「そんな記憶どうでもいい。君がそこにいてくれるのなら」
食後に冷蔵庫の中に入っていたオレンジを食べながら、目の前の君は突然手を鳴らした。驚いて口からオレンジが飛び出してお皿の上に転がる。
「汚いよ、よる」
「だっていきなり大きな音出すから」
転がったオレンジを再び口に入れ、タオルで口元を拭いで?と君に問うた。
「突然何?」
「僕の問いかけに正直に答えてくれる?」
「いいけど……」
真剣な表情で一と言いながら君は人差し指を立てる。
「よる、自分が何の仕事をしてたか憶えてる?」
「何言ってんの?」
「いいから、答えて」
仕事は、そう言いかけて答えに詰まった。その先の言葉が口から出ない。声にならず息になって音を鳴らすだけだった。
「仕事…は」
何をしていた。私は何をしていたのだろう。君と暮らしていたことは憶えている。お互い仕事をしていたのも憶えている。それですれ違って喧嘩をしたのも憶えているのに、何の仕事をしていたのか、それだけが思い出せない。
「二、僕と初めて会った時の事憶えてる?」
「それは憶えてるよ。神社の境内で転んでピーピー泣いてたもん」
「泣いてた事は忘れてて欲しかったんだけど、まあいいや。じゃあその時よるが何をしてたか憶えてる?」
「何を…」
あの日、君と会った日私は何をしていただろう。そもそも、叔父夫婦の家にいる間はあまり外に出ないはずだ。その日は何で一人で外に出たのだろう。
「探検でもしてたんだっけ」
「…その三」
君は私の返答に顔をこわばらせ、正解を教えてくれるわけでもなく次の質問に移った。
「僕が死んだ理由は?」
「それは私と同じで車にはねられたんじゃん」
「じゃあ、何でそうなったか憶えてる?」
「それは私が知らない所で勝手に事故にあって勝手に置いて行ったんじゃん!」
卓袱台に両手を勢いよくつけば、バランスが崩れて壊れてしまいそうな音を鳴らした。何だって言うんだ。君が勝手に死んで何も言わないまま置いて行ったんじゃないか。残された私がどんな思いをしていたのかも知らず、さよならすら言わせてくれなかった。
君はため息を吐いて私を見た。
「よる、憶えてないんだね」
「憶えてないも何も、仕事は…確かに思い出せないけどそんなに大したものじゃなかったし、初めて会った日何をしてたかなんてそんな二十年以上前のこと忘れてても当然だし、あおいが死んだ日の事だって事実を言ったまでじゃん!」
「ううん、僕の知ってたよるは全部答えられたはずだ。自分の仕事には誇りを持っていて、初めて会った日何をしていたかをよく話していた。確かに僕はよるを勝手に置いて行ったけど、事故にあったのも理由があった」
君は私の手を両手を取って大きな手で包み込んだ。
「…今の私は、あおいの知らない私だって事?」
「というよりかは、大切な事を忘れてしまったよるだ。僕がいなくなって三年も経ってしまったから、変わる事は確かにあるよ」
悲しいけどね、と君は言葉を続ける。
「よるの髪が伸びた、綺麗になった、でも三年前よりずっと痩せた。普通の顔をしているのに、泣きそうな顔に見える。昨日持ち上げた時、びっくりするくらい軽くなってたし、全部僕のせいで変わってしまった事だと思うと、申し訳なくていっぱいだ」
三年だ。三年の間に色々と考えた。君と共に過ごす未来が消え失せて、この先どうするかを毎日のように考えた。死んでしまおうか、どこか遠く君の痕跡がない土地に消えようか、食事も喉を通らず、食べずに過ごしていたら胃が小さくなって余計に食べられなくなった。君が好きだと言ってくれた髪の手入れをする必要もない。君が綺麗だと言ったネイルポリッシュは君がいなくなった途端汚い色に見えて全て捨てた。
遠くの土地に行こうと海外旅行のパンフレットを見ても、全部君と行きたいと言っていた場所で、どこに行っても何をしていても君が私の中から消えてくれなかった。
眠ったら君の夢を見てしまうから、怖くて眠りにもつけなかった。君のいないベッドは酷く大きく見えて、抱き枕を抱えながらソファーで寝るようになった。馬鹿みたいだけれど、私の人生は君がいて成り立つものだった。