「息を吐く度に思い出が溢れてくるのに、何を忘れてここにいるのか」
鈴を鳴らすこともなく本殿の壁沿いを歩く。裏手に回れば石で出来た二人掛けの椅子が一つだけ、ぽつりと置かれている。本殿の裏側は木々がなくぽっかりと穴が開いたかのように町を見渡せた。遠くに青い海が見えてカモメが一羽飛んで行った。住宅のほとんどは瓦屋根で一つ一つの敷地面積が広かった。まるで絵のような風景に目を細め、両手の親指と人差し指を使いカメラのピントを合わせるように片目を瞑った。片目で見た世界は酷くちっぽけでジオラマ模型のようだった。
「ここで会った」
両手を下げ君の声に反応する。石造りの椅子を撫でた指先が音を立てる。そういえばこの椅子の表面は磨かれていてツルツルだったことを思い出した。
「女の子みたいな男の子がここで泣いてた」
椅子に腰かけた君を見て私は笑う。初めて会った時と同じ、右側に座った君はあの頃とは別人だった。泣いてもないし膝から血を流してもいない。体格はすっかり成人男性だし声だって高くない。髪の色は黒くないし首だって太い。けれど恥ずかしそうに浮かべた笑みはあの頃と一つも変わっていなかった。
「そこは忘れていいよ」
「忘れられない。だってあんなにうるさく泣いてたもの」
静かになった蝉時雨が再び聞こえ始めた。あの時も蝉時雨がうるさかった。
「よるは小さくなった」
「あおいが成長したんだよ」
「早くよるの身長抜かさなきゃって毎日牛乳飲んでたからかな」
思わず口角が上がってしまった。子供特有の可愛らしい理由だ。私は空いた左側に座る。視線の先には相変わらず絵のような風景が広がっていた。
「よるに頼られる男になるんだって言ってお腹壊すまで飲んでた」
「馬鹿みたい」
「うん、馬鹿みたいだよね。そんなに頑張らなくても男女の体格差があるんだから大人になればよるの背なんて簡単に越せたのに」
大人になった私の背は女性の平均よりもずっと高い百六十五センチだ。子供の頃から頭一つ飛び抜けて高かったから、この結果は何となく予想がついていた。もう少し小さければよかったとは思うけど、君が私を軽々越していったから気にしなくなった。
「あの頃は一生懸命だったなあ。僕の周りの大切な人たち、よるとか母さんとかは皆僕より高かったから、早く大きくなって皆に頼られたかった」
「子供らしい理由だね」
「純粋な男の子だったんだよ、僕」
「まるで今が不純みたいな言い方」
「いやいや、不純ではないよ。ないよね?」
「あはは」
「笑って誤魔化さないで」
不純ではないだろう。今まで色々な人と出会ったが、こんなにも純粋なまま大人になった人は君くらいなものだ。勿論、大人になる過程で欲が生まれたり変わってしまった事はあるだろう。あの頃よりも純粋であるかと言われれば、多くの大人が否と答える。でも君の本質は、あの頃から一ミリも変わっていない。
「膝に擦り傷作って泣いてたね」
「今じゃ泣きもしないよ」
「私が包丁で指切った時泣きそうになってたじゃん」
「あれは!本当に指が取れちゃったかと思ったの!止血した後痛そうなのによるが危機感なんて一切ないままもう一回料理始めるから!」
「いけるかなって思ったんだよね」
「危な過ぎるからね。見てるこっちがハラハラした」
何気ない日常の一コマだった。料理をしていた際固い野菜を切ったら手が滑って指に一本切り傷を作ってしまった。思いの外血が溢れてきたので絆創膏を貼ろうと思っていたら、タイミングよく帰ってきた君に見られて大騒ぎになった。その後続きをやろうと思いキッチンに向かえば君に止められ、結局三日ほどキッチンに立たせてもらえなかった。過保護だ。
思い出が溢れて止まらない。息を吐く度に何かしらのくだらない一瞬が脳内を駆け巡る。こんなにも頭の中は君と生きてきた時間でいっぱいなのに、私は何を忘れてしまっているのだろうか。