ある日の出来事
ある日、私が街を歩いていた時の出来事である。通りに立っている人たちがみんな、男性も女性も、年寄りも若者も、大人も子供も、一斉に空を見上げていた。私もそれにつられるようにして空を見上げたのだが、私に見えたのは青空に浮かんでいる白い雲だけだった。
何がどうなっているのか今ひとつ理解できなかった私は、すぐ近くにいた人にその疑問をぶつけてみる事にしたのだった。
「すみません。何を見ているのでしょうか。」
「さあ、私にも良く分かりませんが、何か始まるんじゃないでしょうか。」
「見えませんか?ほら、あそこにロープが張ってあるでしょう?あれを使うようです。」
別の見物客にそう教えられてよくよく目を凝らしてみると、道路を挟んで向かい合う高層ビルとビルの間には、確かに一本のロープが張られているのだった。そのまましばらく馬鹿みたいに空を見上げていると、今度はタキシード姿に身をつつんだ一人の紳士が現れた屋上に現れた。白い手袋をはめた彼の手には、細長い棒のようなものが握られており、真下から見上げている我々に向かって、丁寧にお辞儀をするのだった。
「まさか、こんな所で“つなわたり”を始める気じゃないだろうな。正気の沙汰とは思えない。」
誰に向かって言うでもなく、気付けば私はそんな事を口にしていた。私の見る限り、紳士の体には命綱はつけられていなかった。ロープの真下にも安全ネットは無かった。それにも関わらず、紳士は両手で棒を持ち直すと、綱の上に一歩踏み出した。
「こんな所から真っ逆さまに落ちたら、ひとたまりもないだろうな・・・。」
独り言のようにそう呟く私の前で、恋人同士らしい二人組みの会話が聞こえてきた。
「あの人、あんな事をして平気なのかしら?」
「馬鹿だな。ヘリコプターで吊り上げているに決まっているだろ?ここからだと遠くて見えないだけさ。」
「何だ、つまんないの。」
銀縁の眼鏡をかけた男は、片手をポケットに突っ込み、もう片方の腕には買物袋いっぱいのオレンジを抱えていた。一方の女は、ブランド物のバックを片手に、男の腕に自らの腕を絡ませた姿勢で立っていた。
男が言うように、紳士の上空にはヘリコプターが1台浮かんでおり、動きに合わせて微妙に移動しているようにも思えた。しかし、ヘリコプターはしばらくの間宙に浮かんでいたのだが、次第に何処かに飛んで行き、見えなくなってしまった。それにも関わらず、右へ左へとバランスを取りながら歩いていく紳士の足取りは止むことはなかった。むしろ、一つ間違えれば落ちてしまいそうな、危なっかしげな足取りにしか見えなかった。
「ヘリコプターで吊り上げているなんて、嘘じゃない。」
「馬鹿だな。ロープの下に透明な強化ガラスがあって、それがビルの間に掛け渡されているのさ。ここからだと遠くて見えないだけさ。」
「何だ、つまんないの。」
先ほどから側でゴチャゴチャ言うこの二人組みを、私は非常に疎ましく思い始めていた。命綱があろうがなかろうが、紳士の身が危険な事に変わりはないし、見ているこちらは手に汗握るスリルを味わいたいだけなのだ。そんな時に水を差すような事を言うなんて、興醒めもいいところだ。
そう考えていたのは私だけではなかったようである。あれ程晴れ渡っていたはずの青空が、にわかに曇り始め、パラパラと小雨が降り出した。幸いにしてこの雨は一瞬にしてやんだのだが、そのおかげで強化ガラスなど無いことは一目瞭然となった。この結末に、私は非常に胸のすく思いがした。
「強化ガラスが設置してあるなんて、嘘じゃない。」
「馬鹿だな。あの紳士の腰にピアノ線が括りつけてあって、ロープと平行になるように張られているのさ。あれだけ高い場所だろ?この場所から見たってロープと重なって見えなくなる仕掛けさ。」
「何だ、つまんないの。」
この頃には既に、私は紳士が命綱などつけていない事を完全に確信していた。何とかしてこの紳士の名誉を証明せねばならないという使命感さえ覚えるようになっていた。それなのに、男は相変わらずそれを認めようとしないし、女に至っては愚痴をこぼしてばかりだ。退屈しているのならばさっさと何処かへ行ってくれればいいものを、実際には興味津々で見入っている。その証拠に、買物袋の中からオレンジが1個転がり落ちた事に、二人はまったく気がついていないのだ。
そんな時、空に一つの赤い風船が舞い上がった。それは高層ビルの屋上附近まで浮かび上がったかと思うと、突如大きな音を立てて破裂した。その音に驚いた紳士は思わず足を滑らせてしまったようだ。私が確信していたとおり命綱をつけていなかった紳士は、我々が見守る中で真っ逆さまに地面へと落下して行った。
通りは一時、人々の悲鳴と絶叫で埋め尽くされた。その叫び声に混じって、先ほど私に赤い風船を奪われた女の子の泣いている声も聞こえてきた。しかし、誰もその事に注意を払う者はいなかった。私は、剥きたてのオレンジを頬張ると、口中に広がる瑞々しい果汁を味わいながらその場を後にした。ポケットの中には、その役目を終えたオレンジの皮が入っていた。