永禄十年・夏
永禄9(1566)年、師走(12月)。家康は、松平から徳川へと改姓する。
その翌年の春、ある日のこと。
「そなた、名は?」
築山御殿の廊下で、万は家康に声を掛けられた。
万は、十八歳。
家康は、二十六歳。
万は、不快であった。が、返事をせねば礼を失する。
「万と申します」
「御前の侍女か」
「はい」
平身低頭したまま答える、万。出来うる限り、狸の顔など見たくは無い。虫酸が走る。
「御前に仕えてどれほどか?」
「一昨年の春より、かれこれ二年は……」
「あれは、気難しかろう? 苦労を掛けるな」
「そのような事はございません!」
反射的に、万は顔を上げてしまった。家康と目が合う。まん丸な狸顔。しかし、瞳は炯々として光っている。獲物を見付けた、鷹のような眼差し。
「ほぅ。そちは、見目良いな」
家康がニンマリと笑う。大きな唇が、ひん曲がる。気味が悪い。万は慌てて平伏し直した。
「ご、ご無礼を!」
「よいよい。気にするな」
家康は歩み去った。万は安堵の息を漏らす。羽をもがれる寸前の蝶になった気分であった。
(あの狸みたいな男が、今では従五位下三河守)
……滑稽だ。
♢
築山御前は、しばしば駿河時代の思い出を懐かしそうに、万たち侍女へ語る。
「殿が駿河へやって来られた当初は、心なき者どもに〝三河の宿無し〟と蔑まれることもあった。けれども、わらわと婚姻して以降は、そのような不埒な輩は居なくなった。わらわは、御所様に可愛がられていた故──」
自分は御所様──今川義元公の姪。
父の関口親永も、婿への力添えを惜しまなかった。
家康と自分の駿府における生活は、円満で幸せなものだった。
──御前の言葉に嘘は無いだろう。義元公の家康への期待は大きかったに違いない。麗色と才気で知られた我が姪を、わざわざ選んで娶らせるほどに。この縁組みによって、今川家重臣としての家康──当時の名乗りは、次郎三郎元信──の将来は約束されたのだ。
万は時々不安になる。
(奥方様は、三河での生活に不満がおありなのだろうか?)
それも、無理なきこと。
田楽狭間の合戦で義元公が命を落とさなかったら、御前と家康の境遇は今とは全く異なったものになっていたはず。
現在の築山御前の暮らしは、軟禁同然。
(お屋敷に押し込められて、もう数年。お労しい、奥方様……)
家康が妻の安全を重要視した結果なのであろうが、とは言え、細やかな心配りが不足しているのは否めない。
そして家康は、義元公を討った織田家と同盟を結び、かつての主筋である今川家と対立している。その余波で、関口親永は今川氏真に切腹を命じられてしまった。
氏真は義元公の嫡男で、現今川家の当主。
夫の行いが従兄弟を怒らせ、父親の死の原因となる──御前の心境がどのようなものなのか、万には想像もつかない。
(殿をお恨みしても良いはずなのに、奥方様はそんな素振りを一切お見せにならない)
自制しているのか、あるいは家康への愛情がそれだけ深いのか。
どちらにしろ、万の御前に対する尊敬の思いは強まるばかりだ。
(奥方様が駿府を追われて、岡崎にいらしてくだされたからこそ、私はお会いすることが出来たんだ。奥方様の不幸が、私に幸せを運んできた──)
後ろ暗い喜びの感情にひたる己を、万は恥じた。
♢
築山御前と家康の関係は、未だに万にとっては理解の外だ。
夫である家康の訪れがあった日は、御前の機嫌は特に良くなる。
「万よ。殿はのう……わらわに、こう仰ったのじゃ」
などと、嬉しげに万へ述べる。
万は疑問に思う。
(男とは、それほどに良きものなの?)
夫婦とは、いったい何なのであろうか?
築山御前の家康への専心が、万には不可解でならない。
謎を解こうと、万は企んだ。
そして夏の初め。万に、家康の手がついた。
無理強いされたわけではない。家康は確かに女好きではあるが、ことに及ぶ前には相手の了承を必ず取る。身分の低い者に断られても、特段意趣は含まない。そのあたりは、妙に律儀であった。
万は抵抗しなかった。
……いや。考えようによっては、万より誘ったとも言える。家康が築山御殿へやってくるたびに、万は意識的に顔を合わせるようにした。隙あらば家康へ視線を向け、僅かにだがしなを作ってみせる。
その年の春以前は極力、家康の目に触れないように努めてきたのに。いつしか真逆な行動をとっている。
万は興味を持ってしまったのだ。男に。家康に。三河の太守としての家康に、では無い。築山御前の夫としての、家康に。
万の初交わりの感想は
(こんなものか)
だった。
痛いだけ。家康の汗ばんだ手は、気持ち悪かった。最中は
(早く終わって)
とばかり考えていた。
しかし済んでしまうと、万は心が高揚するのを覚えた。フワフワと、地に足がつかない気分になる。
(奥方様と、男を共有した)
同じ男を、奥方様と自分は知っている。
自分と奥方様との間に、強いつながりが出来た。目には見えなくとも、確かなつながりが――
そう、思えたのだ。