「君のいない夜は月明かりのない暗闇で、深い傷を残していった」
土の上に描くなんていつぶりだろうか。歳を重ねる毎に公園からは遠ざかり、地面はいつの間にか土からコンクリートになっていた。子供の頃のように道端に落ちた木の枝を拾って何かを描く事なんて、大人になったらしないだろう。
「そっか」
君は私の肩に自分の頭を押し付けて何度もこすった。髪が首に当たってくすぐったいと文句を言おうとした時、その頭が離れた。君は立ち上がって私に手を差し伸べる。その目元と鼻は赤かった。
「行こう」
「もういいの?」
初めて会った場所に行こうと言ったのは君だ。まだここに三十分も滞在していないしその時間のほとんどは落書きをして終わっている。君は私の後についてくるだけで他の場所を探検しに行ってもいない。
「いいの。分かったから」
「何が?」
「よるが変わってない事」
手に持っていた木の枝を椅子に置いて差し伸べられた手を取れば君は私の身体を引っ張った。勢いよく引っ張られた身体はバランスを崩し君の胸元に飛び込む。君は私の背に腕を回し抱きしめてくる。
「変わってないよ」
君が死んでから三年の月日が経ったが私は変わっていない。髪が伸びたり、体重が減ったりと容姿的な事に変化があることは仕方ないが、それ以外は全くと言っていいほど変わっていないだろう。君との思い出が詰まったあのマンションでほとんどの時間を過ごしていた。外に出ることもせず誰かに会う事もせず、ただ、あの部屋に引きこもっていた。あれだけ見ていたテレビもインターネットもメディアも何もかも、君が映るものから逃げて月日も分からない日々を過ごしていた。
君がいない夜は真っ暗で、月明かりは私を照らしてはくれなかった。君のいない朝を迎えるたび、あと何度夜を越えれば朝を迎えなくて済むのだろうと思う毎日だった。
君の夢を見るから眠れなくて、けれど君と過ごした部屋と別れを告げる強さもなく深い傷とジレンマの中で、生ける屍のような時間を過ごした。だから多少荒んだ事は置いておいて私という人間は大きく変わってはいないのだ。
「そうだね」
私を解放した君は歩き始める。汗染みが出来た背中に飛び込みたいなんて思うのは恋が成す感情だろう。
「さっきアイス描いてたけど、あのソーダアイスが食べたいの?」
「そう。もうどこにも売ってないけど懐かしくて」
宙に浮いた左手を掴んで自分の手と合わせる。指を絡ませれば君が力を入れて握ってきたから、私も力を入れて握り返した。
「あれいつから販売中止になったんだろう」
「分かんない。でも安いし食べやすかったよね」
「二人で食べる人が減ったのかな」
「そうかもしれない。分け合うならプラスチック製の容器に入ったやつを選ぶかも」
「あの割るやつだから良いのに」
「風情があったのにね」
話しながらふと、後ろを見た。参道を歩きどんどん本殿から離れていく。陰気な神社だと言ったが、私はこの雰囲気が嫌いではなかった。何か出そうな雰囲気でも怪しい空気でもなく、ただ静かでゆっくりとした時間が流れているこの場所は性に合っていた。
「でも、神様はいないだろうけど」
行きと同じ階段を下っていく。上りと違い辛くはなかったが、今度は落ちる不安に駆られて繋いでいない方の手でバランスを取りながらゆっくりと一段一段下っていく。全て下り終える頃には鳥居が見えなくなっていた。