五月雨物語
■■ 上の段 ■■
むかし、一人の男がいた。
男には妻がおり、一人娘を授かっていた。
秋の候、各地で疫病が猛威を振るい、看病のかいなく妻がこの世を去った。
男は酷く悲しみ、しばらくは後添いを貰う事もなかった。
ある日、男の元に一人の女が宿を借りに来た。
見目麗しいその容貌は、下賤の身とは思えなかった。
男が仔細を尋ねても女は固く口を閉じ、身の上を話さずにいた。
やむなく男は女の好きに任せると、女はそのまま家に住み着いてしまった。
季節が一つ巡る間もなく、女は赤子を身篭った。
背に特徴的な痣があったが、それを除けば玉のような男の子だった。
未だ娘は女に懐かず、女を母とは呼ばなかった。
女はそれを疎ましく思い、娘を捨てるよう男に示唆した。
男は娘を不憫に思い、女の手の届かぬ所へと連れ出した。
幼き娘は男に手を引かれ、夜に紛れて村を出た。
途中、熊笹がザワザワと鳴り響くのを耳にした。
行くな、行くな、その子を大事に思うなら。
男はただの風の音だと娘に告げて、先を急ぐ事にした。
やがて、俄かに暗雲が立ち込めて、大雨と落雷に襲われた。
男は荒れた蔵を見つけると、嫌がる娘を中に押し込んだ。
入るな、入るな、この蔵には鬼が住む。
男はただの雨の音だと娘に告げ、蔵の扉に鍵を掛けた。
夜が明けるまでの辛抱だ。しばらくの間、ここで待て。
男が告げる言葉も虚しく、娘は落雷と共に消えていた。
そんな事とは露知らず、男は急ぎ姿を晦ました。
家へと戻った男の前に、女の姿は既になかった。
女は何処かへと姿を晦ましており、子の行方も知れなかった。
自らの過ちに気付いた男であったが、既に蔵の中に娘の姿はなく
失ったものの価値の重さに、ただ慙愧の涙を流すだけだった。
白玉か何ぞと惑い閉じ込めし露と知りせば消えざらましを
(貴重な真珠か何かと勘違いして、誰にも手出し出来ぬよう蔵に閉じ込めてしまった。
夜露と知っていたらそんな事はしなかったし、朝までは消える事もなかっただろうに。)
この辺り一体には盗賊団が出没しており、その蔵は盗品の隠し場所だった。
他人が近づくのを恐れた盗賊団は、蔵に鬼が住むと噂を流していた。
幼い娘は結局、盗賊団に連れ去られたのだが、男は鬼に食われたと思ったようだ。
まだ随分と世の中が荒れていた頃の話である。
■■ 下の段 ■■
むかし、一人の男がいた。
男は幼い頃に両親と生き別れ、天涯孤独の身の上だった。
ある時、男は街で見目麗しい若い女と知り合った。
女は一人住まいの身であり、男は請われるままにその屋敷へと足を運んだ。
夜が更ける頃、女の方から誘いをかけてくるので、男はそこで一夜を共にした。
それから度々、男はその屋敷を訪れるようになった。
女は嫌な顔一つするでもなく男の世話を焼き、男はそれを素直に受け入れた。
こうしてしばらく経つうちに、女の方からこう申し出てきた。
身を尽くせども、心変わりは世の常。思いを寄せぬ女など、その身には不自由でしょう。
男はそれにこう答えるだけだった。
何の不自由がありましょう。ましてやこれほどのご恩。いかようにして返すべきか。
それを聞いて女はこう答えた。
なれば今より先、生きるも死ぬもその命、私の意のままに願います。
男は元より否と口にする事はなく、女の意に沿う事を固く誓った。
男の誓いを聞いた女は、普段は使っていない離れの家に男を招いた。
そして男の着物を剥いで背中を出させた。男の背には特徴的な痣があった。
女は何処かへと姿を消したかと思うと、男装して鞭を手に姿を現した。
そして、その手にした鞭で、男を強かに打ち据えた。
いかがでございますか。これ程の責め苦に耐える事が出来ましょうか。
女の問いに男は苦もなく答えた。
これしきの事、いかほどのものでもない。
男の背中は皮が剥げて血が噴出し、肉が剥き出しになっていた。
女は鞭を打ち据えるのを止めると、傷に良く効く薬を男に与えた。
やはり貴方は私の見込んだ男。今後も決して意に背く事ありますまいな。
一度口に出した誓い、違える事なぞあろうものか。
女は優しく男を介抱すると、その傷が早く癒えるようにと手厚く面倒を見るのだった。
やがて男の傷が癒えた頃、女は再び男を離れへと連れ出した。
そして再び、鞭にて打ち据えるのだった。
いかがでございますか。誓いを交わすは容易なれど、この痛みは身に沁みましょう。
これしきの事で音をあげると思ってか。痛くも痒くもない。
男の言葉に歓喜した女は、再び熱心に男の傷を手当するのだった。
女の責苦に耐え抜いた男は、ほどなくして強靭な身体を手に入れた。
時期が到来したと見た女は、男に様々な仕事を命令した。
男は女に教え込まれたとおりに仕事をこなし、その度に見事な手際を披露した。
女に命令されるまま、男は強盗でも人殺しでも、その望むままにどんな事でも行った。
盗んだ盗品は、都の外れにある荒れた蔵の地下へと隠された。
いつしか男は、女の正体が都を騒がしている盗賊団の頭である事に気が付いた。
女はある日、突如として男の前から姿を消した。
時を同じくして、都を騒がせていた盗賊団の噂も聞こえなくなった。
蔵の地下に隠されていた盗品は、全て何処かへと運び出されていた。
男がその後どうしたのか、その消息を知る者は誰もいなかった。
■■ 結びの段 ■■
上記の二話、一人の女に惚れた男についての顛末なれば、何れともなし。