夜鳥
野山を飛び回る鳥たちは、その美しい鳴き声で我々人間を魅了してくれる。それらの多くは、自らが発する音によって、あるものは愛でられ、あるものは崇められ、あるものは恐れられ、あるものは無視されており、その事は広く我々の認知しているところである。しかし、世の中にはまだ、我々が知らない奇妙な鳴き声を発する鳥が数多く存在しているものだ。私が遭遇したのも、その中の一つに違いないと思うのだが、その時の私の精神状態は非常に昂ぶった状態にあったので、それが果たして実在した鳥が発したものなのかどうか、今もって定かではない。もちろん、私は鳥類学者では無いので、仮にその鳥が実在する種類であったとしても、一体何という名前なのかは分からないし、それを知る術も失ってしまった。しかし、今でもその鳥の発する鳴き声は、・・・それが鳥だったとしての話ではあるが・・・、はっきりと私の鼓膜に残っているのだ。まるで、狂女が漏らす笑い声のような鳴き声を。
その話を聞いた学者達の多くは、それを「ワライカワセミ」ではないかと指摘したものだった。中には、実際にその鳴き声を私に聞かせてくれた者もいたのだが、私が聞いた鳴き声は、決してそんなものではなかった事を皆様にお断りしておこう。さて、前置きはこのくらいにして、私がその鳥と出会った時の事をお話するとしよう。
その日、私は妻と一緒に森に来ていた。私たち夫婦は、世間一般によくあるような、ごくありふれた夫婦だった。お互いに干渉しあう程に親密という訳ではなかったが、かといって一言も口をきかない程に不仲だった訳でもない。夫婦仲は決して悪くは無かった。また、二人の間には子供がいなかったが、それは単に運命の巡り合わせの問題である事を併せて付け加えておこう。
久しぶりの遠出に、妻はとても嬉しそうな表情を浮かべていた。それを見て、日頃は仕事が忙しく、碌に構ってやれなかった事で多少なりとも負い目を感じていた私も、同僚に無理を言って仕事を休んだ甲斐があったと思い、近年感じたことがない高揚した気分を味わっていた。妻はこの日の為に、朝早くから起きだして弁当を作ってくれていた。二人分にしては大きすぎる、三段重ねの重箱が台所のテーブルの上にあった。まるで遠足に出掛ける前の子供のように、私がその中身を覗こうとすると、目的地に着いてからのお楽しみとでも言うように、彼女はそれを私の眼の届かない所へと移動させるのだった。
つい先日までは10月も半ばというのに暖かな日が続いていたのだが、ここ数日、急激に冷え込んできたように思う。その影響だろうか、車の窓から見える山並みは、薄っすらと赤く色づき始めていた。助手席に座っていた妻もその事に気がついたらしく、窓の外の景色を熱心に眺めているようだった。赤信号で停車した私が、そんな彼女の方を振り返ってみると、窓ガラスに頭を押し付けるような姿勢のまま眠っているようだった。今日は随分と早起きをさせてしまったのだから、このまましばらくそっとしておいてあげよう。信号が赤から青へと変わった時、私は妻を起こさないよう、ゆっくりとアクセルを踏み込むのだった。
目的地に到着し、車から降り立った私を最初に迎え入れてくれたのは、森の清澄な空気だった。暖房の効いた車内では味わう事の出来ない冷たい空気が、熱に浮かされた様な私の肌を優しく包み込んでくれた。おかげで、長時間運転をしていたせいか、少しだけボンヤリしていた私の頭にも、正常な判断力が取り戻されつつあるようだった。助手席の妻は、少し車に酔った様子で、非常に具合が悪そうだった。顔が随分と青白くなっている。私はそんな彼女を抱かかえるようにして車から降ろしてやると、肩を貸してやりながら今日の目的地である森の奥深くへと足を運んでいくのだった。
その日の私たちは、非常に運がよかったようだ。見上げる空には雲ひとつなく、眩しいくらいに輝く光に照らされた紅葉は、その見事な色彩を惜しげもなく我々の目の前に晒してくれていた。他に観光客がいなかったのも、まったくの幸運だったと言える。この絵画のように美しい景色を、我々二人だけの思い出に出来るのだから。
車を降りてから、どのくらいの距離を歩いたのだろう。“そろそろ休憩にしない”と、妻から申し出があった。妻は元来、体の丈夫な方ではない。妻は“少し横になる”と私に告げると、落葉を天然のベッドにして地面に横たわった。“おいおい、そんな所で横になるヤツがあるかい。ちょっと待っていろ。私が今、寝床を用意するから。”そう私は妻に告げると、彼女が十分に体を伸ばせるような、心地よい寝床を準備し始めるのだった。
私は一人、黙々と作業に取り掛かっていた。最初のうちは、“私一人の力で、果たしてそんな事が出来るのだろうか?”という疑念だけが頭の中を満たしていたのだが、月明かりに照らされながら一心不乱に穴を掘っていると、そんな事は何の雑作もないように思えてきた。むしろ、闇夜にぽっかりと開いたその深奥な空間を、如何にすればもっと深く、もっと広くする事が出来るかについて心を砕いており、ただ脳の命ずるままに規則正しく両腕を動かしていたのだった。私がそういった言い知れぬ狂喜に支配されているまさにその時、問題の鳴き声が静寂なる森を切り裂くようにして響いたのだった。巨大な鳥の羽ばたきと共に。そして、それは今でも私の耳にしっかりと残っている。断じて狂気に侵された男の戯言では無いことだけは信じて欲しい。