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苦生楽酔フ

作者: 黛かいこ

 否定に屈する暇など無い。

 描くのだ。紋様である。物語である。

 それは現でも、空想でもよい。

 止めてはならない。

 苦悶も、苦痛も、また紋様の一つ。

 歓喜も感動も、同じく紋様の一つ。

 目を瞑ってはいけない。

 瞑りたくとも、息苦しくとも。

 止まる故はない、止まれない。

 描くしかない。それこそが生き方なのだから。


 「生きたい」と言うには、まだ苦しい。

 けれど、「書きたい 描きたい」とは思うのだ。

 伝える。伝える。伝える他ない。

 文学かはわからない。評価などわからない。

 それでも、表現しかない。言葉。言葉なのだ。

 他の手段と生き方を知らない。

 文士ではない。そこまでの覚悟も、力も持たない。

 けれど、けれど、それしかない。

 そう生きたい。


 私は書く。書く。生きるつもりがないが、書く為に生きるならば、それ以外ない。

 職を、離れる気はない。

 遊戯も捨てられない。

 けれど、何が大切かと聞かれたら、文字だ。文学だ。それしかない。それだけがいい。紙と筆さえ、そう、それだ。

 時間がない。時間がない。けれど、綴りたい。

 それしか、それなのだ。ままならぬ、ままならない。


 うたなのだ、絵なのだ、文学は。

 つまるところ、芸術と類される物は須らく類するそれらすべての要素を持つのだ。

 私は「エッセイ」も「詩」も「小説」も区別がつかぬ。全て言葉だ。叫びだ。魂だ。

 だのに分けねばならぬ。そうでなくば目に留まらないとは、本当にままならぬ。

 いっそ、何も分けず題のみを情報として出してやろうかとすら思う。

 人の基準など己の解の外だ。考える間が勿体ない。


 私は己を知らぬ。

 文字にして初めて己を知る。そんな有様で、如何して他人のことなど知れようか。

 文字。言葉である。音、声でも良い。

 それがなくば、知はないのだ。

 人間、目と耳が最も肝要に思う。

 健常な私にとってはそう思われる。

 否、否、けれどそれは肝要とはいえ心臓でない。


 人の心臓は物思ふ脳である。

 いっそ、いっそ「悩」と呼ぶべきかもしれない。

 感情の中で最も重要なのは負の感情。

 不満である。

 不満なくして人は脳を持たぬ。

 満足のみを持つ物は人とは呼べない。

 不足しているから学ぶのである。考え、動き、実現するのである。

 幸福の前には不幸、あるいは不満があるのである。それを繰り返し続けるのが、生きるということ。


 故に絶望する人もいる。不幸も不足も嫌だと。一度幸福になってもまた不幸になるだけだと。そう絶望したらどうするか。

 死ぬのである。正しく言うなら、死ぬほど寝るのである。

 睡眠は疑似的な死である。意識を持たない時間を持つのだ。そして脳と体を休めるのである。

 生きることに絶望し、死を望むことがあれば、その日は丸一日寝ることだ。


 人間の身体は、寝れば健康になる。

 人間の精神は、寝れば一段落する。


 寝て落ち着かないのなら、睡眠時間が足りないか、一人で抱えられない問題のどちらかである。


 それでも死にたいと思うなら聞いてほしいのだが、自殺というのはとても難しい。

 特に、苦しみを吐き出せない人種にとっては。

 そういった人種は一人で抱え込んでは体も壊すので薬を常用しており、まず多量服薬では死ねない。

 というかそれ以前に、一人で抱え込むのは周りを気にしている証拠であるので、それ故に「己が死んだら周りがどうなるか」を想像してしまう。そこに死への恐怖があるかは幡部穿つかないが、とにかく己の死は周りの苦しみとなることを考える。それに対しての想いは、「それは良くない」「それは嫌だ」「幸せでいてほしい」そして少しの「ざまあみろ」だ。

 苦しみを吐き出さないことは、優しさだ。

「本当の苦しみであればあるほどそれは重たい負荷である。そしてそれを吐き出すことは、相手にもそれを押し付けることだ――」

というのが、典型的な「救われない」人間だと思う。言い方を変えるなら、「余裕がなくなり思い込みの強くなった」人間である。

 愛する相手の苦しみを無くしたい、あるいは一緒に背負いたいというのは、誰でも思う事なのにそれを忘れている人間の姿である。

 口に出来ていても、それに実際の重みがなければ、結局それは「世間話の延長」でしかなく「本音」ではない。

 そういった人種は周りの幸福を勝手に考え、「自分がいない方が世界は美しい」などと思い死のうとするが、死の間際になると己のいない世界に不幸の陰を見、思いとどまってしまうのである。

 そうして、苦しみでできた体で死にぞこない地獄の現世に生ききれなくなるのである。


 本当に、本当にそれは救いのないことだ。

 しかし、私は救いというものはないと思っている。

 きっと、救いはない。この世にもあの世にもない。

 ただ、それでも暮らすにはどうしたらよいのかはわかっている。


「楽」を見つけ、「楽」をすることだ。


 私の「楽」は先ほど述べた。つまるところ文字である。文学である。

 あとは睡眠である。脳を休めさせる事柄への従事である。

 感情でいっぱいになることは「苦」である。故に、零さねばならない。

 その方法が、私は文字であった。

 文字は「楽」である。

 私にとっては、美食より重要な「楽」である。

 できうるならば、三大欲求と取り替えたい程の欲求である。まあ、これはただの狂言であり冗句であるので聞き流されたし。


 生きるのは苦しい。ならば、生きようとするでなく楽するがよい。


苦しみの毒にやられたなら、

楽の麻薬に身を浸せ。


そうして、永遠の眠りが訪れる日まで、

楽を拾っていくといい。

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