損なわれた身体
今年の風邪は、すごく性質が悪いらしい。長らく連絡を取っていなかった友達から久方ぶりに電話が掛かってきたため、「それならば一緒に飲みにでも出掛けるか!」と街へ繰り出す事にした。そこまでは良かったのだけれども、ビールを二、三杯飲み干した辺りからどうにも鼻の調子が悪い。サッサと切り上げて家に帰ればいいものを、途中で席を外したりして、自分のいない間に何やら面白そうな事が起こったら詰まらないと思い、最初に渡されたおしぼりで鼻を拭いながら、しばらくはそうやってみんなが喋っているのを眺めていた。
そんな私の様子を見るに見かねたのだろう。友人の一人が私に薬を差し出した。「おいおい、アルコールに風邪薬はまずいだろう。」そう私が言うと、「これは風邪薬なんかじゃないぜ。俺が最近開発した薬なのだが、アルコールと一緒に服用しても大丈夫だから安心して飲んで構わない。」などと言う。そいつは現在、凡そ世間にはその名を知られていないほど小さな製薬会社の研究員として働いているのだが、学生の頃には随分と頭の回転が速い事で知られた男だった。もっとも、あまりにも頭が良すぎるためか、随分と突飛な行動が目立っており、周りからは浮いた存在として変人扱いされる事がしばしばあった。しかし、私とは何故か非常に馬が合い、度々答案用紙を覗かせてくれるという栄誉を与えてくれていたので、私の方でも何かと彼には良くしてやっていた。そんな訳で、他の誰よりも彼の事については詳しく知っていたし、彼の方でも私の事について微に入り細に渡り尋ねてくるので、包み隠さず教えてやっていた。彼の就職内定が決まった時なども、私も含めて周りはみんな「お前だったら、他に幾らでも就職先はあっただろうに、何だってそんな無名な会社を選んだんだ?」と質問したものである。そんな質問に対し彼は、「俺は一人っ子だから、実家を離れるわけにはいかないだろ?両親の面倒を見られるのは自分だけだからな。」などと、もっともらしく答えていたのだったが、私にだけは後で「どうしても小さい頃から夢見ていた“ある薬”を作りたいのさ。あの会社だったらそれが出来る。」と打ち明けてくれたのだった。
その時の私はそんな昔の事などすっかり忘れていたのだが、「まさか試供品の効果を俺で試すつもりじゃないだろうな。」と冗談交じりで応じながらも、折角の彼の好意を無にするのも悪いという短絡的な発想により、その薬を有難く頂戴し、その場で水と一緒に飲み込んでしまった。そんな無茶な事をして、どんな副作用が起こるか分かったものではないのだが、体の隅々にまで浸透してしまったアルコールは、元々乏しかった私の思考能力でさえも奪ってしまったようである。その時には既に、まともな分別など残されてはいなかったのだ。おかげで、どうやって家に帰りついたのか分からないままに、翌朝気がつけばベッドの上で眼が覚めていた。
ぼんやりした記憶を手繰り寄せてみると、何となく「締めはラーメンを食いに行くぞ!」とか叫んでいたような気もするが、定かではない。余程前後不覚になるまで飲んだのだろうかと自問自答してみるのだったが、ばらばらに散らばった記憶の断片は、まるでジグソーパズルのようにぶちまけられており、残念なことにそれを組み立てて完成させるだけの根気も努力も私には備わっていなかった。その一方で、友人の渡してくれた薬は驚くべき効果を発揮してくれたようで、昨日まであれほど私自身を悩ませていた鼻水の方はすっかり止まっており、しいて不都合を上げるとするならば、おしぼりで散々鼻を拭っていた事による肌の炎症くらいだったが、それは自業自得というものであろう。指で触ってみると、鼻の周りがやけにザラザラしているのが、まるで自分の皮膚を触っているのではないように感じられた。
風邪も少しは良くなったようだが、まだ少しだけ熱があるようだった。どちらにしても、二日酔いのせいでまともにベッドから起き上がれる状況にはなかったし、休日だったのでもうしばらく安静にしている事にした。そう決断するが早いか、私は再び布団を被り、甘美なる眠りの世界へと出発したのだった。
病床で高熱にうなされている時というのは、人はしばしば妙な幻覚に襲われるものだ。その時の私も、夢と現の狭間において激しい動悸と全身の骨が軋むような感覚、頭痛と多少の吐き気(これは二日酔いの影響だと思うが・・・)を感じていた。こういった状態の時には日常の一切の正常な感覚というのは失われるようで、伸び縮みする歪んだ時間軸の中を、私は無限とも思われる幻に苛まれ続けていたのだった。
暗闇の中を手探りで彷徨っている旅人を導いてくれる一条の光明のように、私の朦朧とした眠りの世界は、携帯電話のアラーム音によって破られた。手探りで携帯電話を手に取りスイッチを切る。体調もすっかり回復した私は、とりあえず起きてシャワーを浴びることにした。脱衣所で服を脱いでいたその時、私は自分の体に起こった異常に始めて気がついた。私はどちらかというと浅黒い肌をしていたのだが、全身見渡してみると真っ白な絹のような肌に変わっていた。髪の毛も茶色がかった癖のあるものであったが、今では真っ直ぐな黒髪へと変わり、腰の辺りまで伸びていた。何よりも変わっていたのは、私が男性から女性へと変貌を遂げていたことである。鏡に映っているそれは、昨日まで見慣れた私の姿ではなく、私が今までに出会った事もない、しかし誰もが見とれるような、非常に美しい女性の姿であったが、それは間違いなく私自身だった。その証拠に、私が右手を上げると左手を上げ、私が微笑むとこちらに向かって天使のような笑顔を浮かべてくれた。どんな奇跡が起きたのかは分からないが、私はまったくの別人に生まれ変わってしまったのだ。
混乱している私の耳に、携帯電話の着信音が聞こえてきた。急いでそれを手にしてみると男性の声が聞こえてきた。「やあ、おはよう。もう十分薬の効果が出始めている頃だと思って電話したんだ。何も知らされていない君がショックで倒れたらいけないからね。」彼は気軽な調子で私に告げた。そして、一瞬の間を置いて彼はこう付け加えた。「実は今、君の家の近くまで来ているんだ。詳しい事は会って直接話したほうが分かりやすいだろ?もうじき到着するから、しばらくそのままで待っていてくれ。」それだけ告げると、私に構わず一方的に通話を打ち切ってしまった。
数分後、玄関に設置されたインターホンが部屋に鳴り響き、扉を開けた私の目の前には、まったく見知らぬ男性の姿があった。それはまるで、最近人気の若手俳優にどことなく似た顔立ちをしており、同性の私の眼から見ても十分に魅力的な存在だった。しかし、私にはそんな知り合いなどいないので、「一体誰なのか」と尋ねると、相手は私の質問にひどく驚いた表情を浮かべたのだが、すぐに気を取り直すと「俺だよ。これほどの効果を上げるとは、想像もしていなかったな。」そう言って、私の了解を得ないままに無断で部屋へと足を踏み入れると、女性の姿になった私をしっかりと抱き締めるのだった。「一体どういうつもりだ!」と私が言うと、彼は悪びれる風もなく「男女が抱き合う事がそんなにおかしいのか?」と答える。「馬鹿なことを言うな。私はれっきとした男だ。」と彼を突き放そうとするのだが、背中まで回された彼の腕はそう簡単に振り解くことは出来なかった。「誰がどう見たって、今のお前は女だろう。それは自分自身が一番分かっているハズだ。それに、こうして俺に身を委ね事に、密かな期待を感じていたのだろう?」彼がそう指摘したとおり、私はとても幸福な気分に浸っていた。病み上がりの私の体は、一人で立っていられる程には回復していなかったし、先ほど示した抵抗や口にした言葉とは異なる感情が、私の中ではジクジクと渦巻いていたからだ。この混乱した世界を全てありのまま受け入れるほうが、この世界を否定することよりも容易く思えた私は、まるで熱に浮かされでもしたかのように、この不穏な関係に酔い痴れていた。「こうして抱き合っていると、今まで失われていた自分の半身と融合できた気がする。」二人はほぼ同時にその言葉を口にしていた。私を今まで男性として縛り付けてきた肉体が損なわれた今、私自身は、彼女を抱いている男性なのか、彼に抱かれている女性なのか、その境界は当事者である私でさえも定かではなくなっていた。ひょっとしたら、私はその両方なのではないか、そんな疑問がふと頭をよぎる時もあったが、真相など最早どうでもよかったし、知りたくもなかった。
私の眠りは、再び携帯電話のアラーム音によって破られた。目が覚めた私は、一瞬自分が何処にいるのか分からなかったのだが、何の事はない、自分のベッドの上で布団に包まっているのだった。テーブルの上には、私が昨日、近所で購入してきた市販の風邪薬と空になったコップだけが置いてあった。私が携帯電話を手に取り着信履歴を見てみると、それを確認する前から予想できたとおり、ここ最近の友人からの着信履歴は一件も記録されていなかった。