憂鬱質
また嫌な夢を見た。プラットホームから身投げしても死ねない夢。経験したことがないからか、痛みまでは再現されなかったけれど、体がひしゃげる感覚がして、目の前が真っ暗になり、これでおしまい、と思いながら意識がなくなった、と思えば別の明るいところで目が覚めて。生きてることを後悔しながら動かない体をベッドへ横たえさせる。そんな虚しさの最高潮で今日は目が覚めた。
毎日寝る前に隠れて種々の死に方を調べているからこのような夢を見るのだろうか。だったら夢でくらい殺してくれよ、と枕に顔を押し付ける。
起きよう、そう思いのろのろと頭をずらすとあたりはまだ薄暗い。枕元の時計の短針は4と5の間を彷徨っている。昨日寝たのは確か2時とかその辺りだったはずだ。ここ数ヶ月どうも眠りが浅い。浅いどころか眠れないこともある。どちらにしても朝の早い時間には目が覚めてしまうのだけど。
早く起きたところで着替えるなり身なりを整えるなりをする気にはまったくならない。第一、身体が重すぎて全く動く気が怒らないのだ。じゃあ何をしているのかと聞かれれば、強いて言えば考え事をしている。それもとびきりに悪いやつだ。もし今『あれ』が起きてきたら?ここに入ってきたら?こんな時間から起きていることを追求されたら?どれも俺にとって最悪な状況だ。こんなことを毎朝、全く回らない頭で恐れて、結局、毎回のようにこんな自分が消えれば他人に迷惑をかけなくて済むし自分もこんな嫌悪の海に浸からなくていいじゃないか、という結論になる。そうして起こった希死念慮と並行してまた恐怖感に追われ、その度に自己嫌悪をしてを繰り返し、朝の時間が食いつぶされていく。
少なくともこんなことは半年ほど前には起こっていなかった。何時に寝ても8時前後に目が覚めて遅刻することもあった。だが今は、早朝から無理やり起こされて憂鬱に包まれるという地獄のような日々を送らされている。
何が起きてるんだろうな俺、と暗澹とした脳内を捏ね回している途中で、だんだん、と何かが階段を上がってくる音が聞こえる。それは今一番聞きたくない音で、今一番会いたくない人間の近寄ってくる音だった。天井から時計に目が移る。短針は8時を指していたが、すぐに視界は歪み、白黒の渦になった。
がちゃり、戸が開くと同時にいつものやっかみが耳を駆け抜け、鉛のように沈んだ脳を洗濯機の様にかき回す。
「……tmひぃいあしsInfおてぇrぃふぇ!」母親が何か喚いているのはかろうじて聞き取れる。しかしあくまで『喚き声』が聞き取れるというのみで内容はちっともわからない。しかし本能は危機感のみを感じ取っている様で、激しい眩暈と吐き気と耳鳴りの渦の中、操り人形のごとく身体を起こし、着替え始める。もたつけば怒号が飛んで来るのだから朝に弱いとか言っていられない。
朝食はとらず、身支度だけ手早く済ませ、家を出る。第一何か胃に入ったらすぐに出てきてしまうだろう。それくらい朝は不快感で心を灼かれるのだ。
とにかく登校すればいいのだ。そうすれば少なくとも10時間くらいは『あれ』と会わなくて済む。その一心で無理やりにでも重い体を動かし、風の強い中自転車を走らせる。
そもそもこんな不調が起こり始めたのは大体1年ほど前。以前から心の調子や家庭内の環境が悪かった祖母が亡くなってから1月ほど経った辺りからだった。
祖母は俺の自宅から駅1つ分離れたところにある一軒家に、祖父と叔父とで3人暮らしをしていた。家が近いという事もあり、片親の俺は頻繁に祖母宅に預けられていて、要するにおばあちゃん子だったのだ。当然のように祖母達と仲は良かった。たった一人の孫でたった一人の甥。当然の様に『俺に対しては』優しかった。
が、俺と仲が良いから家族が皆仲良し、ということは決して無かった。俺が知らないだけで当然のように問題はあったのだ。ずっと以前から。
機能不全家族という言葉がある。暴力や虐待が日常となっている家庭を指す言葉だ。祖母の家、つまり俺の母が育った家はそういう家庭だった。亭主関白を気取った、他人を見下すしか能のない、高度成長期の汚染物質と共に人格形成をしたかの様な団塊の世代の中でも特に害を及ぼすタイプの祖父に、文句を言えず耐えるだけの祖母。叔父は祖父の攻撃の対象外だが行動や母親を見ていれば昔に何があったかの想像はつく。そして俺の母親はそんな家庭の中で精神の構造を破壊された。何か精神病になったというわけではない(と思いたい)のだが、祖父と性格が変わらなくなってしまったのだ。独善的で高圧的。自分以外が劣っているという悪魔の様な性格だ。それでいて二人とも他人にはいい顔をするのだから困ったものである。
こんな家で醜悪な毒気に毎日当てられていたのだから祖母は日を追ってしおれていった。しかしそんなことに気づかず、祖父は毎日暴言や暴力を振るい続けた。ある時は作った料理に作りすぎだと言って食べるのを拒み、またある時に同じ物を量を減らして作れば少なすぎると言って食べるのを拒む。外に買い物をしに出れば足の悪い祖母に対して、大勢の見る前で歩くのが遅い、と罵り、それらに業を煮やし反抗すれば暴力を振るった。
同時に祖父は俺の母に対してもその狂った態度で接し続けた。母が俺を迎えに来る度に早く帰れと怒号を飛ばし、遊びに行く先を特定してどこそこに居るだろう、と電話をかけたり、母の残業を知りながら仕事はまだ終わらないのか、と狂ったスパンで運転中にすら電話をかける(当然祖母にもかけさせる)。そんなことが幼い頃からあった。
そんな状況でも母は「お前がおばあちゃんの家に行くからお母さんは殴られてあたしがバカにされる」と俺を罵ることを止めない。自宅では一転、俺と母親がそっくり祖母と祖父の関係になるのだ。言うことを聞かない、と言って拳を振るい(中学に上がってからは殴らなくなった。なんでも殴る価値も無くなったそうだ)、育ててやってると恩を売りつけ、俺のことを異常と決めつけるばかりか、自分の家族は皆異常と吐き捨て、その反面高校生になった今でも愛玩動物の如く俺を溺愛してみる。
そんな事が恒常的に続き、祖母は死に関して呟くことが増え始めた。それは唯一祖母に親身になってくれた、祖母の姉妹が国内を去ってから増え始めたと思う。だが当然そんな状況は知らない祖父は、相変わらず狼藉をやめない。そんな中で祖母はますます弱っていく。
だが俺はそんな祖母に八つ当たりをしていた。相談を受けて聞く事も多々あったが、具体的な解決策を提示しても動かない祖母に苛立ち、だったら勝手にしろと言い放ったり、祖母が日常的に言われ続けているはずの「バカ」だの「間抜け」だのというような暴言を吐いて自身が母から受けているストレスを解消してしまっていた。
そんな生活が恒常的に続いたある日、突然祖母はこの世を去った。薬物中毒だった。祖父は俺が何度も心療内科へ行くように促した事と、母が祖母の異常に気付かない事が原因で、自分が被害者であるかのように吹聴し、俺は親戚からも糾弾された。確かに不眠に悩む祖母へ睡眠薬だけでももらうようアドバイスしたのは俺だ。
また母は俺や祖父が日常的に暴言や暴力でストレスを与え死へと追いやったかのように親戚へと吹聴した。確かに、アドバイスと関係のない暴言や我儘を言ったり、祖母の家で問題を起こしては俺が祖父を焚きつける形で祖母を追い込んだ。
俺は二人の狂人から毎日のように責任を問われた。叔父は俺に慰めの言葉をかけたり、母親や祖父へ怒号を飛ばしたりしてくれたが、もとより説教へ傾聴する能力など皆無なこの生き物たちは俺が叔父を騙した、と暴言とも妄言ともつかない濁った否定文を投げつけてきた。祖母の49日に、未だ異常性がやまない二人に呆れた叔父は、俺にごめん、とだけ言って会社の寮へ引っ越した。
二人の罵声を一手に引き受け、唯一の逃げ場すらなくなった俺はこの頃から仄かな希死念慮と心身の不調を感じ始めた。しかし二人の罵りは勢いを増していく。
祖母が亡くなってから半年たった頃、俺は家に帰る事が嫌で帰らずにいたために補導された。祖父も母も警察署へ目から水を出して迎えにきた。帰りの車の中で2人に「家族を殺しておいてまだ他人に迷惑をかけるのか。次は自首してもう出て来るな」と言われた。
補導されてから1週間経ち、ますます強くなる不眠と希死念慮に苦しさを感じ出した俺は、自分が鬱病なのではないかと思って母親に保険証を渡すように言った。しかし母は「そんなわけがないし1人でお前を養ってる上母親まで殺された私が鬱病だよ。死にたいお前は勝手にどこかで死ねばいい。だけど無駄なお金を支払いたくないからあたしに関係ないところで死んで」と言い放たれた。俺はこの時本当に自分が鬱じゃないと思った。今ではあの時なんでそんな風に思ったのか不思議だ。そもそも無価値な俺に税金が使われるなんておこがましい限りだと怒りすら覚える。
祖母が亡くなって9ヶ月が経った頃、俺は自分が自分でないような感覚に襲われ、動悸が止まらなくなった。今でもあの時を思い出す。動悸で波打つ視界が眩暈の渦で覆われて暗くなり、吐き気のあまり息がつまって呼吸ができない。しかし急に視界が明るくなって息苦しさが消えた、と思ったら俺は手首に痛みを覚えながら、先に赤黒い塊のついたシャープペンシルを握っていた。幸いなのか知らないが、2週間から長袖の制服に変わっていたためにその行為は誰にもばれなかった。この頃から自傷が癖になっていった。
祖母の一周忌の頃には既に腕以外の場所を切り始めていた。当然家族や友人、特に教師たちにばれるのは嫌だから半袖でも分かりづらいお腹や胸を中心的に切っていた。またこの頃から1日4時間も寝られなくなっていた。時たま上手く寝られると決まって死のうとして死ねない悪夢を見る。そんな事だから当然学校で倒れたりもしたが、はじめに倒れた時からは決まって机の上で失神するようにした。家に連絡が行けばどうせ辛い思いをするから。そういうところは器用で助かっている。
そんなことをフラッシュバックさせるうちに学校へ着いた。自転車を駐輪場へ止め、家から離れ少しは軽くなった体を玄関のある2階へ持ち上げる。
別に学校に来て何が楽しいわけでもない。毎日こんなコンディションなのだから授業も頭に入るわけないし、友人もいるにはいるが、会釈を交わす程度の、側から見たら友人とは言えないような関係の人が数人いるのみだ。何が好きで来ている、ということは決して無い。じゃあ何で心が軽くなるほど学校が好きなのか。それは要するにただ単に家に帰りたくないからでありそれが直接学校に来る動機になっている。そう。ただあの女に会いたくないだけ。わざわざ俺のことをバカにするような、意味のない会話をさせたくないだけ。そんなことで頭を満たして授業時間も、毎日も過ぎていくのだ。本当に無駄な毎日だと思う。こんな俺にはもったいないほど。誰かにあげられたら良いと切に感じる。そう思ってどうせ学校でも死にたくなるのだ。
教師から連絡が終わり、机を教室の後部へ下げる。今日もとうとう1日が終わってしまった。この後は余命宣告のように清掃活動をして、また動悸と吐き気の渦へと戻るのだ。
時間を稼ぐかのようにできるだけ丁寧に清掃活動を行なって、毎週金曜日に必ず行う『儀式』をするためにトイレへと向かう。これをしないと家に帰れないのだ。2日の間逃げ場がなくなるなんてとてもじゃないが耐えられない。
既に暗く歪み始めた視界のまま、おぼつかない手で個室の鍵をかけ、便座の蓋を下ろしてそこへ腰掛ける。俺はそのまま上着の内ポケットから黄色と黒のプラスチックを取り出すと、黒いツマミを押して薄暗みに輝く銀色の板を出した。カリカリという音を聴くと不思議と心が安らぐ気がする。だが相変わらず自分が自分ではないような気分の悪くなる感覚は無くならない。
はやる気持ちを抑えて、俺は刃物を握りしめたままワイシャツのボタンを外し、フリーな左腕を袖から抜いた。肩から胸にかけて、大量の切り傷があらわになる。
もはや動悸と眩暈は最高潮に達していた。回る目を覚ますため、現実に戻すために刃物を二の腕の内側に当て、すっ、と引く。薄皮が切れ、赤のペンで皮膚をなぞったかのようにして線が引かれていく。
10センチほど切ったところで痛みが走ったので刃を離し、道具の後処理をする。傷やら道具やらの片付けは面倒だが、これをしないと本当に帰れないのだ。事実、痛みを認識したところで眩暈は綺麗に消えていった。自分から離れて揺らいでいた自分の精神が自分に戻っていく。
ことを済ませて校舎を出て、自転車に乗る。正直帰るのが嫌だという気持ちは拭えない。それどころか家に近付くにつれて不快感は広がっていく。インクの染みが広がるような、吐き気にも似た感覚。俺はそれを振り払うかのようにペダルを漕ぐスピードを上げた。
家に着いてからのことはあまり考えたくない。ただ言えることがあるならば嫌なことがあったというだけだ。いつもと変わりなく、俺が悪いことをして、親を不快にさせて、罵声を浴びるだけ。
夜も1時を回り、いいことがわかった。今日は親が深夜に出かけるのだ。ここ数年、たまにそういうことがある。こういう日は少しくらいは胸がすく。迷惑をかけなくていいんだから。
そう。迷惑をかけなくていいんだから。
空虚でひび割れた心にこの一言が染み込んでいく。迷惑をかけなくていい。迷惑をかけなくていいんだ。
久々に体が能動的に動いた。気づいたら俺は手紙を書いていた。筆がスラスラと走る。そうして手紙を書き終わると、俺は手紙の写真を撮った。計4枚。少し拡大すれば平気で読むことができるだろう。そして俺はスマホの液晶の中の緑の吹き出しをタップし、それらを叔父へと送った。俺は多分これを叔父に読んで欲しかったのだ。だから叔父にだけ送った。
手紙を書いた流れであまりにも勝手に体が動いてくれるので、今晩くらいは体に身をまかせることにした。勢いで上着を掴み、鍵をしっかりとかけて玄関を飛び出す。
自転車にまたがり、夜風を浴びながら俺は気の向くままに車輪を転がした。普段あまり動かないので疲れるかと思えば不思議と漕ぐ足は軽い。勢いづいてきたので今晩は普段行かないようなところに行こう、とロケーションを思い浮かべる。
結局一番に思い浮かんだのは、今日の英語の授業の時に教師が楽しそうに語った、ダムの話だった。なんでもその教師は、俺の家の最寄駅から車でそう遠くないところに位置するダムに、今週末に遊びに行くそうなのだ。今日の授業ではなぜかこの話だけがやけに心に残った。俺はダムどころか、建造物全般に興味がない。だけど今晩は何か特別な気分がして、そこに行ってみようと思ったのだ。
そう思い立った矢先に、意味もなく渡ろうと思った信号が止まった。タイミングを見計らい、その隙に行き先を調べる。どうやらそこはこの地点から3キロもないところにあるらしい。目的地も定まったところで、俺の足も気合が入った。
例の教師曰く、このダムは県内で2番目に古いダムなのだそうだ。この市の中でもかなり田舎の、奥まったところにあるからか、通る人も見張りの人もいない。しかも門や柵は予想以上に低かった。だから俺は好奇心のまま入ってみることにした……
また嫌な夢を見た。そんなところから俺のこの、走馬灯と表現すべき風景が見え始めた。
今、俺は恐怖を感じている。何か根源的な、人が、いや、全てのものが逃れられない恐怖を。
だがこの恐ろしさも贖罪と思えば何も苦しむことはない。そう。俺はきっと誰かに謝りたくてここを目指したのだ。だから俺は教師の話の中でここを強く意識していた。ここは最高の謝罪場なのだ。頭の中に限っては永劫の時間が味わえる。そして俺の体は謝罪と贖罪の重要性を誰よりも深く理解していた。だから俺はここに強く誘われたのだし、体もそれを欲していた。それは空腹時に甘いものが欲しくなる感覚に似ているな、とふと思った。
ひと息つく間に俺は謝る先をありったけ考えてみた。まずは産んでくれた母。言うことを忠実に聞けず、毎日仕事で疲れた体と精神に迷惑をかけ続けてしまった。そして叔父。今でこんな俺に対して優しくし続けてくれた。今思えばいい理解者だった以前にいい友人だったのかもしれない。だが俺が揉め事を起こしたせいで、実家も、帰る母も奪ってしまった。さらに祖父。いつも真っ先に目をかけてくれていたのに暴言を吐いてストレスを与え続けてしまった。70を超えても車を運転するのは大変だろうに頼りすぎたりもした。だがそんな些末なことより、妻と娘、息子との関係を引き裂き、その上妻との永遠の別れを突きつけてしまった。そ
静謐に包まれた部屋には香の香りが満たされていた。部屋には15人ほどの人が並んでいる。モノクロ写真のように無機質な空間で、男が口を開いた。手には二つ折りの折り目が付いている。手紙を読むのだろうか。
叔父さんごめんなさい
もう俺は耐えられない
憂鬱質と言う言葉があるのだけど
俺はそれだった
心の中で悪いものが鬱屈していたけれど
他の人よりもその容量が狭いから
俺にはもう耐えられなかった
気がつけば心にたまる澱に気がつかないほど悪い感情がたまっていた
おばあちゃんを死なせた俺が今さら
こんなわがまま聞いてもらってわるいけれど
みんなに俺が謝っていたと伝えて
さようなら
男は読み終わると紙を握りつぶした。声は口を開いてすぐに震えだしていて、読み終わる時には既に聞き取りづらいほどの嗚咽が混じっていた。男は、そのまま最後にこう付け加えた。
「何で気づかなかった?」
現実にオチも主題なんてものもないんです
だから今回はそれらを薄くしました(なりました)
結論から言いますと皆さんは抱え込まないようにしましょう
趣味に逃げたりとかしましょう
のんびりいきましょう