「初めてあの町に行かなかった夏の話だ」
新生活に慣れようと懸命に駆けた春はいつの間にか過ぎ、夏休みがやってきた。単位は一つも落とす事なく取得し、評価も高く我ながら鼻を鳴らした。大学に入ってから出来た友人たちは、私の成績を見て来期は私のノートが高く売れると言っていた。大学生活は思っていたよりもずっと楽しく平和なものであった。友人たちと遊んだり授業を受けたりくだらない話で盛り上がって夜を明かす日もあった。高校時代よりもずっと親密に、しかしお互い依存し合わないという関係性は私たちが大人の一員に片足を入れたからなのだろう。
気づけば君と連絡を取らない日々が続いていた。今年の夏は来るのかと叔父から来た電話に二つ返事で頷く事が出来なかったのは君のせいでもあるのだろう。
結局、子供ながらに抱いた幻想は形を成してはくれそうになかった。遠くなっていく君を、私はただ見ていることしか出来なくなった。隣に立つ事も、誇れる自分になる事も難しくなり始めていた。子供の頃に描いた夢は形になりそうもないが、それだけでも叶えたかった。
しかし、ここで私が考えもしなかった出来事が起きる。
八月の夜、蒸し暑い部屋の中でエアコンを叩いていた。つい先程、謎の音を出して止まってしまったエアコンはランプを点滅させ仕事を放棄した。
「嘘だ、嘘だ、それは駄目だよ」
現実を受け入れられず何度もエアコンを叩く。子供の頃、これでテレビを直した叔父を見たからだ。椅子に乗り何度も叩くがエアコンはうんともすんともしない。遂にはランプが消えてしまい、一切動かなくなってしまった。
これには私も絶望した。夜と言っても季節は真夏だ。窓を開けても風は一ミリも冷たくない。実家から持ってきた扇風機を押し入れの中から出し、コンセントを入れスイッチを押す。一番強い設定にして風を回すが、エアコンの温度には叶わなかった。
「最悪だ」
時刻は午後九時。蝉時雨が部屋に鳴り響いている。絶望が苛立ちに変わり蝉に向かって叫んでやりたくなった。シャワーを浴びる前の髪を一つに束ね、高い位置で結ぶ。何とかして涼を得ねばならない。そう考えた私の脳にアイスの存在が浮かんだ。ショッキングな出来事は幸せで代替しなくては気が済まない。そう思い冷凍室を開けるが、一週間前に買ったアイスは一昨日やってきた友人たちに食べられ跡形もなくなっていた。
終わった。冷蔵庫の前で膝を抱える。ついてない日だ。一年に何日かは訪れる、アンラッキーデーだ。まさかこの季節にやってくるとは思わなかった。
「アイスが食べたいいいい」
廊下に転がればフローリングが冷たくて気持ちよかった。思わず頬をつけ部屋を見渡す。節電のため部屋の電気を極力つけない生活を送っていたため、目が慣れてしまったのか夜目が利くようになった。濃紺の部屋でカーテンが揺れている。白い扇風機は音を立てながら左右に動いていて、網戸の向こう側が明るく照らされている事に気付いた。四つん這いで赤ん坊のように歩きながらベッドに乗り窓の外に目をやる。
夜の空に白い月が光っていた。目の前の道を明るく照らしていて街灯がいらないくらいだった。月の近くには星が輝いていて夏の大三角形を見つけた。三点を指でなぞりながら、ふと、叔父夫婦の家を思い出した。
叔父夫婦の家にもエアコンは存在しなかった。古い家のためついていなかったのだろう。つけないのかと問うた時に、今更いらないと二人は言っていた。私たちがいかに文明の利器にお世話になっているのかが分かった瞬間だった。エアコンがなくても人は生きられる。ただ、生活しやすいか否かの違いだけだ。
あの家の居間には一台の扇風機が置かれていた。今私の部屋にある扇風機よりもずっと古いそれは、首の動きがぎこちなかった。子供の頃目の前に座り声を出して遊んでいた事を思い出す。振り返って同じ事をするか迷ったが、一人でやるようなものではないと冷静になって止めた。
結局、今年の夏はあの町に行かない事を決めたのに、思い出して行きたくなってしまうのは酷い矛盾だ。私自身が決めた事なのに、私の夏はあそこにあるのだと身体が理解してしまっていた。
財布と携帯電話、家の鍵を手に立ち上がる。適当なサンダルを履き玄関を出て鍵を閉めた。




