「神様なんていない。この状況下でも私はそう言うだろう」
林の中から古い手すりが見え、懐かしい気持ちに襲われた。そこから見えた終わりの見えない階段に溜息を吐いてしまったのは言うまでもないだろう。炎天下の中、木漏れ日が階段にいくつも差し込んでいてその先に微かに見えた赤色をより幻想的に色付けている。
「よし、行こう」
「…了解」
意気揚々と階段を上り始めた君の手に引きずられるように歩き出した。階段の一段一段が大きい。私の一歩よりずっと広く、足を動かす度に息が上がっていく。幸いにも木々が日光を遮っているため直接太陽の下を歩くことはないが、それでも暑くてしんどいのは変わらない。
下を向いて石造りの階段を見ながら懸命に足を動かす。灰色の中に小さな小石がいくつも密集している。黒や濃い灰色の中にたまに緑色の石が混じっていて、日光に反射して川面の表面のように輝いていた。時折欠けた階段があって、君が気をつけてと言いながら私の手を引いた。見えているから大丈夫だと言い返そうとしたが、返事をする余裕もなかった。
終盤に差し掛かると、ほとんど君に引っ張られるように上っていたから私はまるで要介護人のようだった。それもこれも私の体力がないのが原因なのだが、二十代後半でこの階段を談笑しながら上れる人間は多くないだろう。
次の段が見えなくなって顔を上げれば、先程まで微かに見えていた赤の正体が鳥居だということに気付いた。後ろを振り返れば階段がずっと続いていてその先の道が薄っすらと見えるくらいだ。やれば出来るじゃん私と思いながら君を見る。君は汗を流しながらも平然とした顔で笑っていた。余裕そうなその表情に少し腹が立ったが、私の運動不足のせいなので文句は言えなかった。
「着いたね」
「凄い。もう帰りたい」
「昔は楽勝だって言いながら上ってたじゃん」
「何十年前の話してるの。子供の頃にあった底無しの体力はもう消えたよ」
「僕はそこまで辛くなかったけどね」
「一緒にしないでください」
家を出る前に鞄の中に入れた水筒を取り出して蓋を開け口をつける。冷たい麦茶が喉を潤していく。鼻に当たる冷気が気持ち良かった。麦茶が胃のあたりで冷たくなったのを感じ口を離した。一息入れて蓋を閉めようとした時、隣から伸びてきた手がそれを邪魔して私の手から水筒を奪い取った。勢いよく飲む君をみて、中身が無くならないといいと願った。
「生き返ったー」
「全部飲んだ?」
「飲んでないよ、三分の一くらい残ってる」
「飲み過ぎだよ」
君の手から水筒を奪って蓋を閉める。君はごめんと謝罪の言葉を口にしていたが、恐らく反省していないだろう。鞄にしまって帽子を被り直す。目の前にある景色が酷く懐かしくて目眩がした。
目の前には一本の参道。軽石が敷き詰められた砂利の中で石畳が目立っていた。左手にある手水舎の屋根は錆びついていて長い時間雨風に晒されていたことが伺える。柄杓が二つだけ置かれていて絶え間なく水が流れている。本殿は小さく、記憶の中と同じように人の気配を感じなかった。奥に一本だけ楓の木が植えられていたが、今はまだ夏なので葉の色は新緑であった。
広い公園くらいの敷地にたったこれだけ。これだけの建物しかない神社は昔から人が寄り付かず、辺りも林で囲まれているため陰気な雰囲気が漂っていた。
先程貸したタオルを取り出して手水舎に近づいた君を横目に一歩ずつ参道を歩き始める。サンダルが参道に転がった砂利を踏んで音を鳴らす。導かれるように本殿の前に立った。ささくれが目立つ木の賽銭箱の前、一体何人が触ったのか分からないくらい汚くなった鈴緒が目に留まった。麻で出来たそれは固く、決して手触りが良いとは言えない。上部に取り付けられた鈴は赤褐色で銅製である事が分かる。賽銭箱の先にある扉は閉ざされていて一体何を祀っているのか我々には分からない。人間如きが神の姿を見るなんて無礼なという意思さえ感じた。
「手洗わないの」
振り返ると君がタオルを差し出してくる。先程貸した私のものだがそれで汗を拭きまくっていたのを見ているため眉間に皴が寄ってしまった。
「今汚いって思ったでしょ」
「何で分かったの」
「苦い顔してたから。でも大丈夫ちゃんと洗ったよ」
「手水舎で?凄い無礼だね」
「手洗ってないよるに言われたくないんだけど」
「私はいいの。信じる神なんていないから」
君はタオルを広げて振り回し始めた。この天気だから乾くと思っているのだろう。乾いた所で帰ったら洗濯だよと言おうとしたが必死だったので口にするのを止めた。