プリザーブドフラワーをあなたに
私の家の近くにあるT駅周辺は、江戸時代から街道が整備されていた場所で、その影響もあって今でも道路沿いに多くの商店が軒を連ねている。それらが集まって幾つもの商店街が形成されており、随分と賑やかな様相を呈していた。商店街には買物客のためにアーケードが整備されており、冬場になると雪の多いこの地方にあっても安心して買物が出来るように配慮されていた。
私は通勤に電車を利用していたので、自宅から駅までの距離を毎日歩いていた。時間にしておよそ15分程度の僅かな時間だったが、季節によって移ろい変わり行くそれらの店々を眺めるのが、帰宅する時の密かな楽しみでもあった。
昔と違って自動車での買物が一般的になった現在では、近くに駐車場のない商店街にわざわざ足を運ぶ客は減ってしまった。追い討ちをかけるように、郊外に大型スーパーが建設され、豊富な品揃えと価格の安さで僅かに残った顧客でさえも奪ってしまったのだった。そんな訳で、目に見えてはっきりと分かる程ではなかったが、一軒、また一軒と閉店する店が目に付くようになり、今ではT駅周辺の一部の範囲だけが昔日の賑わいを僅かに留めている有様だった。
しかし、悲観する事ばかりでもない。何故なら、閉店する店がある一方で、新たに開店する店が存在するからだ。若くて気鋭に富んだ経営者達は、この街にも大勢いた。彼らこそ、この街に新たな息吹を吹き込んでくれる貴重な存在だった。
その日、私は気分を変えていつもとは違う道を歩いて帰っていた。そんな私の目に、見慣れぬ新しい店が目に入ってきた。そこは昔、雑貨屋を経営していたのだが、閉店してからというもの随分と長い間空き店舗となっていた場所だった。
そこに新しく出来たのは花屋だった。花を愛でるような趣味もなければ、それを贈る相手もいない三十寡夫の私にとって、まったくと言っていいほど縁のない店ではあったが、隣接する他の店とは一線を画すこの新たな店の誕生に、何か嬉しい気持ちを抱いたのだった。
「へぇ〜、こんな所に花屋なんて出来たのか。」
新しいお店というのは、何となく興味を惹かれるものだ。それがまったく自分に縁がないような店であっても。
「良かったら、中に入って御覧になって下さいね。」
店の中からまだ高校生くらいと思しき女の子が姿を現した。買物を終えて店から出てきたところのようにも見えたのだが、私に声を掛けてくるくらいだからきっと、この店で働いているアルバイトなのだろう。
「いや、その・・・。花の事は良く分からないですし、新しいお店が出来たので、ただ何となく眺めていただけです。」
私は途惑ってしまい、そんな必要もないのに彼女に向かって言い訳じみた事を口にするのだった。
「別にいいじゃないですか。店長、お客さんですよ!」
女の子が店の中に向かって声を掛けると、それに応じるかのようにカウンターにいた男性が私の方に微笑んでくれた。見たところは私と同じくらいか、少し若いくらいだろう。
「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくり御覧になってください。」
「別に心配しなくても、このお店は“何か買ってください”なんて強要したりしませんから!ねっ、店長。」
「また、そんな事言って。今月の売上げが少なかったら、美紀ちゃんのバイト代が払えないかもしれないよ?」
「そんな〜!!おじさん、憐れな女子高生を助けると思って、何か買って行ってくださいね。じゃあ店長、私はこれで帰りますから!」
美紀と呼ばれた女の子は、店の前に置いてあった自転車に乗ると、こちらに手を振りながら帰っていった。
これが私にとって人生初の花屋体験だったのではないだろうか。私自身、明らかに場違いな世界に踏み込んでしまったと思っていたが、店長はそんな事などお構いなしといった様子で私に話しかけてくれた。
「男で花屋の店長をしていますから、随分と珍しく思われたでしょうね。」
「いえ、そんな事はありませんよ。今まで花屋に足を運ぶ機会がなかったものですから、その何だか場違いな気がしていて・・・。」
「昔から自分の店を持つのが夢だったんです。それがまさか、花屋の店長になるとは自分でも想像していなかったですけどね。まあ、形はどうあれ望みが叶った訳ですから、満足しています。」
「実に羨ましいお話です。色々と大変だと思いますが、遣り甲斐も大きいのでしょう?」
これまでの私は、“花屋”という存在に一種近寄りがたい印象を抱いていた。そういった場所に立ち入るには、何かしらの目的―――例えば、誰かにプレゼントを渡す事になって、それを買いに行くような―――そういった用事があって始めて立ち入る場所だと思っていたからだ。だからこうして、何の目的もないのに花屋にいる自分が、随分と不思議に思えてならなかった。
しかしその一方で、そんな私を何の抵抗もなく迎え入れてくれたこの店の雰囲気に、私は何かしら魅せられるものがあった。それは次第に自信へと変わっていき、自分でも驚くほど饒舌になっていた。
「あの、不躾な質問かもしれないのですが、やっぱり以前からお花には興味があったのですか?」
「実を言うと、以前は花になんてまったく興味がなかったんです。」
「それがまた、どうして花屋になろうと決めたんです?」
「私の妻が大変に花好きでしてね。惚れた弱みといいますか、何とかあいつの気を引こうと必死に勉強したのです。それがキッカケみたいなものですかね・・・おっと、噂をすれば。」
店の扉が開く音がして、若くて綺麗な女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ。」
その女性は、優しげな微笑と共に、私に挨拶をしてくれた。店長が必死に気を引こうと努力したのも頷けるというものだ。私は一人納得した様子で、店内に飾られている花々を見て回り始めた。
店内には実に様々な花が飾られていた。と言っても、私に分かるのはチューリップくらいのもので、ひたすら名前の書かれたプレートを眺めてばかりいた。
「これなら分かるぞ。スズランだ!」
芳香のある真っ白な鈴のような花が、幾つも並んで垂れ下がっているのを見て、私は独りで悦に浸っていた。
「ええ、その通りです。フランスでは5月1日はスズランの日と呼ばれていて、贈られた人は幸せになれるそうですよ。」
「確かスズランって、毒性がありましたよね。大丈夫なのでしょうか?」
そこまで言ってしまってから、私は自分の失言に気がついた。店長はさして気にした風でもなく真面目にこう答えてくれた。
「お詳しいですね。特に根や花に毒性があって、スズランを生けた水を誤飲して死亡した例もあるそうです。まあ、扱い方次第だと思いますよ。」
「いや、すみません。花屋で口にする内容ではなかったですね。私は推理小説を読むのが好きなものでつい・・・余計な事を言ってしまいました。」
「別に構いませんよ。普段気がつかないだけで、身近な植物の中には毒性を持つ物は結構ありますしね。」
そう言うと、店長はチューリップを手に取りこう続けた。
「綺麗な薔薇には棘がありますし、このチューリップだって毒がある。そうでしょう?」
「そうですね。・・・ところで、あそこに書かれている“プリザーブドフラワー”っていうのも、花の名前か何かですか?」
私は話題を変えようと、壁に貼ってあったポスターを指差しながらそう言った。
「ああ、あれは名前ではなくて、長時間保存する事が出来るように加工された花の事ですよ。ドライフラワーよりも自然な状態で保存できますし、枯れることがないんです。」
「へえ〜、そんな技術があるんですね。知りませんでした。」
「最近日本でも普及し始めているんです。一番人気なのは、やっぱり薔薇ですね。プレゼント用によく利用されています。」
「プレゼント用か・・・。」
私はその瞬間、一人の女性の姿を思い浮かべていた。それは会社の同僚で、私が密かに思いを寄せている女性だった。しかし口下手な私は、彼女に親しく話しかけた事などなく、せいぜい廊下で擦れ違う際に挨拶を交わすくらいの事しか出来なかった。まして、自分の思いを相手に伝える事など思いもよらなかったし、プレゼントを贈るなんて・・・。
私は結局、観葉植物の鉢植えを一つ買う事に決めた。プリザーブドフラワーを買ったところで、自分の部屋に飾るような場所もない。まして、独身男の部屋に薔薇の花なんて飾ってあったら、それこそ皆の笑い者にされるだけだ。観葉植物であれば、インテリア代わりにはなるだろう。
「何か分からない事や困った事があったら、いつでも相談してくださいね。」
「ありがとうございます。それじゃあ。」
勘定を済ませた私は、観葉植物の鉢を抱えて家に帰ったのだった。
その翌日、エレベーターを待っていた私は、思いもかけない人物に声を掛けられる事になるのだった。
「おはようございます、毛利さん。」
「お、おはようございます、小野さん。」
それは、私が密かに思いを寄せている小野由美だった。
「昨日、駅前にある花屋さんに行かれていませんでした?」
「えっ、どうして知っているんですか?」
「やっぱり!私もあのお店には良く行くんですけど、ちょうど通りがかった時に毛利さんに似た人を見かけたので。花屋から出てくる男の人って珍しいから、ちょっと気になっていたんです。誰かへのプレゼントですか?」
「そういうのではなくて、観葉植物です。ほら、部屋に飾ろうかなって。確か・・・『モスラ』だったか『モンスラ』とかいう名前の、切れ目の入った大きな葉っぱの植物です。」
「それだったら多分、『モンステラ』だと思いますよ。そうじゃないです?」
そう言って、彼女はモンステラについて説明をしてくれた。
「きっと、そうだと思います。アハハハハ・・・・。『モスラ』は怪獣ですし、『モンスラ』はモンペ・スラックスの略語ですからね。」
「毛利さんでもそんな事を言うんですね。私、そんな冗談なんてまったく言わない方だと思っていましたから。」
「小野さんの方こそ、すごく詳しいですね。あんな説明だけで分かっちゃうんだから。」
「好きなんですよ、花や植物の事。あっ、いけない。そろそろ戻らなくちゃ。それでは失礼します。」
そう言うと、彼女は去っていった。
男という生き物は、実に単純に出来ているものである。それからというもの、私は暇さえあれば毎日のように仕事から帰る途中、駅前にあるあの花屋へと足を向けるようになったのだった。彼女との共通の話題が欲しかったのも一つの理由だったが、もしかしたらこの店で彼女に出会える機会があるかもしれないと思ったからだ。その機会は、案外と早くに訪れたのだが、しかしそれは、私にとってあまり良い結果を生むことにはならなかった。
その日、休日で行く当てもなかった私は、いつものように駅前にあるあの花屋に向かっていた。店を訪れた私を迎え入れてくれたのは、他ならぬ彼女だった。
「いらっしゃい・・・あれ、毛利さんじゃないですか。」
「小野さん、何で君がこの店で働いているの?」
私の声を聞きつけて、この店に私を招き入れてくれたあの女の子がやって来た。
「こんにちは。あれ、お二人ともお知り合いですか?」
「美紀ちゃん、紹介するわね。こちらは私の職場の同僚で毛利博嗣さん。毛利さん、こちらはこのお店でアルバイトをしている宮部美紀さん。」
「毛利さんって言うんだ〜。へぇ〜、なるほどね。そうか、そうか。」
この年頃の女の子というのは、妙に感が鋭くて困るものだ。
「そんな事より、さっきの話。何でこの店で働いているの?」
「働いているわけじゃなくて、ちょっとお留守番を頼まれたんです。圭一さん・・・・じゃなかった、東野さんに。色々とお花の事とか相談に乗ってもらっているんです。」
「店長は今、配達に出かけていてね。私だけだと心配だからっていうんで、由美さんに連絡して来てもらった訳。どう、驚いた?」
この店に頻繁に顔を出すようになってからというもの、私とは顔馴染みになっていた宮部美紀がそう聞いてきた。
「でも、それだったら奥さんに留守番してもらったらいいじゃないか。わざわざ君が手伝わなくても・・・。」
「智子さんは今、実家に帰っておられるそうなの。何でも、お母さんが体調を崩されたとかで・・・あっ、いらっしゃいませ。」
彼女はそう言うと、別の客の対応に行ってしまった。
「“花の色は移りにけりないたずらに”って言うでしょ。花の色が変わるように、女心も変わっていくものなのよ。しっかりと捕まえておかないと、取られちゃうわよ。」
そう言って、女子高生はニヤニヤした笑顔を浮かべていた。最近の高校では古典も碌に教えていないのだろうか。
「その歌はそういう意味じゃないんだよ。それに、相手は妻帯者だし・・・。」
「そう言って油断していると、大変な目に合うわよ。第一、“実家に帰った”っていうのだって怪しいものだわ。」
「そんな筈はないだろう。あの夫婦は随分と仲が良さそうだった。この花屋を始めたのだって、奥さんが花を好きで・・・。」
「そんなの昔の話だわ。時は移ろい行くものなのよ、まさに歌の通りにね。それに、表向きだけ仲が良かったって事も考えられるんじゃない?俗に言う“仮面夫婦”ってやつ。もしかしたら奥さんが邪魔になって・・・。」
「美紀ちゃん。悪いんだけど、こっちに来てちょっと手を貸してくれない?」
「は〜い、今行きます!じゃあ、おじさん。せいぜい頑張ってね。私も応援するから。」
そう言うと宮部美紀は店を何処かに行ってしまった。それ以上店にいて邪魔をしては悪いと思った私は、二人に別れの挨拶を告げると店を後にしたのだった。
「圭一さん。私・・・・。」
「由美さん。僕は本気で君の事を愛しているんだ。信じてくれ!」
「私だってあなたの事を愛しているわ。でも、智子さんが・・・。」
「智子の事は心配要らない。僕の方で上手くやるよ。」
「でも、どうやって。」
「僕は花屋の店長だ。植物の中には強い毒性を持ったモノが存在するのは君も知っているよね。智子には悪いけど、僕達の幸せの為に消えてもらうしかないと思うんだ。」
「でも、彼女が急にいなくなったりしたら、周りが不審に思うんじゃないかしら?特に、あのアルバイトの美紀って子。彼女は妙に勘が良さそうよ。」
「智子は実家に帰らせたって事にしておけばいいよ。何だったら、美紀って子も一緒に消えてもらおうか?」
「でも、死体の処理はどうするの?うまく隠したつもりでも、死臭から事件が発覚するケースというのはよく聞く話じゃない?」
「それだったら心配は要らないよ。プリザーブドフラワーの原理を利用するのさ。僕は既に、生花だけでなく人体に応用できるレベルにまでその開発を進めたんだ。これを使えば死体が傷む事はない。適当な時期を見計らって何処かに埋めればいい。それよりも・・・。」
「まだ何か心配事があるの?」
「君の同僚の・・・・何ていったかな、よくうちの店に来る男がいただろう?」
「ああ、毛利さんね。彼がどうしたの?」
「彼は推理小説を読むのが趣味らしいんだ。花に含まれる毒の知識だけでなく、プリザーブドフラワーの事についても知っている。もしかしたら彼が・・・。」
「彼の事なら心配いらないわ。だって彼、私に惚れているみたいなのよ。私が少しでも優しい言葉を掛けてあげれば、きっと何だって言う事を聞いてくれるわ。」
「まったく・・・。君って見た目とは違って、随分と酷い女だね。」
「私は、あなたの為なら悪女にでもなるわ。だから決して私を裏切らないでね。」
そう言うと、彼女は彼に口づけをした。―――そこで私の夢は終わった。まったく、酷い夢だった。きっとあの女子高生が妙な事を私に吹き込んだせいだろう。
そんな事があってから一年くらい経った頃の事だろうか。私はいつものように駅前にある花屋を訪れていた。私を迎えてくれたのは、この店に訪れるキッカケを作ってくれたあの女の子だった。
「こんにちは、美紀ちゃん。正式にここで働く事にしたんだってね。おめでとう。」
「あっ、毛利さん。こんにちは。とりあえずはこのお店で働いてお金を貯めて、ゆくゆくは自分のお店を持とうと思っているんですよ。ここはその時までの足掛りです。」
「またまた、そんな事言って!店長に聞かれたら怒られるよ?」
「大丈夫ですよ。店長は今、留守にしていますから。奥さんの体調が良くないからって、一緒に病院に行かれているんです。奥さんは大丈夫だって言っていたんですけどね。ほら、うちの店長って奥さんにべったりじゃないですか。心配で仕方がないんですって!それで、こうして私が一人お留守番を任されているという訳です。」
彼女は両手をかかげると、大層な溜息を吐いて自分の苦境を私に語って聞かせてくれた。以前、彼女が私に披露してくれた夫婦険悪説は、まったくの出鱈目であり、東野圭一と智子の夫婦は、以前にも増して仲良く暮らしているようだ。智子が実家に帰っていたのも、実際に彼女の母親の具合が悪かったのが原因であったのは、後で聞いて知っていた。まったく、とんだ人騒がせな話である。
「それは大変だったね。おや、噂をすれば・・・。」
店の入口から、店長が姿を現した。しかし、一緒に行ったはずの彼の妻の姿はなく、彼の様子もどこかおかしかった。
「美紀ちゃん。すまないがしばらく店を閉めることになりそうだ。」
「一体、何があったんですか。」
「・・・まだ詳しい事は分からないが、智子の容態が思わしくなくてね、すぐに入院する必要があるとだけ言われたんだ。私はこれからすぐ、病院に戻るよ。」
二人の会話を聞いた私は、余計なお節介かとも思ったが二人にそう言った。
「あの、私で良ければ何かお手伝いいたします。何でも言ってください。」
「毛利さん、ありがとうございます。しかし、妻も気を使うと思いますので、私だけで大丈夫です。すみません、ご心配をおかけして。」
そう言うと、店長は大急ぎで身の回りの物をカバンに詰め込むと、店を出て行った。
「美紀ちゃん、何か分かったら私にも教えてくれないかな。長引くようだったら、お見舞いにも行きたいし・・・。」
私は彼女に連絡先を告げると、店を後にした。それが、彼女を見た最後の瞬間だった。
その後、宮部美紀からは何の連絡も掛かってこなかった。何度か店の前を通ってみたものの、相変わらず店は閉まったままだった。彼女の事だからきっと、別の店に再就職したのだろう。もしかしたら、念願叶って何処かで自分の店を開いているのかも知れない。
小野由美はちょうど同じ頃、突然会社を辞めてしまった。地元に帰って両親の面倒を見るのが理由だそうだ。彼女との仲はあれ以上に進展しないまま、私は他の同僚と一緒になって彼女の退社をただ見送ることしか出来なかった。今現在、彼女が何処に住んでいるのかも知らないし、連絡先も分からない。
東野圭一・智子夫妻は、その後どうなったのだろうか。彼は随分と妻を愛していたから、今でも彼女の側に付き添って看病をしていることだろ。
そして私は、今日もいつもと変わらぬ道を、会社に向かって歩いていた。