「君が遺したもの」
八月の朝、冷房の効いた部屋で目を覚ます。広いベッドから抜け出して寝室の扉を開けた。リビングの照明をつけ、冷蔵庫から飲料水の入ったペットボトルを手に取った。キャップを開けながらカーテンを開ける。眩しいほどの朝日が目を眩ませた。
水を飲みながらテレビの電源をつけ、適当にチャンネルを回す。不意に目に入った特集に手を止めてキッチンに向かい朝食の準備を始める。テレビの中のコメンテーターが話をしている。私はパンを一枚手に取りジャムをつけて歩きながら口に入れる。カレンダーで予定を確認していると、コメンテーターの声がやけに耳に入ってきた。
『それにしても、月明かりのようだったとは意外ですね』
『コンテンツにされるのは嫌だったって、自分もしているのに失礼な話だと思いませんか?』
パンを飲み込みソファーに腰かけテレビを見る。彼らが論議しても意味のない議題を永遠に繰り返している様が滑稽に見えた。
『それは恋人特権ってやつじゃないですかね』
『死者に執着するのも何だかね』
「勝手に言ってろ、ばーか」
笑いながら水を飲んで立ち上がる。寝室に向かいクローゼットを開け服を選ぶ。やはり落ち着いた印象の紺色のワンピースだろうか。手に取ろうと思ったが白いワンピースを見つけたのでそちらをハンガーから外す。
鏡の前で一回転、ワンピースの裾がふわりと舞った。私は一度頷いて髪を整え始める。メイクもばっちり、起きてから三十分で外に出る準備が出来た。帽子を被って家を出ようとした時、大切な忘れ物に気付いてもう一度寝室に向かう。ベッドサイドの棚に置かれた指輪を左手の薬指に嵌める。少し大きなそれを直す気はなくて、上から持っている指輪で重ね落ちないようにする。
「これでよし」
玄関に向かい靴箱の上に置かれた写真をひと撫でする。そこには君と私が笑っていた。
「行ってきます」
事故に遭ってから一年が経った。幸いにも一命を取り留めた私に待っていたのは、君のいない世界と、大切な人たちの涙、そして悲劇のヒロインとして世間に扱われる事だった。恋人を亡くした悲しみにより自ら命を投げ出そうとしたが、何とか一命を取り留めたと、ニュースは連日報道し続けた。叔母や父、君の母親は私を庇おうとしたが、私は世間の声を一蹴した。
『いえ、ただ前を見てなかっただけです』
インタビューに来た記者は唖然としていた。しかし、私は臆することなく話し続けた。
『子供の頃、横断歩道は左右確認してから渡れって言われたでしょう?いくら青信号であっても突っ込んできた車に気付けなかったのは前を見てなかっただけです。それ以下でもそれ以上でもありません』
横断歩道を渡る時はちゃんと確認する事と君に言われたのを思い出す。この一年は気を付けていた。いつ何が起こるか分からないから、安全確認は怠ってはいけない。
怪我が治って間もなくして、私は叔父の絵の続きを描き始めた。捨てた画材を再び買う所から始め、毎日机の上で空想を描き続けた。君がいなくなった部屋は広く感じたが、以前のような寂しさを感じる事もなかった。
あの夏の日々を詰め込んで、君への想いを形にした空想は多くの人から評価を得た。賞を受賞し、話題になり、君を描いた空想は多くの人に届いた。今まで否定的な意見を送ってきた世間はいつの間にか、称賛の声に変わっていた。恋人を亡くしたのに、その想いを綴るなんて素敵だとか、だからこそ前を向いて歩いて行かなくては、などと偽善にまみれた声が届いた。ありがたいけれど、何かあれば一瞬で否定的な言葉に変わるだろう。私はそれをよく知っていた。
そして本が世に出た日、私は一人で家にいた。この部屋から引っ越すか迷っていたのだ。家賃が払えないわけではない。しかし、一人にしてはこの部屋は広すぎる。手放そうか迷っていた時、不意に君が言っていたベッドサイドの棚の事を思い出した。
こちらに戻ってきてからは忙しく、その言葉すら忘れてしまうほどに描く事に没頭していた。ようやく一息ついてから、そういえばそんな話をしたと思い出したのだ。君には悪いと思っている。
ベッドサイドの棚の一番下、君が言った通りその場所を開ける。中には紙袋が入っていた。ブランド物の袋だ。中身は軽い。一瞬で中身に予想がついてしまった私は神袋を抱きしめる。そして袋の中身をベッドに転がした。
中には正方形の小さな箱が入っていた。ああ、当たってしまった。一緒に入っていたカードを見れば購入日が書かれている。それは私たちの関係が世間に広まる一日前だった。
箱を開ければシンプルなプラチナの台座にダイヤモンドが一つ収められていた。内側には私の名前が彫られている。指に嵌めれば少し大きくてサイズを間違えたのだという事が分かった。
「そっか」
シーツに染みが出来ていく。指輪を握りしめて笑いながら涙を流した。嬉しさと悲しさが入り混じってどうしようもなかった。愛おしさが込み上げていく。もう会えないのは分かっている。自分で選択したのに、後悔してしまいそうだった。
出会ってから随分と長い時間が経った。いつかそんな日が来ればいいと思っていたけれど、今すぐではなくても良かった。一緒にいられるのならそれで充分だった。人生はまだ長いから、いつか君とその幸せを共有出来ればいい。けれど、もう叶わなくなってから身に着けた指輪に涙が止まらない。
君の未来にはいつだって私が存在していた。私の未来にも同じように。それが堪らなく嬉しくて、君の手から受け取る事が出来なかった悲しみがこの心に穴を空けようとした。
そして、部屋を手放すという選択を捨てた。
会場に着いた時、私の気持ちはこれでもかと言うくらい高ぶっていた。緊張と不安と期待が入り混じった、何とも言えない精神状態だ。心臓は先程から大太鼓の音のように鳴り響きビリビリと身体を強張らせている。しかし、帰るわけにはいかない。薬指に嵌めた指輪を握りしめて歩みを進める。そこは大きな書店だった。
店員に案内され特別ブースに連れていかれる。道中、見えた本の山に足を止めた。
『涼風よる期待の新作!絵本大賞受賞作!自身と恋人を模した物語に感動!』
よるとつきのものがたり、と描かれた本が至る所に置かれていた。店内のポスターにも、君が生きていた。
今日はサイン会だった。絵本が出てから初のイベントである。深呼吸をして何度もサインを練習した。大丈夫、やれるはずだ。帽子を脱いで髪を整える。緊張をほぐすため無駄に身体を動かしてみるが、関係者に不安そうな目で見られたので大人しく席に着いた。
開始十分前、私は不安で仕方がなかった。多くの人に届いた。それは認める。けれど会いに来てくれる人はいるのだろうか。また批判をされるのではないだろうか。酷い言葉を言われたらどうしよう。怖くなって仕切りの向こう側を覗く。そこには私の予想以上に人が溢れかえっていた。
「うそ…」
「皆先生のファンですよ!こんなに来てくれるなんて大成功ですね!」
盛り上がる編集さんの言葉に驚いたままの表情で頷く。子供からお年寄りまで、様々な世代の人たちが並んでいた。皆絵本を手に、嬉しそうな顔でまだかまだかと順番を待ち侘びている。それを見て、涙が出そうになった。
『よるの手には神様が宿っている』
白昼夢の中で言った君の言葉が脳内を反響する。
「全部、あおいのおかげだね」
君がいれば、違うと言いそうだ。よるの力だよと笑いそうだ。すぐ横に、その気配を感じられた。
「サイン会始めます」
店員の言葉に仕切りの向こうの人たちが拍手をした。それを聞いて目を閉じる。世界が大嫌いだった。世間を、全てを否定したかった。けれど、私が思っているよりも人は優しかったのかもしれない。
沢山サインを書いた。他愛もない話をしながら、一生懸命練習したサインを書き続けた。温かい言葉を沢山貰った。あの日の私たちに欲しかった言葉の数々だった。




