「記憶のまま変わらない家に、開かない部屋が不思議だった」
生きていてほしい。そんなものはエゴだ。私の気持ちを何一つ考えてくれない酷い言葉だ。君のいない現実が、君の人生がコンテンツにされたのをただ見届けるしかない自分がどれだけ辛いか分かるはずもない。だって先に死んだのだから。何も言わず消えたのだから。さよならすら言えないまま、ずっと遠い所に行ってしまった人が今更何を言うのだろう。愛する人と再会できた喜びの後私を襲ったのは腹立たしさだった。
茶褐色の廊下は歩く度に軋んだ音を立てる。薄い和紙が貼られた障子から月明かりが漏れていた。ゆっくりと開ければ縁側があって、塀の高さと同じくらいの向日葵が咲いていた。空に浮かんでいる月は満ちていて、白く淡い黄色だった。チリンと聞こえた音の方向に顔を向ければ、屋根の下、赤い金魚が描かれた風鈴があった。縁は青く切ない音を鳴らしていた。もう一度、風鈴が鳴れば風が吹いて蝉時雨が聞こえ始めた。高く鈴のような音に、そういえばこの町はヒグラシが鳴いていたことを思い出す。晩夏の夜はまだ暑く、けれど湿度の高さは下がっていたので汗ばむようなことはなかった。
全部、記憶の中にある叔父夫婦の家だと思った。そもそも、これは私の白昼夢なのだから、そうでなくては困ると思ったが、ここまで細かく再現されているとは思いもしなかったし、ここまで細かく憶えていた自分にも驚きが隠せなかった。
月明かりを背に見た居間には神棚がある。歩いて五分の所にある和菓子屋さんの羊羹が包装されたまま置かれていた。卓袱台の足は壊れていてガムテープで修正されている。座布団には染みがついていて、昔私がアイスを零した事を思い出した。テレビ台の上に置かれた小さな招き猫の置物。祖母の写真。全て、子供の頃見たままで時が止まっていた。
台所に足を踏み入れれば古い食器棚が目に入った。ガス口のコンロが三つ。流し場の水はお湯に変わらなかった。使われていたまな板や包丁が、棚の上に収納されていた。
カチカチと音が聞こえて頭上を見れば、これまた古い時計が時間を進めていた。短い針は二を指している。今は夜中の二時なのかと思いながら、時間の概念があるということに驚かされた。まあ、何が起きても不思議ではないけれど、それでも日が経つということがあるのか。カレンダーは八月だった。家を出る前に出たカレンダーを思い返すがそれも八月だったので日付に大差はないだろう。ヒグラシが鳴いていたことと、私がこの家に来ていたシーズンを考えれば多分、八月の終わりだ。
冷蔵庫の中を見れば食材が入っていて、昨日まで誰かが住んでいたかのようだった。しかし、実際にはこの家に人の気配を感じないから、これも私の記憶が生み出した産物なのだろう。
玄関は引き戸で、誰でも入ってくることが出来そうな警備の薄さだった。靴箱には何足か靴が入っている。ウェッジソールの白いリボンが足首についたサンダル、エメラルドグリーンに白い靴ひもがついたスニーカー、黄色いビーチサンダルは間違いなく私のものだった。現実世界でしばらく履いていなかったそれを履けばサイズはぴったりだった。
残りの靴にも見覚えがあった。全部、三年前まで玄関に並んでいた君の靴だった。そんな所まで再現するのかと少し嫌になったが履物に困ることはないから良いだろうと目を伏せた。この調子だと先程いた部屋にあるクローゼットの中にも、私や君の服が入っているだろう。とりあえず生活には困ることはないようだ。
お風呂場にトイレ。記憶のままで変わることのない水回りはしっかりと機能するようで、これもまた、ここで過ごすには困らないと考えてしまった。
廊下に戻り先程いた部屋とは反対、突き当たりまで歩く。私の記憶ではこの家に部屋は三か所あったはずだ。先程目を覚ました部屋と、その隣にあった叔父夫婦の寝室。そしてこの先。扉が見えてドアノブに手をかける。しかし、なぜかそこは開かなかった。
「あれ?」
何度も手首を捻って開けようとするが、ガチャガチャと金属音を鳴らすだけで一向に開かない。
「どうしたの?」
私の後ろについてきていた君が口を開く。先程までこの家の中を探索していた時は声をかけてこなかったのに。
「この部屋、開かない」
「何で?鍵がかかってるのかな」
私の前に出てきた君はドアノブに手を回すが扉は開かないままだった。
「私の白昼夢なのに?私、この部屋の鍵がどこにあるのか知らないよ」
困ったものだ。君が言ったようにこの世界が私の白昼夢なら、鍵の在処を知っているのは私だろう。しかし、全くもってどこにあるのか分からない。この家のどこかにあるのだろうか。一通り見たがそれらしいものはなかった。
「そもそもこの部屋って何があったっけ」
私の言葉にドアノブに添えた君の手が下ろされる。何かおかしなことを言っただろうか。君は振り返り「本当に?」と言った。
「何が?」
「この部屋、憶えてないの?」
その表情が驚愕を浮かべていたから思わず考え込んでしまう。そんなに驚かれるようなことだろうか。記憶の中の家だ。実際とは違っているだろうし、そもそも現実世界で最後に訪れたのはずっと前だ。この部屋に何があって何をしていたのかを忘れていてもおかしくはなかった。
目を閉じて考えるが何一つ思い返せない。記憶にもない。
「憶えてない。大事な部屋だった?」
一瞬。目の前の君は酷く寂しそうな顔をして笑った。その表情が三年前、君が死ぬ直前と重なって怖くなり腕を掴んだ。君は驚いて肩を震わせたが、そんなことを構いもせず私は腕にしがみついた。
「どうしたの?」
「どこにも行かない…?」
「どこにも行かないし、行けないよねこの状況は」
しがみついた私を抱きしめた君は背中を数回叩いた後腕に力を込める。すると私の足が突然宙に浮いて、抱きかかえられたことに気づいた。
「ちょっと!何してるの!?」
「戻ろう。もう真夜中だし続きは起きてからにしよう」
「そうじゃなくて!!」
重いのではと考えて暴れるも君は平気そうな顔で歩く速度を速めるから、私はその首に腕を回し落とされないようにしがみついた。縁側を横切った時、月明かりが目に入って眩しくて目を細めた。
「どこにも行かないから安心して」
その表情は見えなかったけれど、返事の代わりに抱きしめる腕に力を込めたら君も同じように返してきた。
そこからベッドに入って君に抱きしめられたまま目を閉じた。目を開けた瞬間、いなくなったらどうしようと何度も瞬きを繰り返したが、その度に君が平気だと言って抱きしめるから、私はその温もりに安心して深い眠りについた。