寄る、御前。その手には竹製の(むち)が握られていた。

「万、こなたは!」


 御前は万の着物を剥がすや、むき出しとなった背中へ渾身(こんしん)の力で笞を振るった。


 ピシリ、ピシリと。


 万の白い背に赤い筋が幾本もできる。立て続けに走る、鋭い痛み。万は必死に歯を食いしばった。気を抜けば、思わず苦痛では無く、歓喜の声を漏らしてしまいそうで。


「この! 小娘のくせに、淫らな!」


 笞の音が鳴り響き、万の背の皮は無残に破れた。鮮血が流れ落ち、布子(ぬのこ)が赤く染まる。


(奥方様のお部屋を、私の血で汚しては申し訳ない)

 ぼんやりと、万はそんなことを考える。


 ついに御前の手が止まる。怒りは未だ収まらないものの、腕が疲れてしまったようだ。万の無反応ぶりに、戸惑いを覚えているのかもしれない。


 御前が叫ぶ。

「誰か、来やれ!」


 築山御前の部屋へ集まってきた侍女たちは、凄惨な光景を目の当たりにし、揃って立ちすくむ。

 荒い息を吐きつつ、笞を固く握りしめている夫人。血まみれの状態で床に突っ伏している、若い側仕えの女──彼女は、夫人のお気に入りだったはずなのに。


 何故万がこのような仕置きを受けているのか、少なからぬ数の侍女は事情を察し――けれど、取るべき行動が分からない。万の手当てをするべきなのか? だが、それで築山御前の怒りの矛先が自分たちへ向いてしまったら……。


 岡崎城下で孤立しているとは言え、御殿の中では築山御前は万能の主なのだ。


「この浮かれ()、如何にしてくれようか? ……そうじゃ! あの、桜が良い。庭の桜に、この女を縛り付けよ!」


 御前の命に従い、侍女たちは万を桜の樹に細縄でくくりつけた。

 季節外れに狂い咲いている桜の花が、ヒラヒラと舞い落ちる。ある花弁は万の乱れきった黒髪に貼り付き、別の花弁は万の血を吸ってその色を濃くした。


 狂った桜に、狂った女性。狂っているのは築山御前か、それとも万か?


「そこで、一夜を明かすが良いわ! さぞや、頭も冷えるじゃろうて」

 築山御前は高笑いしつつ、部屋の奥へと姿を隠した。侍女たちも、無言で去っていく。


 静寂の中、万は一人になった。



   挿絵(By みてみん)



 西方に日が没する。辺り一面は闇に包まれた。


(暗い。月は……月は、出ている──?)

 見えない。


 秋の夜は冷える。

 血を流しすぎたせいか、万の身体は次第に小刻みに震えはじめた。痛みは、もう感じない。知覚が、麻痺しているためか。


 ここで、自分は死ぬのだろうか――


 薄れゆく意識の中で、陶酔まじりに万は思う。

 それも良い、と。


 奥方様に殺される。

 それは、とても素敵なことなのではあるまいか? 


(奥方様は、間違いなく、私を憎んでいる)

 一介の侍女である自分を。


 奥方様が自分を愛してくれることは、あり得ない。しかし、憎ませることは可能だったのだ。尊貴で、美しく、手が届かない存在であった奥方様の心に傷を付けることが出来た。


 それは、矮小(わいしょう)な自分にとって、この上も無き僥倖(ぎょうこう)。身に余る栄誉。

 万の口角が上がる。満ち足りた気分で、死ねそうだ。


(朝方、死体となった私を最初に見付けるのは、奥方様であって欲しい)


 奥方様が、自分の亡骸を目にする。驚くだろうか? 喜ぶだろうか? ひょっとして……少しは嘆いてくれるだろうか?

 この狂い咲きの桜の樹の根元に埋めて欲しいと望むのは、身の程知らずな我がままか。


 万の思考が混濁しはじめた頃。何者かが、万の縄を解く。


「……どなた様?」

 夢うつつのまま、万は呟く。


「喋るな。いま、助けてやる」

「いえ。ご無用に願いまする」

「……度しがたい娘だ。この期に及んで、御前へ忠義立てか?」

「忠義では、ありません」


 主人である奥方様の夫に通じたのだ。これ以上の不忠は、あり得まい。


「けれど、お詫びしなければ。叶うならこのまま死んで、奥方様の心を僅かにでもお慰めしたく……」


 虚言だ。遺体となって、奥方様の心に更なる爪痕(つめあと)を残したい――願うのは、それのみ。

 そうなれば、あの方の記憶の中に自分は長く留まっていられる。素晴らしい。


 万の告白を聞いて、男が吐き捨てる。

「それで、そなたの御前への義理は果たされるやもしれぬ。じゃが、殿への忠誠はどうなる?」

「殿?」


 誰だ、それは? ……ああ、あの狸か。そう言えば、そんな男も居た。築山御前の夫であるという他には、価値の無い男。


「そなた、殿に手をつけられたのであろう? まんいち、殿のお種を宿していたら如何するのだ?」


 種……子供?

 万は、混乱した。男と女が交われば、子が出来る。知ってはいたが、今の今まで、子をはらむ可能性を考えたことはなかった。


 自分の中に、あの狸の子がいたりするのだろうか? おぞましくは――無い。だって、奥方様も、あの狸の子を生んだのだから。


 もしも生まれれば、その子は竹千代様と亀姫様の異母兄弟。


 自分が生んだ子を、竹千代様と亀姫様が兄弟として慈しみ、仲良く遊んでくれる。

 そんな幻を見ながら、万の意識は暗闇の底へと落ちていった。


 万を救い出した男の名は、本多作左衛門重次(しげつぐ)。岡崎三奉行の一人で頑固一徹、鬼作左(おにさくざ)との異名を持つ。気に食わないことがあれば、家康にさえ平気で悪態を吐く三河武士だ。

 彼にとっては、築山御前の怒りなど屁でもないらしい。


 作左は知人の家へと万を担ぎ込んだ。家人による看護の甲斐あって、万は一命を取り留めた。


 作左より報告があったのであろう。療養中の万のもとへ、家康がやって来た。


 家康は痛々しげに万を見つめつつ、ポツリと呟いた。

「万、無事で良かった」


 万は意外に思った。この男は、自分を気に掛けていたのか? そんな暇があるのなら、もっと奥方様に心を遣えば良いのに。間が抜けているにも、程がある。


 続けて、家康は述べる。

「御前を恨んでくれるな」


 何を当たり前のことを。こんな男に言われるまでも無い。

 万は深く、頷いた。


 御前に嫌われてしまった万は、もう築山御殿へは戻れない。実家とは、そもそも縁が薄い。流されるまま、家康の側室になるしか無かった。

 自分を正式な妻として迎えるとは――それでも、万の中で家康の評価はあまり上がらなかった。狸が、人間になったくらいだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 各人の思いの交錯の描写が凄くいいです。 歴史上の背景もしっかりしている印象を受けます。
[一言] ここでタイトル回収!! これは胸熱( ˘ω˘ )
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