「君も夏も、眩しくて眩暈がする」
目の前の固定電話は鳴らない。受話器を手に取って耳に当ててみた所で、誰かの声が聞こえることもなく耳障りな機械音だけが鳴り響くだけだ。憶えている番号は自分の電話番号、この家の番号、君の実家の番号、君の番号、父の番号くらいなもので。純粋に考えてどれも繋がらないであろう番号しか覚えてなかった事に呆れてしまう。現代に生きる人間なんてこんなものだろう。簡単に繋がる世の中になってしまったがゆえに記憶力を捨てた。便利さは時として人間の能力を低くする。
諦めて受話器を戻し部屋へと向かった。白木で出来たクローゼットを開けば見慣れた服がハンガーに沢山かかっていた。その全てが鮮やかな夏服で、少しだけ眩しく感じられた。
これは私が三年前まで好んで着ていた服だ。今の私には少々鮮やかすぎる。目が痛くなるようなはっきりとした色合いの服はないが、柔らかく爽やかな色合いは、間違いなく今の私の気持ちからかけ離れているだろう。その中で白いレースのワンピースを見つけたが見えない所に仕舞った。
どうしようかと迷って一番シンプルな紺色のシャツワンピースを手に取った。外は日差しが強いだろうが、机の上に置いてある麦わら帽子を被る気も起きない。面倒だ。全てが面倒だ。夏の暑さはこの部屋を侵食し始めていた。
着替えて再び居間に戻る。そこには電話台の上に置かれた置物をいじる君の姿があった。
「何してるの」
声をかければ振り返り照れたような笑みを浮かべている。半袖シャツに七分丈のパンツを履いたシンプルな格好だが、それでも絵になるのは職業柄といっても過言ではないだろう。
「この置物、小さい頃一緒に作ったやつだと思って」
君が指差したのは貝殻で作られた小さな動物の工作だ。貝殻を集めて木工用ボンドで貼り合わせただけの作品だが、叔父は味があると言って飾ってくれた。冷静になって思えば、あれは一生懸命作った私たちへの配慮であったのだろう。だって、これは中々に不細工だ。
「確か海に行く前に猫を見かけて、猫を作ろうってなったんだよね」
「そうなんだけど、僕の不器用さは昔から健在だったなと思って」
指をさした置物は隣の置物よりも不格好であった。耳はよく分からない角度についていて、貝殻に描かれた顔も随分と曲がっている。
「ね、下手くそだね」
「フォローの一つもないよね。昔から」
「嘘ついて上手って言っても、あおいは納得しないでしょ」
君は優しい少年であると同時に、完璧主義で大変負けず嫌いな性格も持ち合わせていた。人に対してはそうでないのに、自分に対してはとても厳しい。上手くいかなければ何度もやり直し、何度だって挑み続ける。出会った当初はからかわれて泣いてるだけの少年だったのだが、いつからそうなっていったのかは分からない。嘘をついて上手だと口にしても、君が納得しないのを昔から知っている。だから私は君の不器用に嘘をつかない。それを言われるのが一番嫌だって事を知っているからだ。
「確かにそうだね。準備は終わった?」
「終わった」
私の格好を一瞥してから君はどこかに行ってしまった。不思議に思っていればドタドタと足音が聞こえて麦わら帽子を手にした君が現れた。
「絶対眩しいから被るべき」
「被りたくないからわざと避けたんだけど」
「頭皮の日焼けは痛いよ」
「日焼けって概念あるのかな」
半ば強引に帽子を被されて手を引かれ玄関に向かう。自分は帽子を被っていないじゃないかと反論したかったが多分言い包められると思い口にはしなかった。靴箱の中から昨晩見つけたサンダルを出して足を入れる。久々に履いたが、特に違和感はないようだった。
玄関の引き戸を開けた君が私が出るのを促す。
「待って、そういえば鍵は?」
靴箱の上を見てみたが鍵らしきものは見当たらない。
「ないからいいんじゃない?」
「不用心過ぎない?開けっ放しだよ」
私は玄関を見渡してみたがやはり鍵は見当たらなかった。いくら私たちしかいないとしても、鍵の開けっ放しはよくないだろう。
「ここ人いないし。東京出身のよるは気にするかもしれないけど、こっちは割と皆開けっ放しだったよ」
「その感覚が危ないの!だから一緒に住んでた時もよく鍵閉め忘れとかしたのね!」
三年前まで一緒に住んでいたマンションはセキュリティ抜群でオートロック完備であった。確かに防犯面は素晴らしかったが、それにしても君はよく鍵を閉め忘れていた。月一回のペースで鍵を閉めない君に私は頭を抱えていた。その理由がここにあった事を今更知り、呆れてため息を吐いた。
君は頬を掻きながら話を別の方向に持っていこうとする。確かに、ここには私たちしかいないし構うことはないだろう。だが危機感には欠けていることは確かだ。
君は後ろ手に引き戸を閉めて私は門を開ける。アスファルトには太陽が照り返していて、心なしか足の裏にまで熱が届いている感覚がした。
帽子を被らされたが被っていて正解だった。現に頭頂部に日光が集まっているし視界はかなり眩しい。帽子のつばがなかったら目が開けなかっただろう。君は正解だっただろと言わんばかりに帽子のつばを引っ張った。視界が遮られ突然のいたずらに足が絡まって転びそうになったが君の腕を掴んで何とか持ち堪えた。
「…あおい」
「ごめんって。でも正解だったでしょ。よる夏は好きだけど日差しには弱いじゃん」
帽子の位置を直して見上げれば君は笑みを浮かべていた。その表情が得意げで少し腹が立ったので脇腹を肘で突いた。低い声でうめいていたが気にすることなく歩き始める。