「冷たい現実の中に現れた温かい非日常に救われたのだ」
月代あおいとの交流は、意外にも長く続いた。
夏休みを終え東京に帰った私に待っていたのは、仕事ばかりで話も聞いてくれない父との生活感がないマンション暮らしだった。私はこの部屋がとても嫌いだった。壁や天井は嫌になるくらい真っ白で、叔父夫婦の家とは空気感が全く違っていた。必要最低限の家具、汚れることを知らない床、空っぽの冷蔵庫、唯一入っているのは冷凍食品だけだろうか。学校から帰ってきて宿題をして、七時頃に冷凍食品を慣れた手つきで電子レンジに入れる生活が帰ってきてしまったと思うと憂鬱でたまらない。
じゃあ自分で料理でもすればいいだろう、と誰かは言うかもしれない。けれどまだ小学生の私に出来る事などたかが知れていた。それに作ったとしても、父は口をつけるだろうか。きっとつけないだろうと、心のどこかで分かっていた。だからこそ拒絶されるのが怖くて、父のために何かをしようとは思わなかった。
一か月に一回ほどの頻度で叔母さんが家に来てくれた。その日だけは、誰かの手料理を食べられる日だった。キッチンに立つ叔母は自宅のキッチンと様式が違うからか毎度悪戦苦闘をしていたが、いつもおいしいご飯を作ってくれた。隣で手伝いをする時が一番の幸せで、他愛のない会話を聞いてくれるこの時間が、どれほど救いであったのかを後になって分かった。私がグレずにいられたのは、叔母と叔父のおかげと言っても過言ではないだろう。クラスの友達とこんな話をした、どんな遊びをした、テストで百点が取れた。叔母はとても嬉しそうに話を聞いてくれた。
食事を終え片づけをしていた時、叔母は一枚の紙を私に渡してきた。
「何これ」
それは手紙というには少々不格好で、けれどメモ書きというには簡素でもない。小学生の子供が書いたであろう汚い字には、確かに私の名前が書かれていた。
「この前よるちゃんが友達になったって言ってた男の子いたでしょ」
「ああ、あおいくん?」
これはあの男の子からなのか。まじまじと見て、裏に貼ってあった電車のシールを剥がした。あまり人の事を言えないが汚い字だった。
「この間家に来てね、よるちゃんに渡してくださいって頼まれちゃったの」
食器を拭きながら叔母は、可愛い子だったと記憶に浸っていた。私は文字を目で追った。そこには、この前遊んでくれてありがとうという内容の感謝と、番号が書かれていた。
『電話番号を書いておくので連絡してくれると嬉しいです。また遊ぼうね。あおいより。』
私は書かれている電話番号を復唱した。そして急いで固定電話の受話器を取った。書かれた番号を打ち込んで、受話器を耳に当てる。その速さに叔母は驚いていた。
数度のコールが鳴り響いてガチャッと音が鳴った。それが切れた音なのか繋がった音なのか分からず、数秒の間固まってしまう。すると受話器越しから声が聞こえてきた。
『はい、月代です』
繋がってしまった。自分からかけたのにも関わらず、なぜか繋がったことに焦りを憶えた。それもそうだ。この電話が鳴る時は学校の連絡網が回ってきた時か、叔父と叔母が連絡をしてくる時だけだ。固定電話は家の中で大して使われる機会もなく、埃を被っていたと言っても過言ではない。私が受話器を取る事はほとんどないし、ましてや誰かにかけるなんて一度もした事がなかった。
『もしもし、聞こえてますか?』
声の主は返答がないこちらを不思議に思ったのだろうか聞き返してくる。
「こ、こんばんは。えっと、あの、涼風よるです」
声の主が誰だか分からないがとりあえず名を名乗った。電話越しだと知っている人物の声でも別人の声に聞こえるから、絶対にこの人だと判別することは中々難しい。向こうは少しだけ静かになった後、突然大きな声を出した。
『よるちゃん!?!?』
音が割れてモスキート音のような高い音が耳に入ってきて思わず受話器を遠くに話した。声の主は未だ私の名前を呼んでいる。
「…あおいくん?」
控えめに知っている人の名前を呼んだ。
『うん、そうだよ!!わあ、よるちゃんから電話来た!』
「ごめん、ちょっとうるさいんだけど」
興奮冷めやらぬ君は電話越しでも分かるくらい気分が高揚していて、ドタドタと足音も聞こえた。多分、走り回っている。間違いないと確信した私は、先程までの緊張はどこかに消え、受話器越しの君に呆れ笑いをしてしまった。
『ご、ごめん!ちょうどお母さんと話してたんだ、よるちゃんのこと』
「私のこと?」
『うん。よるちゃんの叔母さんに手紙を渡したから届いてるかなって』
「今渡されたの。突然電話してごめん、大丈夫だった?」
『大丈夫だよ!さっきお母さんが帰ってきてご飯食べたばっかりだったから』
その言葉に壁にかけられた時計を見た。時計の針は九を指していて、随分遅い時間だったことが伺える。
君はこの時間まで母の帰りを待っていたのだろうか。何だか自分に重なった。
「お母さんのご飯?」
『そうだよ、忙しいんだけどいつも作ってくれるんだ』
「へぇ、いいなあ」
自分と重なったのも束の間、母が食事を作ってくれている事実が羨ましくなった。同じ片親でも、こうも違うのかとため息を吐いた。私は叔母や叔父が月に一回会いに来てくれるがその時にしか誰かの手作りご飯を食べる事が出来ない。しかし、君は毎日とは行かなくても口にしているのだろう。羨ましい事この上なかった。
『よるちゃんの所は違うの?』
「今日は叔母さんが来てくれたからご飯作ってくれたけど、いつもはお惣菜とか冷凍食品だよ」
『そうなんだ。お父さん帰ってくるの遅いの?』
「うん。大体私が寝てから帰ってくる」
ソファーに身体を預けうつ伏せに寝転んだ。叔母がマグカップにオレンジジュースを入れて出してくれたので、近くのローテーブルに置いてありがとうと言った。
『大変だね。僕のお母さんもなるべく早く帰ってきてくれるけど、でも待ってる時間って寂しいよね』
君は平気で感情を口にする。寂しいとか悲しいとか、私にはそれが出来なかった。言えたらきっと楽だったのかもしれない。父に思いが届いたのかもしれない。しかし、幼いながらに芽生えてしまった中途半端なプライドが、伝えるのを許してはくれなかった。
「そうでもないよ」
息をするように嘘を吐いて強がった。父がいなくても寂しくなんてないという反抗心の表れだ。
『僕は寂しいけどな。よるちゃんが帰っちゃって寂しかったよ』
一緒に遊ぶの楽しかったからと言葉を続けた君に、素直な人間だと改めて感心する。