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気まぐれな女神

 高校を卒業するまで実家で暮らしていた僕にとって、“一人暮らし”という言葉の、なんと甘く期待に満ちた響きを持っていた事か!親からの余計な監視から解放されるというメリットはもちろん、一日中パジャマで過ごしていたって誰にも文句を言われる心配も無いし、友達を招いて朝まで馬鹿騒ぎをしたって構わない。何だったら、彼女を部屋に招待する事だって可能なのだ。(もちろん、彼女が出来た後の話だけど・・・。)いずれにしろ、時間と空間を自分の自由に出来るっていうのは間違いなかったし、どんな楽しい出来事が待ち構えているかなんて想像もつかなくて、期待に胸を膨らませていたものだ。

 ところが、現実っていうのは案外地味で退屈なものなのだ。「ドラマみたいな都合の良い展開なんて期待していなかったさ!」なんて言ってしまうと、チョッピリ嘘になるけれど、それでも少しくらい、夢を見させてくれても良さそうなものだと思う。神様は意地悪だ。


 <古松独身寮>それが僕、北川誠が現在住んでいる社員寮の名前だ。高校卒業後、地元企業に就職した僕が、晴れて社会人として新たなスタートを始めた場所の名前でもある。

 古松独身寮は市内の中心部に建てられた三階建ての建物。風呂・トイレ・食堂は共同で、建物の中にある15部屋がそれぞれの住人に割り当てられている。もちろん社員寮だから、住人っていうのは全て同僚。部屋は全て六畳の和室。“ルームシェア”って言えなくもないけれど、そんな洒落たものでは無いし、そもそも、“初めての一人暮らし”が寮生活だなんて・・・出来る事なら拒否したいと思っていた。

 『新入社員は誰でも、最低一年はこの寮で生活する事』というのが、会社創設以来からの暗黙の決まりだった。担当の言い分としては「共同生活を通じて先輩や同僚と交流を深める事が出来るというのは、新入社員にとって貴重な経験になるだろう」って事らしいけど、要するに会社としては住居手当を出したくないだけなのだ。まあ、自分でアパートを借りて生活出来る程に新入社員の給料は多くなかったから、そんな決まりなど設けなくても誰もが否応無しに寮に住むことになるのは確定していた。そりゃあ僕だって、最初は断固として抵抗するつもりだったから、片っ端から不動産屋をあたってみたさ!でも、結局のところ他に選択の余地はなかったんだ。そんな訳で現在、この寮には僕を含めて10名の住民が、一つ屋根の下で仲良く共同生活を送っているのだった。


 ところで、古松独身寮の建物の側面には、各階へと通じている非常階段が設置してあったんだ。もともとはベージュ色のペンキを塗った鉄製の階段だったけれど、長年の風雨にさらされた結果、今では所々ペンキが剥げて赤茶の錆が浮き出していた。非常時の避難を目的に設置してある階段だから普段は使う必要はないのだけれど、“人目につかずに部屋に出入り出来る”って事でこの場所を利用している同僚は大勢いるみたいだった。もちろん、その目的というのは彼女をコッソリ部屋に招くって事で・・・実際まあ、羨ましい話だと思う。

 考えてみると、あの晩もそうだったんだ。


 僕はその日、翌日に控えた会議の資料を作る為に遅くまで残業をしていたんだ。始めて自分に任された仕事だったから、それこそ食事を摂る時間も惜しんで取り組んでいたから、会社を出た時には既に23時を回っていたと思う。寮までは歩いても5分とかからなかったから、今からでも帰ってシャワーを浴びて布団に潜り込みさえすれば、十分な睡眠時間は確保出来るって寸法だ。“試験の前日はゆっくり休んで明日に備える”っていうのが僕の学生の頃からの習慣だったし、大事な会議の日に欠伸なんかするようなへまはしたくないからね。

 ところが、寮の玄関まで辿り着いた時になって、鍵を職場に置き忘れてきた事に気がついた。職場まで取りに帰っても良かったんだけど、何となく億劫だった僕は、どうせ非常口が開いているだろうと思って、非常階段がある場所まで建物を回ったんだ。

 僕の部屋は三階だったんだけど、途中どれか一つくらいは開いているだろうっていうんで、一階から順番に確認していったんだ。でも、今日に限って一階も二階も三階も、全ての扉に鍵がかかっていた。住人の誰かが模範的な防犯意識に目覚めてくれたのか、それとも、今日に限っては外部からの招待客がなかったって事だろうね。今日みたいな状況でなければ、僕としても随分と有難い出来事なんだけど、この時ばかりはそんな“良識のある皆様”を殺してやりたいくらいに疎ましく思ったものさ。何にしても、僕の思惑は見事に外れてしまい、仕方無しに非常階段を下りて再び会社に戻らざるを得なくなった。皆さんも良く覚えておいて欲しい。「楽をしようと考えている者には、神様は冷たい」って事をね。

 しかし、そんな僕にもまだ僅かに運が残っていたらしく、非常階段を降りきった直後、非常口の扉が開く音が聞こえてきたんだ。それはまるで福音のように僕の耳に心地よく響いたよ。それが幻聴じゃなかった証拠に、はっきりと三階の非常口が開いているのが見えた。そして、建物の中から漏れている光は、まるで僕の帰りを待ちかまえてくれていたかのように、明るく温かく輝いていた。前言撤回。「楽をしようと考えている者にも、そうでない者にも、神様は等しく平等である」ってね。

 だけど、その明かりは僕のために用意されたものではなかった。舞台でスポットライトを浴びて登場するのは、物語の主人公と決まっている。そして、こういう月明かりのテラスの上で恋人達は愛を囁き交わすものだ。


 扉から姿を現したのは、若い女性だった。良く言えば随分と色っぽい格好をしており、ヒールの高い靴を履いていた。それが非常階段に触れた時に立てる足音が、妙に甲高く響いていた。随分と挑発的な雰囲気を漂わせているように見えたのも、単に月明かりのせいばかりではなかったのかもしれない。

 彼女は階段の手摺の前まで来ると、煙草に火を点けた。その後を追うようにして姿を現したのは、会社の先輩で業務企画部に所属する松田崇だった。松田先輩は女子社員の間でも評判になるくらいのイイ男で、最近では秘書課に所属する水野弘美と付き合っているという噂も聞く。それが事実なら周囲も認める美男美女カップルの成立となる訳だが、本人達に直接確認したことはない。普段から寮で顔を合わす事なんて滅多になくて、もっぱら彼女の部屋に泊まり込んでいるという噂もよく耳にする。これまた真偽のほどは確認したことがないけれど。とにかく、妙な場面に出くわしてしまったものだ。こういった場合の最善の対処方法と言えば・・・・・・人知れず物陰に隠れるべきだろうか?

「煙草くらい、俺の部屋で吸えば良いじゃないか。わざわざ外に出る必要はないだろ。」

「こうして夜の街を見ながら吸いたいのよ。それとも、こうして二人でいるところを誰かに見られるのは困る?」

「そんな事はないさ。ただ、周りの連中に無神経な詮索をされるのが嫌なだけだ。」

松田先輩の答えに、彼女は軽く笑っただけだった。そうやって手摺にもたれ掛りながら、松田先輩を困らせて楽しんでいるようにも見えた。僕の方はというと、しばらく隠れていれば二人に気付かれずに済むだろうと思い、とりあえず息を潜めて成り行きを見守っていた。

「あんまり困らせても可哀想だから、部屋に戻ってあげるわ。」

 しばらくして煙草を吸い終わった女性は、そういうと非常口の扉の方へと向かって歩き出した。松田先輩も安心した様子で、彼女に従う。これで無事に終わりそうだと思った時、事態は思わぬ展開を見せた。

「ねえ、ここでキスしてよ。」

「ここでか?」

「いいじゃない、誰も見ていないわ。それとも、私とはもう飽きた?」

そんな彼女の質問を否定するように、松田先輩は彼女と重なり合った。二人はそうして抱き合って、階段の踊り場でキスを交わしていた。松田先輩の背中越しから覗く彼女の視線が、一瞬だけこちらに向けられたような気がしたが、それはきっと気のせいだろう。二人は誰に遠慮する訳でもなく・・・唯一の例外が僕なのだが・・・長く深いキスを交わすのだった。―――それが、僕と彼女の始めての出会いだった。



「おい北川、聞いてんのか?」

「・・・・・・・はっ、はい!何ですか?西野先輩。」

 僕に声を掛けてきたのは、同じ課に所属する西野健司。僕の良き先輩であり、同じ寮で生活を共にしている仲間の一人だ。

「“何ですか?”じゃないだろ。お前、15時から会議だったよな。会場を確認しておかなくても大丈夫か?」

「ああ、それなら昨日のうちにやっておきましたから大丈夫です。後は会議資料を持っていくだけです。それよりもこの資料見てくださいよ。昨日、残業して作った自信作ですから!結構大変だったんですよ。」

「そうか、やっぱり聞いてなかったんだな。今日の会議の場所が急遽変更になったんだ。三階の会議室から五階の会議室に代わっているぞ。まだ時間があるから、念のため会場だけは確認しておけよ。それと、ついでに頼んで悪いんだが・・・」

 その時既に部屋を飛び出していた僕の耳には、西野先輩の声は届かなかった。

「・・・資料室から書類を持ってきてくれって頼もうかと思ったんだが、聞いちゃいねえな。」



 会議室に入った僕の目の前には、一人の女性の姿があった。先ほどまで会議が行われていたようで、テーブルの上には幾つかのコーヒーカップが残されたままだった。

「すみません。すぐに片付けますので。」

 彼女は僕の方を見ずにそう言うと、コーヒーカップを集め始めた。随分と大人しそうな感じの子で、あまり見覚えがない顔だった。きっと印象に残りにくいタイプなのだろう。

「えっと、何か手伝いましょうか?」

 ただ見ているのも悪いと思った僕は、そう彼女に声を掛けた。胸元の名札から、彼女が総務部に勤める上野亜津子だと判った。

「ありがとうございます。でも、もう終わりますから大丈夫です。」

 そう言われてしまっては手の出しようもなかったので、これから行われる会議の準備に取り掛かることにした。そんな時、誰かがこの会議室に入ってきた。

「亜津子、さっきの話の事なんだけど・・・。」

 そう言って部屋に入ってきたのは松田先輩だった。部屋の中にいるのが彼女一人でない事に気がついた松田先輩は、咄嗟にこう言い直した。

「亜津子ちゃん、さっきの会議の後、ここにボールペン置き忘れていなかった?あれ、俺のお気に入りなんだよね。」

「松田さん、その胸元に挿してあるの。それじゃないです?」

 彼女が事もなげにそう答えてやると、松田先輩は始めてその事に気がついたかのように大げさに答えるのだった。

「ああ、そうだった。うっかりしていたよ。ありがとう。あのさ・・・。」

「松田さん。悪いんですが、急ぐ用件でなければ後にしてもらえませんか?」

「そうか。邪魔して悪かった。」

 そう言うと、松田先輩は部屋を後にした。幾ら鈍感な僕だってさっきの会話だけで、二人が特別な関係だって事くらい分かる。

「あのさ・・・松田先輩と上野さんって、やっぱりその・・・・。」

「“付き合っているのか?”って事ですか。私が松田さんの彼女だったら、意外です?」

「いや、そういう訳じゃないんだけど、松田先輩って秘書課の水野さんと付き合っているって噂を聞いた事があるし、もしそれが本当なら二股かけている事になるでしょう。そういうのはやっぱり良くないと思うんだ。」

 その言葉に、亜津子は怒るどころか、真面目な顔でこう言ったのだった。

「代わりに北川さんが彼氏になって、私を幸せにしてくれる?」

 突然の事に、僕は何て答えて良いのか分からなかった。そんな僕の様子を見て、彼女は笑ってこう言った。

「冗談よ、冗談。もしかして本気にしたの?」

 そして、机の上のコーヒーカップを抱えて部屋を出る間際、振り返ってこう付け加えた。

「でも、階段の下から他人がキスしているのを隠れて覗き見するなんて、趣味が悪いわよ。このスケベ!」

 そう言われて始めて、昨日見た女性が彼女である事に、僕は気付かされたのだった。

「私を振り向かせるくらいのイイ男になったら、相手してあげるわ。」

 僕はまったく彼女に翻弄されたまま、一人部屋に取り残されていた。



 この時まだ、僕の物語は始まったばかりだった。これから起こる物語の中で、僕が演じる役柄が脇役なのか主役なのか、それは神様だけがご存知の事だろう。ドラマみたいな都合の良い展開なんて期待は出来ないかもしれないけど、それでも少しくらい、夢を見させてくれても良さそうなものだと思う。「誰にだって、神様は等しく平等である」ってね。

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