聖なる少年
私が駆け出しの新聞記者だった頃―――と言っても、当時の私は会社の雑用ばかり命じられていたので、取材はおろか記事を書く機会さえなかったのですが―――いつものように古い新聞記事を整理していました。その中に、ひと際私の興味をそそる記事が載っており、熱心にその記事を読み始めたのです。それはある地方紙に掲載された小さな記事だったのですが、“聖なる少年”と標題をつけられた一人の男の子についての記事でした。
少年の名前はトマス。5歳の時に生死の境をさまよう程の大事故に遭遇した彼は、幸運にも一命を取り留める事に成功したのです。そして、病室のベッドの上で両親にこう告げたのでした。「パパ、ママ。僕は天啓を受けました。これからは正直に生きていきます。」
その言葉通り、トマス少年は正直な子供として街でも評判になったのです。記事はそれを伝える内容でした。
その新聞記事が書かれてから既に15年の月日が経っていました。その後の彼が、一体どんな人生を送ったのかという事に興味を持った私は、休みの日を利用して彼が住んでいた街に出掛けてみる事にしました。この取材結果を元に記事を書き、編集長にも私が一人前の記者として十分やっていけるだけの能力を持っている事を認めてもらおうと考えたのです。
捜し求めていた彼の家に辿り着いた時、私の期待は最高潮に達しており、はやる気持ちを抑えながら玄関の呼び鈴を鳴らしたのでした。家の扉を開けてくれたのは、上品な雰囲気の中年の女性でした。“聖なる少年”の母親として私が想像していたのに相応しい女性です。
「初めまして。突然お邪魔して申し訳ありません。トマスさんはおられますか?」
「トマス?この家にはそんな名前の者はおりませんよ。家をお間違えじゃないですか?」
突然の訪問者である私の事を警戒しながらも、女性は丁寧に答えてくれた。
「そうですか。15年前には確かにこの家に住んでいたハズなのです。“聖なる少年”と地元紙でも評判になっていた男の子なのですが、何かご存知ありませんか?」
私の質問が女性にもたらした衝撃はすさまじいものだった。先ほどまでの上品な物腰が一変したかと思うと、あからさまに不快な表情を浮かべてこう言い放った。
「そんな子供は知りません。他に用事が無いのであればこれで失礼します。」
私の何が彼女の機嫌を損ねたのか皆目見当がつかないまま、私の目の前で扉は勢いよく閉められたばかりか、ご丁寧にも鍵を掛ける音まで聞こえてきたのだった。
途方に暮れた私は仕方なく、通りがかりの街の人に彼の消息を尋ねてみることにしました。
「すみません、トマスという名の男性を探しているのです。ご存知ですか?」
「トマス?一体、誰の事だ?」
「15年前に、“聖なる少年”と称えられた男の子の事です。」
すると、尋ねられた街の人は先ほどの女性同様、見るからに不快な表情を浮かべる、こう言うのでした。
「あのならず者か。あいつなら、ほら、あそこに見える建物の中だ!それじゃあな。」
そう言うと、私を残して何処かへと行ってしまいました。
街の人が指差した先には、コンクリートで出来た四角い箱型の建物がありました。そこで、私がその建物に行ってみると、街の人が教えてくれたとおり確かにトマス青年(彼は20歳になっていましたから、少年ではないのです)と出会う事が出来たのでした。
「初めまして。私は駆け出しの新聞記者なのですが、“聖なる少年”と称えられた君のその後を取材しに来たのです。是非、協力してもらえないでしょうか。」
私の願いを快く承諾してくれたトマス青年は、次のような話を聞かせてくれました。
世の中には、時として嘘をついた方が上手くいく場合があるのは知っているよね。だけど僕は“嘘をつかない”って神様と約束したのさ。そのおかげで僕は生き返る事が出来たし、それくらいの代償は仕方がないと今でも思っている。僕は本当に“正直なヤツ”だったんだ。みんなが僕の事を疎ましく思うくらいにね。だってそうだろ?思った事には正直に答えるし、内緒話も秘密にしておけないヤツなんだぜ。そんなヤツと友達になりたいなんて思うかい?でも、そんな事は僕にとって見ればどうでも良かったんだ。最悪なのは、僕が7歳の時に起きたある出来事なんだ。
その日、僕はパパがママと違う女の人と歩いているのを見たんだ。ママにはその事を内緒にしていたんだけど、僕の様子がおかしい事に気がついたママが、僕に尋ねたんだ。
「トマス、何かママに隠していることがあるでしょ?ママに話してくれる?」
その時のママは、僕が何かイタズラでもして、それを隠しているんだろうくらいに考えていたと思うよ。でも、そうじゃなかったんだ。それが悲劇の始まりさ。
「はい、ママ。パパがママと違う女の人と歩いているのを見ました。」
ママの顔色が一瞬、真っ青になったかと思うと、今度は徐々に赤くなってきた。ママはさっきよりも優しい口調で僕に尋ねてきたよ。その表情は強張っていたけどね。
「トマス、その女の人はどんな人だった?正直に答えてね。」
「綺麗で若い女の人だったよ。」
「そう。それで、ママとその女の人と、どっちが綺麗だと思う?」
僕は答えに困ってしまった。子供っていうのは案外、親の表情を注意深く観察しているものさ。幾ら言葉は優しくても、明らかにママの様子がおかしいのに気付かない訳がない。怒っているのなら尚更さ。僕は危険を感じて、黙っている事にしたんだ。でも、ママは僕の事を許してくれるつもりはなかった。僕の肩を掴むと、揺さぶるようにして僕に尋ねた。
「トマス!ちゃんと答えなさい。さもないと、今晩の夕食は抜きよ!」
“夕食抜き”だなんて、当時の僕にとってこれ程ヒドイ仕打ちはないと思うよ。それに、これ以上黙ったままでママの機嫌を損ねたくなかったから、僕は仕方なくこう答えたのさ。
「ママは世界一綺麗だよ。だけど、その女の人もママに負けないくらい綺麗だったよ。」
ママが寝室でパパを殺すのを見たのは、その晩の事だった。僕に見られたのを知ったママは、僕に襲い掛かってきた。僕は怖くなって必死に抵抗したんだ。気がついた時には、ママは動かなくなっていたよ。まるで誕生日に買ってもらった人形みたいにね。
しばらくして、警察がやってきて僕に色々と質問をして行った。僕はそれに正直に答えたよ。パパを殺したのがママだって事。ママはいつの間にか動かなくなっていたって事。
両親を失った僕はその後、孤児院に預けられたんだ。あそこは、今思い出してもひどい場所だったよ。13歳の誕生日を迎えた時、僕は孤児院を脱走した。ここでもやっぱり、周りの連中は大人も子供もみんな僕の事を疎ましく思っていたからね、脱走はとても簡単だったよ。きっと、誰も僕を捜そうなんて真似はしなかったんじゃないかな。
もちろん、そのままだと食べていけないから、僕は街角で泥棒の真似事をして暮らすようになった。そうそう、ここで断っておくけど、僕は確かに正直者だけど、だからってモラルが高い訳じゃない。僕は聖人君子じゃないからね、単に嘘をつかない正直者なだけだから、そこは勘違いしないでおくれよ。
そして18歳になった時、僕はある窃盗団に入団したんだ。目的の為には手段を選ばないようなグループだったからね、必要であれば殺人も厭わなかったよ。ところが、仲間の一人がドジを踏んだせいで僕まで警察に捕まってしまった。その後の展開は説明するまでもないと思うけど、僕は警察に聞かれるままに洗いざらい全てを話したよ。窃盗団に関するありとあらゆる事をね。おかげで窃盗団は壊滅。おまけに僕は刑務所暮らしで、こうやって死刑が宣告されるのを待っているって訳さ。
まあ、僕の今までの人生なんて、こんなところかな。ところで、ちょうど良い機会だからこれだけは絶対に覚えておいて欲しいんだけど、近いうちに僕はこの世から消えてなくなるんだ。それは死刑が宣告されるって意味じゃなくて、文字通り消えてなくなるのさ。理屈は僕にもよく分からないけど、5歳の時に僕を助けてくれた神様が、最近再び僕の前に現れてそう言ったんだ。まあ、こうして考えてみると、彼は神様じゃなくて悪魔だったのかもしれないけど、そんな事はもうどうでもイイよ。
トマスとの会話はここまでで時間切れとなってしまった。私は彼に、後日再び面会に来る事を約束したが、彼は乾いた笑いを上げると、多分それは無理だろうと答えるのだった。
その翌日、私の耳にも刑務所から一人の犯罪者が忽然と姿を消したとういニュースが届いた。男が入れられていた独房は完全なる密室で、消える直前まで誰かと話をしている声を聞いたと看守も証言していた。ちなみにその男こそ、かつては“聖なる少年”と称えられたトマスその人である事は、今更申し添えるまでもないだろう。