「不器用。でもそれがどうしようもなく好きだったのを思い出した」
瞼の裏に光が差し込んだ気がした。どこかから小鳥のさえずりが聞こえて蒸し暑さが身体を襲った。右手を動かせば柔らかい感触、目も開けられないまま枕元に置いているスマートフォンを探すも見つからない。おかしいと思い目を開けばフローリングではなく、畳が映った。
そういえばここは自宅ではなかったと寝ぼけた頭で思い返す。そりゃあ枕元にスマートフォンはないはずだし、アラームは鳴らないはずだ。
それにしてもよく眠れた。首を回して欠神する。息を吐いて隣を見た時、眠る前にいたはずの存在がいない事に気付いて慌ててベッドから飛び降りる。ドアノブに手をかけ足音なんて気にも留めず廊下を走った。台所から音が聞こえて、急いで中に飛び込んだ。
「うわ、びっくりした!!」
台所の区切りとしてつけられた暖簾が、私が飛び込んできた衝撃により音を立てて落ちる。中には鮮やかな花柄のエプロンをつけた君がフライパン片手に何かを作っていた。そのエプロンが酷く似合わなくて、そういえば三年前も私のエプロンを着けて似合わなかったことを思い出してしまった。君はガスを止めてフライパンから手を離し私の顔を覗き込んだ。
「いなくなったかと思った」
服の袖を握りしめて君の目を見る。長い睫毛の奥に隠された目が揺れた気がした。君は私の手を握って私の額に自分の額を合わせた。
「いなくならないよ」
君のその言葉を信じられない私がここにいる。
「朝ご飯作ろうと思って。よるみたいに上手じゃないけど」
盛り付けられたスクランブルエッグは少し焦げていて不格好だった。透明なガラスのお皿に盛られたサラダのトマトは上手に切れなかったのだろう。潰れてしまっている。君は昔から手先が不器用で、人が一度で出来ることを何度もやらないと出来ない人だった。
「進歩してないね」
笑いながら壊れた卓袱台に恐る恐る料理を乗せていく後ろ姿が変わらなくて、自分だけが歳を取ってしまったことに気付く。君だけを置いて、歳を取っていく自分が嫌だった。それに気づかされることも嫌だったけれど、ここではもう、歳を取ることはないんだと安堵した。君を置いて醜く老いていくことは、この世界では起きない。
「昔は忙しくて出来なかったからさ、やりたかったんだよね。よるがやってくれてたこと」
君はエプロンを外して私の手を取り座布団を敷いた上まで誘導する。座れば君が向かい側に胡坐をかいた。何気ない日常の一コマが簡単に実現されてしまい困惑してしまう。
「あ、そういえば言い忘れてた」
「なに?」
「おはよう」
三年前まで当たり前に口にされていた挨拶が耳に届いた瞬間、再び涙が流れたのが分かった。君は困った顔をして笑うから、早く涙を止めたくて必死に手で拭い続けた。
「いただきます」
箸を手に取り急いで食事を口に運んだ。久しぶりに口に入れた君の手料理は苦くて、少しだけしょっぱかったのは、多分涙のせいだ。
「おいしかった?」
顔色を窺うように覗き込んできた君に、正直においしくなかったと告げれば声を上げながらだよねぇと緩い返事をした。
「やっぱり一朝一夕では上手くいかないね」
「でもパンはおいしかったよ」
「それトースターで焼いただけだもん、三分間ってよるよく言ってたじゃん」
悔しそうにうなだれる君を見て幸せだと思ってしまった。焦げたスクランブルエッグも、なぜか食感が変わってしまったレタスの入ったサラダも、インスタントであろうスープも、綺麗に焼けた方を私の皿に盛りつけて少し焦げてしまった方を自分の皿に乗せたトーストも。全部、君の愛で溢れている。下手なのは今に始まった事ではないし、何でも器用にこなせる人ではない事も、ずっと前から知っているから文句は言わない。私のために作ってくれた。それだけで充分だった。