06
「いいかい、イーリス。外の世界で生きる注意事項だ」
シルクはこう言っていた。
「まず、ぼくたちは知識不足で常識がない。知っているとしても、見たことは……ないからね。これが一番苦労すると思う。
次に、普通の人たちがぼくたちみたいなのをたぶん嫌がること。ゴミと犯罪者しかいないところで育ってるんだから、汚いとか気持ち悪いとか怖いとか。思われたって仕方がない。
あと、言葉が通じるかどうかも怪しい」
知らないことばかりで、他の人からは嫌われて、もしかしたら言葉も通じなくて。
……普通に生きていくのは無理だ、これ。どうやって生きていけばいいんだろう。
「魔法についてはね、なんとかなると思うよ。正直。喧嘩になったら、負けることなんてほぼ無いと思う」
「え?魔法は最強じゃなかったの?」
「それは兵士とか戦える人だったらの話。ぼくたちは戦い慣れしてるし、体一つで戦うならオトナにだって負けっぱなしじゃなかったんだから。
たぶん、その辺の只のオトナなら負けないと思う。それに、火も水もちょっと当たったって大したこと無いから、一発蹴っ飛ばして終わりだよ」
でも、絶対にダメなのは。とシルクは続ける。
「ティナ持ちだ」
ティナ持ち。ティナを所有している者のことだ。
戒めるように、ゆっくりとシルクは指をたてた。
「ティナは能力もわからないし、体の基本ステータスが上。理性があるかさえわからないんだ。
魔法の使い手も人間だから、話でなんとか解決できるかもしんないけど、ティナの本能は人間を殺すことだから、話なんて聞くかどうかも怪しい。もう理性がない可能性すらある。
それに、イーリスはまだ怖いでしょ?だから、絶対にティナ持ちとは戦ったらダメだ。
幸い、見た目が人間とは違うから、見かけたらすぐに逃げること。いいね!」
「……もし戦わないといけなくなったら?」
「んー。そもそも戦うしかない状態って、外に出るまでだけだと思うんだけど……もしもそうなったら逃げるか、別の解決方法を見つけるか、だね。数が少ないティナ持ちにあたった不運を呪うしかない」
なんとも投げやりな…。つまりは対策法なしってことじゃん。
「とにかく!第一の課題は脱獄だ。出てからのことはなんとかしながらなんとかするしかない!」
「え、えぇー…」
「脱獄するとき、もしもイーリス一人だったら、なんとか逃げて戦ってやり過ごして。でも、もう無理だ!殺される!ってなったときは、そいつに心から助けてくれって伝えること!いいね!絶対だよ」
そうシルクは言っていた。
その不運がこんなに早い段階で起きるなんて、ほんとどうしたらいいんだろう。ゼロさんっていう強い人に会った幸運は続かなかったってことか。
ティナは、魔法が使えない。その代わり、その種族の特殊な力を持っている。人としての何かを失っているけど、普通の人よりも体が強い。人としての意識はあるけど、本能としては人を殺したくて、いずれは理性を無くしてしまう。
どうしたら、いいんだろう。
死ぬのも捕まるのも嫌だけど、助けてくれたゼロさんを巻き込むのも嫌だ。
「ゼロさん。わたし……」
言葉は続かなかった。
嵐のような魔法の轟音が響き、ゼロさんはわたしを突きとばして素早く物陰に隠れた。
「ち。めんどくせぇ」
先程まで立っていた場所は抉られて無くなり、プスプスと焦げた跡を残していた。そろりと道の先を覗くと、殺意の渦巻く大群が広い場所で待機している。100の軍勢といわれてもピンとこなかったけど、圧倒的な数の前にわたしは息をのんだ。ティナ持ちの前に、この大群をどうしろというのだろうか。
「だ、だめだ……ゼロさん。こんなの…無理だ…」
そして中央に、明らかに人とは異なる者が君臨する。
全身が震える。あれがティナ持ちだ。
「勝てっこない……」
5メートルはゆうに越える体躯を持ち、二足ではなく四足の獣。五本の指はひとつひとつが鋭い爪へとかわり、人の顔を持ちながらも口は裂け、太い牙を剥き出しにしている。そして、頭は三つ。ヨダレを垂らし、咆哮をあげ、血走った目を爛々と光らせていた。
「ケルベロス、か」
ゼロさんは壁を背に座ったまま、呑気にタバコを咥えている。
「ダメだな、あれは。もう堕ちかけてる」
「堕ちかけてるって……理性がほとんどなくて狂暴ってことだよね」
「だな。さすがに素手じゃ厳しいか。めんどくせーなぁ…」
ゼロさんは気だるげにそう言うと、体をグッと伸ばして立ち上がった。
行く気なんだ。
「ゼロさん、わたし…」
「なに考えてるか知らねぇが、お前はほんと運が良かったな」
「…え?」
何を、言っているのだろうか。
目の前には武器を備えた百人の魔法使いと、巨大な体躯をもつティナ持ち。
対してこちらは手ぶらのゼロさんと魔法も使えないわたしだ。
絶望的にも程がある。
運がいいなんて、いや、確かにゼロさんと会えただけでも運はよかったけど、それを覆すくらい最悪な状況だ。
抗議する間もなく、ゼロさんはスタスタと歩いて敵へと向かう。警告のアナウンスが響き、ティナ持ちの咆哮が耳を貫くも、ゼロさんは煙草の煙と共に悠々と進んだ。
「止まれ!侵入者よ!!」
ついに代表者は己の声を張った。それでもゼロさんは止まらない。
「足を止め、アビスシードを渡せ!渡せば命だけは助けてやる!これ以上進むというなら、ティナ持ちが相手だ!」
ティナ持ちを縛る鎖がじゃらりと音を奏で、応えるように咆哮が響く。
ようやく足を止めたゼロさんは、なにも言わずに、ティナ持ちを眺めていた。
代表者の声には見向きもせずに、ただ、じっと。
そしてゼロさんは軽くため息をつきながら俯き、髪をかきあげた。
それと同時にぞっとするような殺気が辺りを貫く。
「ひぃうっっっ!!」
誰かが叫び声をあげた。
暴発した魔法が天井で弾け、パラパラと埃と小さな瓦礫が舞う。
ゼロさんは相も変わらず悠然している。わたしの見ているところからは背中しか見えないため表情まではわからない。
でも何となくわかる。きっと、口の端をつり上げただけの、あの笑みを浮かべているんだろう。
「馬鹿だよなぁ、お前ら」
ゼロさんはその手をゆっくりと振る。いつの間にかその手には禍々しい剣が握られていた。
「俺が誰なのか。それを考えて行動したら、こうはならなかったのにな」
邪魔だと言わんばかりにマスクをおろし、それと同時に発せられる闇のオーラ。足元がひび割れ、天井が更に崩れる。瓦礫が落ちて土煙が上がった。
「俺を殺すなら万の兵でも足りねぇよ」
瓦礫と埃で霞んだ視界に、巨大な翼が映った。黒く、無機質で、先端は牙のように尖っており、柔らかな羽はなく、骨組みに硬い鱗を張ったような強靭な翼だ。
わたしは、今なにを見ているのだろうか。
「や、闇の帝王……」
誰かが呟く。絶望を滲ませた声色で。
「都市を一夜にて壊滅させ、数万の軍隊を一人残さず殺戮した大罪人。ルシファーとも呼ばれ、闇の帝王の異名をもつ……」
「紹介ご苦労」
ゼロさんが剣を薙ぐと闇が飛び、声は悲鳴へと変わった。
「俺が、悪魔のティナの所有者だ」
わかったらそこをどけ、と。ゼロさんは傲慢にも百の兵士を見下して笑った。
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