イエロー
黄色のカーネーション:あなたには失望しました
私はある年から、毎年母の日に黄色いカーネーションを贈る。彼女はそれをみてうれしそうに笑いながら言う。
「あなたはいつもカーネーションね。たまには他のものもくれればいいのに」
彼女は冗談のつもりで、そういうから、あたしは忙しくて準備できないのよと笑って返す。その心の奥に憎悪と嫌悪を秘めて。彼女は私に何をしたか忘れているのだ。昔から、自分に不都合なことは忘れるか忘れたふりをするのが得意な人だった。
仕事終わりに深いため息をついたら、同期の水島茜が飲み会に誘ってきた。
「お願い、ひとり足りないの。ダメかなぁ」
わざとらしい甘えた声。私は彼女が苦手だったけれど、あまり家に帰る気分でもなかったのでいいよと軽く申し出を受けた。まさか、あの男がいるとは夢にも思わなかった。
ひとしきり自己紹介が終わると、ビールで乾杯した。私は最悪の気分だったが、向こうはまるで私と初めて会ったという態度だ。それはそうだろう。見合い相手と初めてのデートでラブホに入ろうとした最低男だ。それも、その理由が母の一言だった。
『なんだよ。男を知らないわけでもないんだろ?そっちから頭下げて見合いしてくれって言ってきておいて。あんたのおふくろさんに既成事実でもなんでもいいから、結婚したくなるようにしてくれって言われたんだぜ』
思い出しただけでも反吐がでる。母も母だが、それを平然と鵜呑みにするこの男もどうかしてる。私は、盛り上がり始めた一団から離れるようにちょっと席をはずして、煙草を吸いにいった。
分煙が進んでいるからなのか、店内の一画に喫煙のブースが設けられている。誰もいなくて、少しほっとする。早く帰りたいと思う反面、うちに帰るのもうんざりする。母の顔をみるのが、いい加減つらくなってきた。
(どっちがましだろうか。父への不満を聞かせようと待ち構えている母のいる家に帰るのと、このまま飲み会に参加しつづけるのと……)
そんなことを考えながら、二本目の煙草に火をつけたとき、水島茜が呼びにきた。
「ごめん、もう一服したら戻るから」
私は愛想笑いで答えた。
「そう、じゃあなんか適当に飲み物たのんでおくね」
水島茜はそういってあっさり、去って行った。できることなら、戻りたくもないのだけれど。二本目を吸い終わり、ため息交じりにブースを出ると入れ違いで合コンの相手が一人やってきた。
(たしが高崎とか言っていたかな……)
私はかるく会釈すると、向こうがあんたなにしたのと急にわけのわからないことを言いだした。
「なんですか?いきなり、酔ってるの?」
私は適当に答える。高崎は小さくため息をついて、飲み物はやめて、具合悪いとでも言って帰れというとブースのなかに消えていった。
(何?飲み物……)
なんだかわけのわからない忠告を受けた後だけに、水島が頼んでおいたカルアミルクが嫌な予感を増長させた。
「今、二次会どこに行くって話してたんだけど、須藤さんもいくでしょ」
勝手なことを水島が言う。
「ごめん、ちょっと気分悪くて……二次会は……」
私が断りを入れようとしたとき、あいつが急にのりが悪いのは相変わらずだねとまわりに聞こえるようにいう。そして、なになに二人知り合いだったのと女の子たちは盛り上がる。
私はあいつを睨んだけれど、まったく効果はない。
「ちょっとね。ねぇ須藤さん」
いかにも二人の間に何かありましたというニュアンス。反吐がでる。水島はなによ何があったのぉと甘えた声で言う。
「何もないわよ」
私はため息交じりにそういって、カルアミルクを煽った。そのあとで、高崎が戻ってくる姿を見て、忠告を思い出したが、後の祭りだった。
(何……これ……)
微かに視界が歪む。ビール一杯にカクテルごときで、酔うほど飲めないわけでもないのに、体がじわじわと熱を持ち始めた。
「ごめん、具合悪い……帰る……」
私はこれはまずいと思って、財布から五千円ぬきだして水島に強引に渡すと、急いで店をでた。初夏の夜はまだ冷える。その冷たさに、頬の熱が奪われて少し気分だけは楽になったように思えたけれど、体の方はけだるさと重さがひどくなる。私はふらつく足で、駅へ向かった。こんなところで倒れたりできない。駅へ行けば、タクシーが拾える。その一心で歩いた。
足がもつれて転びそうになったとき、不意に誰かが抱き留めてくれた。すみませんと顔をあげてみると、忠告をくれた高崎だった。
「どうしたの……」
「あんたを追いかけてきたんだよ」
「大丈夫よ。戻って……」
私はお礼を言うのも忘れて、抱きしめるように支えてくれている高崎から離れようとした。
「そんなにふらふらでどこまでいくつもりだ」
まるで叱るようにそういう。
「駅……タクシー拾って……」
私の意識は朦朧としはじめる。高崎は何も言わずに近くのビジネスホテルに私を連れて入る。私は嫌だといいたかったけど、もうそれどころじゃなかった。深部体温がどんどん上がっているような感覚が抵抗する気力さえ奪っていく。運よく部屋が空いていたが、ベッドはダブルだった。ツインとシングルは満室だとフロントの女の声がかすかにきこえたのと、高崎に下の名前を確認されたのはなんとなくわかった。
高崎は私をベッドにそっと寝かせると吐き気はないか聞いてきた。
「……ない。ごめんなさ……」
折角忠告してくれたのにと言おうとしたが、ダメだった。体が酷くふわふわして、思考もまともじゃない感覚に襲われている。高崎はベッドの側に、椅子を持ってきて何があったのか話してくれた。
「俺が席をたつとき、一之瀬がセックスドラックを手に入れたって自慢げにはなしてて、それ本物かってみんなが興味本位で話してた。俺もただのビタミン剤かなにかだと思ったけど、あんたを呼びにいった水島がいいだしたんだ。カルアミルクにまぜてみようよって……そしたら、まわりがおもしろがって……俺はとめられなかったから……せめた忠告くらいしとくかって……もうちょっとちゃんと言えばよかった。悪かったよ」
まるで自分の共犯だと言っているような高崎に私はなぜか、自分が馬鹿なのよとつぶやいていた。それから、一之瀬とのことも話した。お見合いをしたその日にラブホテルにつれこまれそうになったこと。断わったら、そこに放置されたこと。二度と会わない相手だと思っていた。今日の飲み会が合コンで頭数あわせにひっぱりだされたこと……。
私は話していないと怖かった。頭の中でささやくように繰り返される淫靡なセリフが、口からこぼれないように必死だった。
いつ眠ったのかわからなかったけど、目をあけると青いシャツが見えた。
「起きたのか?具合は?」
「だ、大丈夫……」
私は恥ずかしくて高崎の顔が見れない。昨日、いろんな不満を吐き出したのだ。会ったばかりの相手に。そして、高崎は子どもをあやすように私を抱きしめて眠ってくれたのだ。
「服、しわだらけだな」
高崎はベッドからでて、くすりと笑った。
「チェックアウトまであと二時間くらいあるけど、風呂はいるか?」
「ううん、いい。このまま帰るわ。迷惑かけてごめんなさい。忠告してくれたのに……」
私は恥ずかしいのと、だるいのでベッドから出ることができない。
「朝食、どうする?向いにパンやがあるけど」
窓から外をみながら、高崎はそういう。食欲はないとおもっていたけれど、そのタイミングでおなかがグウっと大きな音を立てた。
高崎は振り向かずに肩が少し上下している。
「焼きそばパンが食べたい……です」
笑われたのが恥ずかしくて、つい拗ねたような口調になった。自分でも本当は笑いたくなる。最悪の朝なのに悪い気がしない。
「じゃあ、買ってくる」
高崎はそういって、部屋を出たいった。
わたしはバスルームに駆け込み、乱れた髪や化粧、服を整えた。鏡にうつる自分の顔をみて絶句する。まぶたが腫れ上がってひどい。こんな顔、見られたかと思うとこのまま逃げ出したかったけど。そんな失礼はしたくなかったので、備え付けのタオルをお湯に浸して、高崎がもどるまで目に当てていた。
私はその三か月後に、もう会うこともない高崎と再会することになるとは思ってもいなかった。
あの醜態をさらした後、辞令が下りた。資料課から本社の営業事務に配属が決まったのだ。実家から通うには少し不便で、それを理由に一人暮らしをすることにした。母は猛烈に反対したけれど、父は仕事なんだから仕方がないだろうという。結局、文句をいわれながらも引っ越しは完了した。
引っ越し先は本社から電車で一駅の少し古風な洋風のマンションで、家具付きだった。なんでも、その部屋の持ち主が海外勤務になり、いつ戻れるかわからないし、眺めが気に入ってるから売りたくないと不動産屋に相談したのだと言う。私は一目でその部屋が気に入った。家賃も四万と共益費五千円でこのあたりでは安いほうだった。
契約をすませて引っ越して、新しい生活がはじまった。配属された営業一課には、高崎とあいつ、一之瀬拓哉がいた。幸い、私の相棒は高崎だった。そして初めてフルネームを知った。
「高崎潤です。よろしくおねがいします」
「須藤亜紀です。よろしくおねがいします」
私は今更のようにあの日のことを思い出して、うつむきぎみで挨拶をした。高崎の営業成績は悪くない。トップをとっているのは一之瀬だが、ときどき高崎がトップをとることもあると営業事務の主任が教えてくれた。
「彼ね、パソコンが苦手なのよ。それであなたの前任者はちょっと空気よめないっていうか気が利かないこだったから、タイムロスがでちゃって成績が安定しなかったの。そのうえ、できちゃったで寿退社。だから、がんばってサポートしてあげてね」
「はい、がんばります」
私はあの日の恩返しのつもりで、仕事に専念した。
『メール、助かった。おかげで一件とれた』
そんな些細なやりとりが、私はなんとなくうれしくてどんどん仕事が楽しくなった。高崎は成績があがると、たまに昼ご飯をおごってくれる。そんなときは、たわいのない話をした。
私はだんだんと高崎に惹かれていった。けれど、あの日の羞恥心がその気持ちにふたをする。それに高崎は誰に対しても態度がかわらない。私は仕事のパートナーだから、少しだけ特別扱いしてくれているのだろう。そう思う。そうじゃないと困る。そんなことを考えながら、エレベーターで資料をとりに下へ行こうとしたとき、滑り込むように一之瀬が乗り込んできた。
エレベーターに二人きり。すごくいやだったが、何階ですかと事務的に聞く。
「一階……それよりさぁ」
気が付けば、一之瀬は私の背後にたち、耳の近くでささやいた。もう、やったのっと。私は気持ち悪さで声が機械的になる。
「なんのことですか。それより、離れてくれませんか。気分が悪くなるわ」
「ひどいね。お見合いした仲じゃない。ま、いいけどさぁ。噂になってるぜ。高崎とあんたができてるってさ」
一之瀬はそういいながらも、耳元から顔は離したけれど、背後にたったままだ。
「俺とあいつを天秤にかけておもしろがってるって噂もあるけど」
私は冷静さを保つために無意識に唇を噛んでいた。
(どうせ、その噂はあんたがながしてるんでしょ)
最悪の状態。資料室は地下だけど、次の階で降りよう。このままだと怒りでどんな暴言を吐くかわからない。そうなったら、こいつの思うつぼだと私は必死に耐えた。そして、丁度ドアが開く。そこには高崎がたっていた。高崎はエレベーターに乗るのを一瞬ためらう。
嫌なところを見られた。見られたくなかったと思った瞬間、腕をつかまれてエレベーターから降ろされる。そのタイミングでドアが閉まった。
「な、なに……」
私は震えながらつぶやくと、高崎は私の頭を腕の中に抱き寄せた。
「何言われた?顔色が真っ青だ」
私は身動きできないまま、噂のことを話した。
「ごめん、迷惑かけて。私があいつを拒んだから……」
「拒んで正解だろう?ついでだから、もう一つ噂ばらまいといた」
「え?」
私が驚いて顔をあげると、高崎はまぶしいものでも見るようにうっすらと目を細めて笑う。
「俺が須藤にめちゃくちゃ惚れてるって」
「な、なんでそんな……」
「ま、本当のことだからな。俺、あんたが好きだよ。できたら結婚前提でお付き合いしてほしいね」
私は本気なのか冗談なのかわからなくて、けれどはっきりと鼓動の早さでうれしいと自覚した。
「だったら……こんなところで、プロポーズしないでよ。答えにくいじゃない……」
私は拗ねたように頭を、高崎の胸に押し当てて答えた。
「じゃあ、付き合ってくださいには了解くれるんだ」
優しい声と、頭をなでる大きな手にはっきりとわかるようにうなずいた。
「私なんかでいいなら……」
「なんかじゃないだろ。正直にいうけど、あの合コンのときから気になってたんだよ。いっしょに仕事してて自覚した。で、一之瀬なんかにちょっかいだされてるのに、すっげぇ腹がたったから、一気に結婚してくれになった。ごめんな」
そういって高崎は、私を解放した。エレベーターが開く音がしたから、二人で乗り込む。高崎はこれから取引先に行く。私たちは週末にデートの約束を交わして、それぞれの仕事に向った。