「夏に空想、ただ君を描く」
君を生かすために空想を描き続ける
会話に夢中で気づけば終わりの時間が近づいていた。次が最後の人です、と聞き背筋を伸ばす。入ってきた青年が持っていた絵本は随分と表紙がボロボロだった。彼の目は腫れていて表情は暗い。それは一年前までの私のようだった。
「来てくれてありがとうございます」
差し出されたボロボロの絵本を手に取る。読んでくれるのは嬉しいが、発売からあまり時間が経っていないのにここまでボロボロになってしまった事に驚きを隠せなかった。背表紙を開き最後のページに今日何度も書いたサインを入れていく。これで最後だ。今までで一番綺麗に書けた事に満足し本を閉じて差し出す。しかし、青年は受け取らなかった。
「それ、恋人の物だったんです」
俯いたままの彼は何も言わず本を指差した。
「貴方の作品が好きだったんです。だから、新作が出た時何度も興奮を伝えられた」
「代わりに来たんですか?」
「…もう、ここにはいないので」
その言葉の真意に気付き、差し出した本を机の上に置いた。
「死って何ですか、恋人が死んだ時何でこの人なんだって思いませんでしたか?何で自分が残ったんだろうって、生きてるんだろうって、一緒に死ねなかったんだろうって」
涙が床に落ちた。震える肩は確かに彼がここにいる証明だ。
「こんな本なんて、って投げても捨てられなくて、どうすればいいのかも分からなくて」
傷ついた絵本は彼の悲しみの当たり所だったのだ。破れかけた表紙をなぞる。つきは目を閉じて微笑んでいた。
「答えってないんですか、生きてる意味って何ですか。僕はこれからどうすればいいんですか」
顔を上げた彼は複雑な表情で涙を流していた。一年前の私とそっくりで放っておけなくなった。私はあの白昼夢の中で君に会えたから前に進む決断をした。しかし、彼は違うのだ。背中を押してくれる人も、正解を教えてくれる人もどこにもいない。だからここに来たのだ。自分と同じような境遇を味わった人の元に。
「答えなんてないよ」
私は彼の目を見る。その瞳が一瞬揺れた。
「私は恋人の死がコンテンツにされるのが嫌だった。何も知らない人たちが彼を語るのが許せなかった。でも、自分は何も出来ずにいた」
一年前、スクランブル交差点でコンテンツにされた君を見た。世間に都合のいいように作り替えられた君の人生を見知らぬ人が嘆いていた。忘れている人もいた。その全てが許せなかった。
「信じられないと思うけど、事故に遭って意識が戻らない中彼に会ったの。あの人がいない世界に価値なんて見出せないから一緒に死にたいと思ってた。でも、生きる事を選んだ」
「…何でですか」
今もまだ、あの町に戻れば君がバス停の前で待っている気がする。堤防の上、灯台の中、路地裏に叔父の家、境内の裏で笑っているような気がする。けれど、それが現実ではない事を痛いくらい理解している。もう会えない事も充分分かっている。
「私が生きていれば、あおいは生き続けるから」
戻ってきてから君の名前を呼ぼうとはしなかった。返事が返ってくるかもしれないといらない期待を抱いてしまうからだ。しかし今、君の名を口にしても、隣にいる気配がしても、返事はどこからも返って来ない。その現実に思わず自嘲気味た笑いを浮かべてしまった。
「全部を否定してやりたかった。嘘も作り話も、世間もそれに踊らされた民衆も、酷い言葉の数々も、その全てを最低だって言って否定したかった。あおいの人生は月明かりのようなものだったって言ってやりたかった。でも、それを言えるのは私しかいない。私が生きて戻らない限り、あおいの死は美しい死だって誰かに食い物にされる。だから生きようと思ったの」
「…否定しましたか」
「してる最中。この絵本の後はエッセイでも書こうかなと思ってる。私が見ていたあおいの本当の姿を、食い物にしてる連中に見せてやろうと思って」
「好戦的」
ようやく口角が上がった彼の笑顔はどこか君に似ていて私は目を細めた。
「他人の悲劇は常にうんざりするほど月並みである」
「え?」
「オスカー・ワイルドの言葉。私この言葉が好きなの」
ボロボロの絵本を開きながら描かれたつきを撫でる。つきはいつも、よるを照らしていた。
「私もあおいが死ぬまでは他人の悲劇は有り触れたものだと思ってた。人なんていつか死ぬし、それがたまたま早かっただけ。自分には関係のない話だと思ってた」
当たり前に隣にいてくれるものだと思っていた。明日も明後日も、今日に至るまで、ずっと隣で笑っているものだと思っていた。
「でも自分が他人の立場になって初めて気づくの。世界がどれだけ冷たくて、世間はどれだけ有り触れていると言い嘲笑うのか。私にとってあおいはたった一人の愛した人だった。でも、周りはそうじゃない。だから人の死を食い物にするって、あおいが死んでから気づいたの」
世界は私たちに優しくない。世間は私たちを否定していたくせに一瞬にして態度を変えた。人間なんて信用性のない生き物だ。
「死が何か、何であおいなのかは答えが出ないままだよ。他の人が死ねばよかったとさえ思うし、何なら一緒に死ねたらよかったとも思う」
絵本を閉じもう一度彼に差し出した。
「でも、生きている意味は分かる」
「…意味は?」
「私が生きている限り、あおいは私の中で生き続けるから」
彼の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。服の袖で必死に拭いながらボロボロの絵本を受け取る。
「君が生き続ける限り、君の中で彼女は息をし続けるよ」
私は微笑む。あの頃の私が欲しかった言葉を、恋人を亡くし失意の彼へ送る。死者は私たちの死を望んではいない。いつか誰もが通る道だ。ゆっくりでいいと君も言っていた。私に後どのくらい寿命が残されているかは分からないが、少なくとも目の前の彼を泣き止ませるだけの時間は残っているだろう。
「良かったら聞かせてよ、君が愛した人の話」
彼は涙ながらに頷いた。
ああ、きっと。あの頃欲しかったのは話し相手だったのだ。同じような境遇の人に話を聞いてもらいたいだけだった。生きる理由を教えて欲しかった。
その後夜の帳が落ちるまで彼の話を聞いた。高校の時から付き合っていて身体が弱く今年の初夏に病で亡くなったらしい。所々自分と重なって君の顔を思い出した。泣きじゃくっていた彼は話終わった後、ありがとうと呟いた。私はどういたしましてと大袈裟に頭を下げてまた話をしようと言い連絡先を教えた。帰り際、彼の背中はどこか明るかった。
帰路の途中にある公園で紺碧の空を見上げた。歩きながら見上げれば、きっと君が怒るだろうから足を止めて空を見ていた。星々の間に一際大きな三日月が浮かんでいる。
「やっぱりあおいは月だよ」
届きもしない独り言を呟く。夏の生温い風が汗ばむ首に髪を張り付けた。
「そっちはどう?天国はあの町がいいな」
私の世界から月は消えてしまった。夜を照らすものはもう何もない。そう思っていた。
しかし、私の心の中に月は生き続ける。私が生きている限り、私の行く道を空から明るく照らしてくれるだろう。私は一人じゃない。
「遅くなると思うけど待っててね」
それだけ言って公園から出て家へと向かう道を歩き出す。
いつか、私の中で君が褪せてしまう日が来るかもしれない。思い出す事さえ叶わない日が来てしまうかもしれない。今は考えられないが、逃れられないのもまた現実だろう。私の中で、紙の上で君はまだ息をしている。変わらない姿で、あの夏に生きている。だから私は君を描こう。私の中の君が消えてしまうその瞬間まで、君を描き続けよう。描いた空想の上で君を生かし続けよう。だから、後数十年だけ見守っていてくれ。
あの夏で、待っている君に思いを馳せながら。




