「幸せが当たり前になっていくまで、どのくらいの時間がかかるだろう」
帰り道、コンビニに貼られたポスターに目を奪われ足を止めた。夏は頭上に存在し続けている。どこもかしこも夏一色に染められた街は今日も人が絶えない。ショッピングモールに浴衣が売られ始めたのはつい最近のことである。
まだ慣れない帰り道を歩きながら周りを見渡す癖がついてしまったのは君のせいだとも言える。都内一等地に建てられたオートロックのマンションに慣れる日が来るのだろうか。多分一生来ない気がする。しかし、人間は適応能力の高い生き物だ。きっと後半年も経たないうちに慣れてしまうのだろう。エントランスに足を運んだ瞬間安堵を抱くのもすぐ無くなる。無くなってほしいと願うばかりだ。私だって毎日毎日緊張し続けていたら気が持たない。
二十歳になった年、一緒に住もうと言い出したのは君だった。出会ってから十二年。付き合い始めてから二年。その選択に反対はなかった。君の仕事が忙しくなり始め会う時間が作れなかったからだ。幸いにも君の事務所は恋愛に寛容であったし私自身も稼ぐ術を身に着けていたから許可されたのだろう。
共同生活を送るようになって三ヶ月が経った。世間のカップルは共同生活を始めて互いの嫌な所が目に付くようになったとよく言うが、私たちにはあまり関係がなかった。もう随分前から互いのことを知っているのだ。今更引く事もない。強いて言うなら玄関の鍵を閉めようとしないくらいだ。いくらオートロックと言えど家を出る際に確認もしないのは怒った。危機感が欠落している。これには頭を抱えていたがそれくらいである。
一緒に住むようになって良いと思った事は、毎日顔を合わせる事が出来ることだろう。今までは距離もあって頻繁に会う事が出来なかった。付き合い始めてからも予定が合わず、一か月以上顔を合わせなかったことも多々ある。だから、今この状況がとても幸せなであるのは身に染みて実感している。
反対に良くない所は喧嘩をした時逃げ場がない所だろうか。人間だから喧嘩をする事もある。君は温厚であるが頑固だし、私も私で譲れない部分が多い人間だったためぶつかり合う事があった。この前一緒に住み始めて初めて喧嘩をしたが、逃げ場がない事にとても困った。捨て台詞を吐いて帰れれば良かったのだが、私の帰る場所はここになってしまっている。だから寝室に籠ることしか出来ないのだが、結局すぐ顔を合わせる羽目になる。一緒にいるからこその難点だろう。しかし、それ以上に共同生活を送る事が出来る幸せが大きいのも事実だった。
エレベーターに乗って各階三部屋ほどしかない高級マンションの八階まで上がる。このエレベーター内で著名人と遭遇する率が高すぎるので、いつも緊張してしまう。今日は誰も乗って来なかったので安心しながら部屋まで辿り着く。鍵を開けて扉を開いた時、今朝消したはずの電気がついていて玄関に見慣れた靴が置かれていた。鍵を閉める音と同時に廊下の扉が開いた。君が笑顔でこちらまでやって来るから私も笑顔で手元の荷物を差し出す。
「そうなんだけどそうじゃない」
私の手から荷物を受け取った君は自分の靴を端に寄せた。その隣に履いていたサンダルを揃える。
「帰ってくるの早くない?」
「今日の撮影、思いの外早く終わって」
腕時計を見れば午後四時だった。夕方と呼ぶにはまだ早い。空には太陽が昇り続けたままである。荷物をキッチンに置いて冷蔵庫にしまい始めた君をよそに手を洗う。そうすれば君が何かを思い出したかのように声を上げたから、蛇口を締め、顔を向けた。
「何?」
「言い忘れてた、おかえり」
そうだ。一緒に住み始めて良かった事はもう一つある。それは何気ない挨拶が日常の中で当たり前に存在してくれる事だ。
「ただいま」
微笑み返せば君は嬉しそうに目を細めた。
「夏のデート特集?」
「そうそう。それの撮影で浴衣着たんだよね」
夕食後、今日あった出来事を話すのは子供の頃からの日課になっていた。電話から実際に会って話すようになった。していることは当時と同じだが顔を見て話せる分、相手の反応が直に分かるのは良い事だった。
「そういえば帰りにポスター貼ってたの見たよ」
帰り道に貼ってあった花火大会のポスターを思い出す。都内で一番と言っていいほど人が押し寄せる大きな花火大会だ。昔行ったことがあるが身動きも取れなくて大変だったのを憶えている。




