「大人になって変わったことと、大人になったから出来ることは対である」
「アイス」
「分かったって」
坂道を下りながら呟いた一言を聞いた君は呆れ笑をした。先程絵に描いてから、口の中がアイスを待つ体制を整えてしまった。
昔から、一度食べたくなるとその日中に口にしなければ済まない性分だった。昨今はコンビニエンスストアというものが出来たため大半の品物はそこで買えるが、たまにあるスーパーのお惣菜が食べたいとか、あのブランドのチョコレートが食べたいとか、足を運ばなければ食べられないものが食べたくなる時がある。そういう時は決まって君が買って帰ってきてくれた事を思い出す。
サービスエリアのソフトクリームが食べたいと呟けば次の休みに車を出してくれたり、子供の頃に食べたお菓子が食べたいと呟けば知らぬ間にレシピを探して作っていてくれた。君は私に酷く甘くて、私は君に酷く頼っていた。ただ、食べたいと呟いただけなのに行動に移してくれる君が好きで、同時に申し訳なく思った。
けれど君は構わないとよく言っていた。よるのために何か出来ることが嬉しいと曇りのない瞳で言った君に、私はあおいに何が出来てるの?と問いかけたのは一度や二度の話ではなかった。君はいつも数え切れないくらい沢山と言っていたが、終ぞその答えは分からないままだった。
今も君に我儘を言った自分が少し嫌になったが、君はそれを気にも留めないのだろう。
先程とは逆方向の住宅街に足を進め、エアコンの室外機が密集した狭い路地裏に入っていく。人一人通れるくらいの狭さを誇る路地裏だが子供の頃はもっと広く感じた。家と家が隣接している。壊れた自転車や空の植木鉢が転がった路地裏はまるで過去に繋がっているような雰囲気を宿していて、幼いながらに興奮したものだ。
しかし、大人になった今はどうだろう。頭に伸びた枝が当たりそうになり足元に転がっているガラクタに躓きそうになる。ここは窮屈であまりいい匂いはしなかった。あの頃美しく見えた場所は歳を取っただけで美しく見えなくなってしまった。
焼けるような熱さを腕に感じて見れば、ほのかに肌が赤くなっていて日焼け止めを塗り忘れたことに気付く。このまま焼けてしまうだろうか。シミになるから嫌というより単純に痛いから嫌なんだと思いながら熱くなる箇所を冷たい掌で包み込んだ。
「着いた」
声に反応し顔を上げれば一際古い家屋が目に入った。引き戸の前には白地だったはずの看板に所々剥がれた黒ペンキで文字が書かれている。『山田商店』と書かれたその名前を思い出して一人君の背中を見ながら納得する。君は引き戸に手をかけて扉を開けた。
開けた先には色とりどりの駄菓子が小さな部屋の中に陳列していた。壁には六十年代に流行ったドラマや映画のポスターが貼られている。床は赤土、教科書で見たような昔の日本家屋の台所みたいだった。奥には一段、段差があってそこから先は自宅に繋がっているのだろう畳が見えた。店番なんて存在せず、ただテーブルの上に募金箱のようなものが置いてあった。
『山田商店』は子供の頃よく来た駄菓子屋だった。店番は八十を超えるおばあちゃんで、お店にいない事も多々あった。いない時はお金を入れるための箱がテーブルの上に置かれていた。危機管理はどうなっているのだと来る度に思ったが、不思議とお金を払わず逃げ出す人も箱を奪う人もいなかった。それもこの家のおばあちゃんだから成せる業だったのだろう。
もうずっと前に亡くなったであろう彼女の名前を知らないまま私は大人になった。いつの間にか亡くなってしまった。何度もここに来て会話をしたのにも関わらず、『山田』という苗字しか知らないままだった。亡くなったことも人伝に聞いたので悲しいというよりは、ああ、そうだったんだとしか言えなかった。
懐かしいお菓子が並んでいて、手書きの値札が乱雑に貼られている。揚げたカツのお菓子、缶に見立てたプラスチックの入れ物に入ったラムネ、糸がついた飴、着色料がたっぷりの粉。今じゃもう口にしないようなお菓子が並んでいて懐かしい気持ちと共に心が高揚したのが分かった。一瞬だけ子供に戻ったような感覚だった。
大人になって良かった事の一つは、子供の頃食べたかったお菓子を心行くまで食べられる事だ。当時のお小遣いと社会人になった給料は全然違う。どれだけ買っても駄菓子の値段なんてたかが知れている。大人買いをする事が出来るのは、自分の手で稼げるようになった証だと思う。
そしてもう一つ。止める人間がいなくなった事だ。子供の頃は、夜ご飯が入らなくなるから一つだけにしなさいと言われた人も多いだろう。制限されもっと食べたかったのにと文句を言った思い出もある。けれど大人になった今は違う。全ては自己責任、多少の注意はされても止められる事はない。だから制限なしに好きなものを食べてしまう。子供の頃思い描いた夢はこうやって達成されるのだ。




