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夜明け前

 私の人生を果物の成長と重ね合わせて考えてみるならば、彼女と出会った頃の私はきっと、十分に熟しきれていない、半熟な存在だったに違いない。彼女と過ごした、たった数時間の出来事は、私の成長に決定的な影響を与えてくれた。私はそれを今でも大切に思っている。


 波の音に誘われるようにして立ち寄った浜辺で、遠く水平線を見つめている彼女の姿を偶然見かけたのが、私たち二人の出会いだった。

 その日は珍しく随分と暖かい日で、私がそうやって浜辺まで足を運んだのも、波の音に誘われたというよりは、その陽気に誘われたのだろう。浜辺に打ち寄せる波の音は、明瞭な音を響かせていた筈なのに、私はその音を必死で聞くまいと、無意識に耳を塞いでいた。私はその時、何かしら言い知れぬ本能的な恐怖――それは自己の喪失のような恐怖――を感じて、そんな行動を取ったのだったが、そんな私の行動とは関係なく、次第にその波が起こす振動が私の体内を巡る血液と共鳴を始めると、それに呼応するように私の深部で何かが疼き始めた。私の脳裏では、その衝動を打ち消すように喧しく警鐘が鳴り響いていたのだが、私はそれを何かの始まりを告げる合図であると錯覚していた。


 最初に、私は彼女との出会いを“偶然”と呼んだけれど、もしかしたらそこには、私の知らない、何かしらの必然性が備わっていたのかもしれない。けれど、その時の私は、そんな事すら考えつきもしないくらいに子供だったのだ。

 私はすぐにその場を離れる事も出来ず、自分の身に突如沸き起こったこの不可解な出来事を楽しむかのように、彼女の隣に腰を下ろすと黙って前を向いていた。春の海は陽気な陽射しに照らされて、まるで磨き上げられた鏡のように真っ平らな水面を映し出していた。しかし、それは長くは続かず、どこからか吹き始めた風によって少しだけ膨らみ始めた水面は、初めはそれと気付かないほど微かに、しかし次第に大きなうねりを形成していき、それはいつしか、見事な曲面を形作るまでになっていた。その全てが、私を飲み込んでしまおうとするかのように、勢いよく浜辺に向かって押し寄せて来るのだったが、私の足元で砕けて白い泡となって消えていった。


 気がつくと、太陽が水平線の彼方へ沈み始める時刻になっていた。彼女は急に立ち上がり、姿を変えていく海を惜しむかのように、無遠慮に足を突っ込んで徒に掻き回し始めた。あれほど真っ青だった海の色は、今では混じり気の無い血の色のように赤く染まっていた。その鮮やかな真紅でさえ、時間が経過する共に、醜く黒く固まっていくのだろう。

「夜の海って、黒くて粘りつくような感じで、まるでタールみたいじゃない?その中に入ったらきっと、体に纏わりついて離れないような気がするの。冷たくて、暗くて、苦しくて。」

 私に声を掛けられたのを驚く風でもない様子の彼女は、私に背を向けたままこう言った。

「そうね。まるで意思を持っているかのように、あなたの髪に触れて、首筋をなぞり、腕や足に絡みついて、胸を優しく包んでくれるわ。最後に、あなたの奥深くへと入り込んで、この世の全てを忘れさせてくれるのではないかしら。」

「一体、どんな気持ちがするのかしら。ねえ、試してみない?」

 どうしてそんな言葉を口にしたのか、自分でも信じられなかった。私は立ち上がると、彼女の方へと一歩近づこうとした。しかし彼女は振り返ると、私に向かってこう答えた。

「あなたはまだ、その時じゃないわ。そこから先には進むにはまだ、若すぎるもの。」



 東の空から太陽が顔を出し始めていた。私が“タールみたい”と表現していた夜の海は姿を消して、代わりに普段と変わらぬ青い海が広がり始めていた。次第に明るくなっていく夜明けの浜辺には、私が付けた足跡だけが残されていた。

 波打ち際に佇んで、寄せては返す波に両足を浸していると、水に浸かった部分の感覚が失われて、まるで自分の体の一部がすっかり失われてしまったかのような、そんな錯覚に襲われた。私の隣に拵えたはずの砂の山が、いつの間にか波に洗われて消えて無くなっていたのと同じように。いつかその波が、同じようにこの場所から私を攫ってくれないだろうか。

 でも、そこから先には進めなかった。まるで見えない壁に邪魔されるかのように。「あなたはまだ、その時じゃないわ。」と誰かが囁いたように。そして、その時の私はまだ、半熟な存在だったのだから。

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