ハードボイルド
遥か遠くからでも、その長方形の入れ物の中身が一杯だって事は分かりきっていた。光を透過させるスケルトンボディのその箱が、俺の目の前で静止すると―――俺が入り易いようにという配慮か何かはしらないが、そんな気を遣ってもらう程老いちゃあいないつもりだが―――招き入れるように、扉が大きく開け放たれた。それと時を同じくして、最前から中に陣取っていた奴らが、俺に向かって“乗るなら早く乗ってくれ”と言わんばかりの迷惑そうな顔付きでこちらを見てくる。中には、“あんたの乗る場所なんて、果たしてあるのかしら?”と言わんばかりの様子でこちらに挑みかけてくる奴もいた。朝っぱらからそんな蔑視に晒される破目になるなんて、今日はまったくついていない。まあどうせ、再びこいつらと顔を合わせることはないのだろうから、どう思われようが構わないのだが、これからしばらく、こんな奴らと同じ時間、同じ空間を共有しなければならないかと思うと、まったく癪にさわるというものだ。それと引き換えに俺が得られるものと言えば、この清々しい空気との別れだけだ。まったく割に合わない。出発までにはもうそれ程時間は残されていなかったが、この気分を紛らわしてくれるような物が急に欲しくなった。こうなると、今更ながら昨晩飲み残したスコッチの事が悔やまれて仕方がない。しかし、そんな俺の思いなど知らぬ誰かの手が、背後から俺を箱の中へと押し込んだ。まったく無粋な事をする奴もいるものだ。感傷に浸る時間すら与えてくれないとは。
突き飛ばされるようにして中へと滑り込んだ俺は、他の乗客たちの迷惑そうな視線に晒されながらも、何とか自分の場所を確保することに成功した。俺は“満員”という言葉に軽々しく騙されてしまうような、普通の奴らとは違う。大抵の奴らはその言葉に踊らされて、もうすっかり自分の入り込める隙間など残っていないと自分勝手に思い込むようだが、そんな時でも必ず誰かが余分なスペースを確保していたりするものだ。それを知っている俺は、今回もまんまとその残されたスペースに滑り込んだ訳だ。それにしても、こっちにその気が無くてもすぐ隣にいる奴の硫黄臭いニオイを嗅がされる破目になるのには辟易させられる。ほら見ろ、向こうのレディーの肌艶なんか、すっかり褐色がかった色になっちまっているじゃないか。えっ?最近はそういうのが流行だと?そうなのか。俺の若い時にはそんな奴見かけなかったもんだが・・・まあ、いいさ。時代は変わるのだろうし、俺も年を取ったという事だろうな。
そうこうしている内に、今まで俺の体に伝えられていた規則正しい振動が、何の前触れも無く突如として止んだ。おかしい。目的地に到着するにはまだ早すぎる。本能的に自分の身に襲いかかる危機を感じた俺は、すぐに次の行動へと移れるように神経を研ぎ澄ませると、相手の出方を静かに待ち構えた。しかし、相手の方が一枚上手だったらしい。卑怯にも背後から強烈な一撃を俺に喰らわせると、抵抗する間もないうちに自由を奪われてしまった。薄れいく意識の中で、誰かが無遠慮にも俺の衣服を漁っていくのだった。
意識が戻った時、俺は熱々の目玉焼きになっていた。ハードボイルドに徹しきれなかった俺に相応しい最後だ。