「帰り際が寂しかった。いつだって君を置いていく」
「線香花火をしよう」
午後三時過ぎ、庭先の向日葵にホースを使って水をあげていた私を呼んだ君は、どこから見つけたのか分からない、埃の被った花火セットを手に持っていた。花火という単語に何かが引っかかったが、特に気にすることもなくホースを持ち直した。
「唐突」
「いいじゃん」
「まだ明るいけど」
「夜にやろうよ。机の上に置いておいたら忘れなくない?」
居間に置かれた卓袱台の上に埃の被った花火セットを置いた君は満足気な顔をした。よくもまあ、食事を取る場所に埃の被った物を乗せられるものだ。後で卓袱台の上を拭いておこうと決め、庭先に目を向けた。向日葵は太陽の光を反射し、目が眩むほどの光で輝いていた。
庭先にある水道の蛇口を締め水を止める。ホースの中に残った水を桶に溜める。後ほど家を出る時に打ち水として使用しようと決め、縁側に置いた。桶の半分ほど入った水は揺らめいて、吊るされた風鈴を映し出していた。
靴を脱ぎ屋根の下へと移動する。濡れた手を振り回せば水気は一瞬にして飛んで行ってしまった。居間に転がしていた麦わら帽子を手に取って頭に被る。薄水色に水彩柄の絵がプリントされたワンピースのリボンを結びなおして頭を抱えた。行きたくないのは山々だが、それを許してはくれないのが君だ。一度私の記憶を取り戻すと言えば戻るまで徹底的に行動する人だ。
玄関の引き戸を抑えていてくれた君に礼を言い外に出る。こちらに来て三日目。一番と言っていいほど暑い日かもしれない。坂道を下りながら空を眺めた。遠くに綿菓子のような入道雲が一つだけ浮かんでいた。夏の象徴だ。息が出来ないくらい美しい青の中に浮かぶ雲は幾度となく夏を教えてくれた。空の眩しさに目を細める。前を歩き始めた君の背を追いながら、帽子のつばを下げて太陽から目を背けた。
今日は乗り気じゃなかった。君にとっては楽しい思い出の地であっても、私にとっては子供の頃に泣いた記憶がある場所だからだ。坂道を下りきっていくつかの角を右に曲がる。郵便局に設置された赤いポストを目印に曲がれば、海岸前のバス停が目に入る。片側一車線の向こう側、古びたトタン屋根が潮風に晒されて劣化していた。錆びたバス停は辛うじて駅の名前を表している。屋根の下には背もたれに広告がプリントされた青いベンチが一つだけ置かれていた。バスは来る気配もなかった。
「バス停懐かしいね」
左右を確認して信号がない横断歩道を渡った。バス停に辿り着いた君はそんなことを言いながらバス停の背後にある白い柵にもたれかかった。隙間から海が見えて、空の青さと境界線を失い君が溶けてしまいそうだと思った。
「子供の頃、ここでよるとばいばいするのが嫌だったんだ」
午後三時二十分発のバス、さよならをするのはいつもその時間だった。この町から帰る時、一時間に一本しかないこのバスを待った。私が小学生の時は叔父と叔母が共に乗ってくれて電車の駅まで見送ってくれたが、中学生になってから二人とのさよならは家の前だった。君が家の前まで迎えに来てくれたからだ。叔父たちが気を利かせたのだろう、バスを待つ間は二人だけの時間になった。バス停で二人、ベンチに座り次の約束をしながら他愛もない話をした。さよならまでの時間を惜しむように明るく振舞った。バスなんて来なければ良いと思っていた。
結局バスは時間通りに着いてしまう。私は別れの言葉を言ってバスに乗り、君は寂しそうに笑って見えなくなるまで手を振ってくれた。その度に、後何度この別れを経験しなければいけないのかと思った。駅に着いたらすぐ連絡するくせに、バスに乗る瞬間だけは永遠の別れに感じてしまったのだ。
「見えなくなるまで手を振った後、いつも肩を落として家に帰った」
君が思い出話に花を咲かせる。当時の自分の様子を真似して肩を落としながら歩く。その姿が面白くてつい笑ってしまった。
「三十分くらいで駅に着くじゃん?だからすぐ連絡来るの分かってるのに、さよならの時間はいつも悲しかったね」
私も、と口には出さず首を縦に振る。どれだけ連絡を取っていようが、年に三回会えるか分からないくらいの関係だった。次に会う時は前の君と違う。成長して別人になってしまうかもしれない。同じように話せるか不安だった。
バス停を通り越して歩き始めた君の背を追いながら横目で海を眺めた。太陽の光が反射してキラキラと輝いている。どこを見ても眩しい世界に鼻を鳴らした。
私の気持ちとは裏腹に、この町の夏はいつだって眩しいままだ。太陽に向かって咲く向日葵も、空に浮かぶ入道雲も、反射して煌めく海面も、アスファルトも、標識も、君の背中も。全てが全て、今の私には眩しすぎる。目が眩んで胸を締め付けられる。子供の頃の私たちはこんな炎天下の中をよく走り回れたものだ。目的もなく日が沈むまで探検したものだ。君と一緒だから出来たのだろう。私一人だったら確実に外に出なかった。今も昔も変わらず、君がいるから私は歩き出すのだ。




