「聞こえたのは懐かしい音だった」
分からない事ばかりだ。君も私もこの町も。あと何日ここにいられるか分からない。記憶が戻らない限りい続けられるのかもしれないし、戻らなくても帰らなくてはいけないのかもしれない。目が覚めたら君のいない現実が待っているかもしれない。
君のいない現実なんて月明かりのない暗闇をもたらす夜と同じだ。希望なんて一ミリも見えない。生きる意味すら見出せない。夜は月が存在して初めて輝くのだ。一人だけでは輝く事が出来ない。息をすることは出来ても死んでるのとそう大差はないだろう。
月明かりは海の底まで差し込む。夜も照らして海面も照らす。きっと今日も月が空に輝いているから海には月明かりが反射して海面に道を作るだろう。その道を沿って歩けたなら楽なのに。そしたらもう、君と離れなくて済むはずだ。
そんなことを考えながら背を預けた扉に耳を当てる。微かだが、何かの音が聞こえた。窓が開いているのだろうか。カーテンが壁に当たる音かもしれないと思い集中する。しかし、それにしては小さくはためく布の音ではない。縁側に吊るされた風鈴の音が、止まない蝉時雨が邪魔して音を聞き取れない。次第に強くなっていく蝉時雨はまるで聞くなと言わんばかりに遮ろうとする。
それでも耳を澄ました。扉に片耳をぴったりと密着させ目を閉じる。
聞こえてきたのは何かを動かす音だ。いや、違う。何かではない、鉛筆だ。鉛筆を動かす音が聞こえる。芯を横にした時に聞こえる、シャッシャッという音だ。何かを書いている。書いているのか、それとも描いているのか。誰もいないはずの部屋から聞こえた音に恐怖を抱き耳を離す。震える右手で数回扉をノックする。しかし、返事はない。もう一度耳を当てればもう何も聞こえなかった。
「意味が分からない」
今のは幽霊の仕業なのだろうか。数時間前に訪れた灯台から連れて来てしまったのだろうか。頭を抱え扉を見るも、自分自身が幽霊みたいなものだと思い出し扉に額を預けた。見えないものに恐怖を抱くのは昔から変わらないが今は自分がそちらに片足を踏み込んでいる事を忘れていた。
「半死に状態」
どうせならいっそ死ねればいい。中途半端に生きるのが何よりも辛いのを知っている。死んだように生きるのと死ぬのなら後者を選ぶだろう。
私は何を忘れて何を思って何を抱いていたのだろう。自分の事なのに自分が一番分からないなんて笑い話だ。君の方が私に詳しい。今の私ではなく、君の知っていた私だが。
「思い出したくはないけど、気になりはするんだよね」
花火大会の話、仕事、君が死んだ本当の理由、この夏があとどのくらい続くのか。多分、永遠ではないのだ。いつか必ず終わりが来る。この夏も永遠ではない。思い出せもしないくせに、長続きしない事だけは不思議と頭が理解している。だからこそ、現実から目を背けこの夏が永遠であると錯覚しようとしているのかもしれない。
明日は一体何が起こるのだろうか。遠くから私を呼ぶ声が聞こえた。きっとお風呂あがりに私の姿が見えなかったから君が探しているのだろう。勝手にいなくなることはないのに、心配性なのは相変わらずだ。私は口角を上げ立ち上がる。そして声の聞こえる方へ駆け出した。




