表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

永禄十年・夏

 永禄9(1566)年、師走(12月)。家康は、松平から徳川へと改姓する。


 その翌年の春、ある日のこと。


「そなた、名は?」

 築山御殿の廊下で、万は家康に声を掛けられた。


 万は、十八歳。

 家康は、二十六歳。


 万は、不快であった。が、返事をせねば礼を失する。

「万と申します」

「御前の侍女か」

「はい」


   挿絵(By みてみん)


 平身低頭したまま答える、万。出来うる限り、狸の顔など見たくは無い。虫酸(むしず)が走る。


「御前に仕えてどれほどか?」

「一昨年の春より、かれこれ二年は……」

「あれは、気難しかろう? 苦労を掛けるな」

「そのような事はございません!」


 反射的に、万は顔を上げてしまった。家康と目が合う。まん丸な狸顔。しかし、瞳は炯々(けいけい)として光っている。獲物を見付けた、鷹のような眼差し。


「ほぅ。そちは、見目良(みめよ)いな」

 家康がニンマリと笑う。大きな唇が、ひん曲がる。気味が悪い。万は慌てて平伏し直した。


「ご、ご無礼を!」

「よいよい。気にするな」


 家康は歩み去った。万は安堵の息を漏らす。羽をもがれる寸前の蝶になった気分であった。


(あの狸みたいな男が、今では従五位下(じゅごいのげ)三河守(みかわのかみ)

 ……滑稽だ。



 築山御前は、しばしば駿河時代の思い出を懐かしそうに、万たち侍女へ語る。


「殿が駿河へやって来られた当初は、心なき者どもに〝三河の宿無し〟と蔑まれることもあった。けれども、わらわと婚姻して以降は、そのような不埒(ふらち)(やから)は居なくなった。わらわは、御所様(ごしょさま)に可愛がられていた故──」


 自分は御所様──今川義元公の姪。

 父の関口親永(ちかなが)も、婿への力添えを惜しまなかった。

 家康と自分の駿府における生活は、円満で幸せなものだった。


 ──御前の言葉に嘘は無いだろう。義元公の家康への期待は大きかったに違いない。麗色(れいしょく)と才気で知られた我が姪を、わざわざ選んで(めと)らせるほどに。この縁組みによって、今川家重臣としての家康──当時の名乗りは、次郎三郎元信(もとのぶ)──の将来は約束されたのだ。


 万は時々不安になる。

(奥方様は、三河での生活に不満がおありなのだろうか?)


 それも、無理なきこと。

 田楽狭間の合戦で義元公が命を落とさなかったら、御前と家康の境遇は今とは全く異なったものになっていたはず。


 現在の築山御前の暮らしは、軟禁同然。


(お屋敷に押し込められて、もう数年。お(いたわ)しい、奥方様……)


 家康が妻の安全を重要視した結果なのであろうが、とは言え、細やかな心配りが不足しているのは否めない。


 そして家康は、義元公を討った織田家と同盟を結び、かつての主筋である今川家と対立している。その余波で、関口親永は今川氏真に切腹を命じられてしまった。


 氏真(うじざね)は義元公の嫡男で、現今川家の当主。


 夫の行いが従兄弟(いとこ)を怒らせ、父親の死の原因となる──御前の心境がどのようなものなのか、万には想像もつかない。


(殿をお恨みしても良いはずなのに、奥方様はそんな素振りを一切お見せにならない)


 自制しているのか、あるいは家康への愛情がそれだけ深いのか。

 どちらにしろ、万の御前に対する尊敬の思いは強まるばかりだ。


(奥方様が駿府を追われて、岡崎にいらしてくだされたからこそ、私はお会いすることが出来たんだ。奥方様の不幸が、私に幸せを運んできた──)

 後ろ暗い喜びの感情にひたる己を、万は恥じた。



 築山御前と家康の関係は、未だに万にとっては理解の外だ。

 夫である家康の訪れがあった日は、御前の機嫌は特に良くなる。


「万よ。殿はのう……わらわに、こう仰ったのじゃ」

 などと、嬉しげに万へ述べる。


 万は疑問に思う。

(男とは、それほどに良きものなの?)


 夫婦とは、いったい何なのであろうか?

 築山御前の家康への専心が、万には不可解でならない。


 謎を解こうと、万は企んだ。


 そして夏の初め。万に、家康の手がついた。

 無理強いされたわけではない。家康は確かに女好きではあるが、こと(・・)に及ぶ前には相手の了承を必ず取る。身分の低い者に断られても、特段意趣は含まない。そのあたりは、妙に律儀であった。


 万は抵抗しなかった。


 ……いや。考えようによっては、万より誘ったとも言える。家康が築山御殿へやってくるたびに、万は意識的に顔を合わせるようにした。隙あらば家康へ視線を向け、僅かにだがしな(・・)を作ってみせる。

 その年の春以前は極力、家康の目に触れないように努めてきたのに。いつしか真逆な行動をとっている。


 万は興味を持ってしまったのだ。男に。家康に。三河の太守としての家康に、では無い。築山御前の夫としての、家康に。


 万の初交(はつまじ)わりの感想は

(こんなものか)

 だった。


 痛いだけ。家康の汗ばんだ手は、気持ち悪かった。最中(さいちゅう)

(早く終わって)

 とばかり考えていた。


 しかし済んでしまうと、万は心が高揚(こうよう)するのを覚えた。フワフワと、地に足がつかない気分になる。


(奥方様と、男を共有した)


 同じ男を、奥方様と自分は知っている(・・・・・)

 自分と奥方様との間に、強いつながりが出来た。目には見えなくとも、確かなつながりが――


 そう、思えたのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 何だか不思議な感情です。 憧れしものと少しでも近い存在になりたい?
[一言] ふおおおお、順調に拗らせているうううう!!!!www(ワクテカ)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ