9.歌姫との夜<1/6>
明け方まで晴れていた分、朝の冷え込みは厳しかった。夜中に薪の補充をしていなかったら、目覚めは最悪だったろう。
簡単に朝の支度を済ませて、グレイスとランシィは、次に使う誰かのために、来た時よりも中を整えた。二人が小屋を後にする頃には、また空一面に灰色の雲がたちこめようとしていた。
これからの季節は、晴れた日は逆に寒さが厳しくなり、晴れていない日は雪の日が多くなる。冷えた土の上に落ちた雪は、溶けるより先に積もっていくようになり、少しづつ冬が辺りを白く染め、道を閉ざしていくのだ。
もちろん積もったからといって、村々から町までの人の行き来がまるっきりなくなるわけではない。馬を使ったそりでの輸送もあるし、よく使われる道なら踏み固められ、人が歩けるだけの雪道はできる。
それでもやはり、雪がない時期よりも移動にかかる時間は長くなる。途中で吹雪にあう危険も高まる。途中の村で滞在が長引けば、その分宿代だってかかるのだ。雪が本格的に積もらないうちに、なるべく王都に近いところまで移動しておきたかった。
昼前にたどり着いた小さな村で、食堂のおかみさんに周辺の様子を聞いてみようと、ランシィの家から持ち出してきた地図を広げたら、
「あら、ずいぶん古い地図だねぇ」
温かい野菜スープとパンを供してくれながら、ここから三日ほど歩いた先に、西へ通じる道が新しくできたことをおかみさんは教えてくれた。
そのため合流付近は、冬にかかったこの時期でも若干賑わっているらしい。王都から離れた地方は寂れる一方かと思っていたら、良い変化もそれなりにあるようだ。
それはそれとして、自分達は夜までに次の村にたどり着かなくてはいけない。雲行きも怪しく、夜には荒れそうな気配だった。
案の定、目的の村が遠くに見え始めた夕刻には、だいぶ薄暗くなって、雪がちらつき始めていた。このあたりまで来ると、日が当たりにくい部分の地面を、表面だけが溶けて固くなった雪が覆っているのが目立つ。あと数回も雪が降れば、すっかりすべてが白くなるだろう。
遠目に見る風景はとても素朴だったのに、村に近づいたら妙に騒がしい。この時間にも、自分達が来たのと逆方向から、何人かがまとまってやって来ては村に入っていく。
村は、予想外の人手だった。今まで人どころか建物もほとんどない、閑散とした風景しか見てこなかったランシィは、村のそこかしこに人がいるだけで既に驚いている。
農閑期で雪が積もるのも近いこの時期、移動するのは町へ働きに行く者か買い出しに行く者くらいで、あまり一時に大勢がひとつの村に集まることはないはずなのだ。この時期に祭りでも行う風習があるのだろうか。
「歌姫のパルディナが来てるんだよ」
村の入り口にある詰め所の前で、松明の番をしていた年老いた門番は、逆にグレイスが事情を知らないことに驚いた様子だった。門番といっても、専属の衛兵ではなさそうだ。当番の村人が見張りをしているのだろう。
「なんでも、西エゼラルの領主様がいたくお気に入りだったとかで、本当なら秋のうちにサルツニアに向かっていたのを必死でひきとめてたんだそうだ。半年くらいエゼラル付近を回ってて、とても評判だったらしいよ」
「そんなに素晴らしい歌声なんですか」
「歌もいいらしいけど、えらいべっぴんさんだそうだ。わしがちょっと留守にしてる間に村に来て宿に入ってしまったから、まだ見てないんだがね」
なるほど、この人出は、歌姫見たさに近隣の町や村からやってきたものなのだろう。娯楽の少ない辺境地域では、旅の歌姫や芸人はとても歓迎される。家にいるしかない農閑期なら特に喜ばれるはずだ。
しかし、これだけの人出だと、宿に空きがあるかも判らなくなってきた。利用者が少ない時期だから、少しは宿代も安くしてもらえるかとアテにしてきたのに。まいったなと思っていたら、
「うたひめ?」
門番の老人とグレイスとを交互に見上げ、ランシィが首を傾げた。
「お姫様が歌を歌うの?」
「え、歌姫って言うのは……」
ああそうか、あんな外れの小さな村では、訪問してくる旅芸人どころか、住人にすらちゃんとした歌を知っている者もいなかったかも知れない。
よくよくまわりを見れば、子供を連れて訪れている者も多い。みんなめったにない機会を楽しみに、やってきたのだろう。
「とても上手にいろいろな歌を歌ってくれる女の人のことだよ」
「歌ってたくさんあるの? どれくらい?」
「さぁ、……どれくらいだろうね」
ランシィにとっては全てが新しい経験なのだ。ついついなんでも心配してしまう自分が逆におかしくなって、グレイスは気恥ずかしげに微笑んだ。
せっかく同じ村に居合わせるのだ。歌姫とはどういうものか、見せてあげられるようにしよう。