3.黒衣の神官、少女と出会う<3/4>
王国サルツニアと、その隣国アルテヤの戦争が終結したのは、今からちょうど一〇年ほど前になる。
始まりは、それはそれは愚かなものだった。
時のアルテヤ王エールライ二世の妃は、異郷の占いに入れ込んでいた。その妃の連れてきた自称『魔導師』の預言にそそのかされ、エールライ二世は、周辺諸国に対して侵略行為を始めたのだ。
北に山岳地帯を抱えるアルテヤは、見かけの領土こそ広いものの、実質的な国力は近隣小国と大差ない。最初は不意を突かれはしたものの、侵攻を受けた国はすぐに反撃に転じ、戦争はすぐに終結するかに思われた。
しかし、魔導師の預言を盲信するエールライ二世は、周りの苦言には耳を貸さなかった。王の暴走を止めようと、大国サルツニアに助力を乞おうとした実弟リュゴーを幽閉し、無謀な侵略行為を継続しようとした。国の隅々から男達が脅されるように徴兵されていき、その大半はもう戻っては来なかった。
王弟リュゴーの家族や臣下も揃って幽閉されたが、リュゴーの旧知であるサルツニアの騎士オルネストがサルツニア王に進言したことで、とうとうサルツニア軍が事態の収束のために介入した。
対アルテヤのために同盟した周辺諸国とサルツニア軍の連携に加え、狂王からの解放を願う市民の協力で王都は制圧された。エールライ二世と王妃は捕らえられ、戦争は終結する。
王をそそのかした当の魔導師のその後は判っていない。幸いというか、エールライ二世に子はなかった。リュゴーが王として即位した今、アルテヤはサルツニアの援助を受けながら、再興のまっただ中にある。
「戦争から一〇年経った今、アルテヤの領内で人口や生産力がどれだけ回復してきているか、人々の暮らしぶりを、できるだけ偏りのない視点から調査したいと、サルツニア側から各教会に要請がありました。僕もカーシャムの神官として、そのお手伝いをすることになったんです」
地図上では、アルテヤとサルツニアは隣国である。
ただ、間に山地と河があるため、行き来はたやすくはない。一〇年前の戦争で、サルツニアの介入が遅れたのもそのためだった。
山地を越え、アルテヤとサルツニアを結ぶ数少ない道のひとつが、このツハトの村に通じている。だが道は細く、徒歩以外だと、よほど訓練された騎馬でもなければ通るのは難しい。馬車など論外だ。
通常の交易は、山地を西に大回りして整えられた街道を利用して行われていた。グレイスも本来ならその道を利用する計画で、アルテヤに入るのは冬が終わってからのはずだった。
「それが、僕がサルツニア王都の教会建屋に立ち寄ったところ、サルツニア軍が山地に住み着いた盗賊退治のために、討伐隊を派遣する事を聞きました。その部隊のなかに、一〇年前の終戦時に山地を越えてこの村に来た経験のある騎士殿がいるという話でした。僕は途中までその部隊と一緒に山地で行動して、討伐のあとは道を教えてもらってここまでやってきた次第です」
「盗賊は? おじさんもやっつけたの?」
さっきよりは多少熱の入った声でランシィに問われ、グレイスは軽い苦笑いを見せた。せめて名前で呼んでくれると嬉しいのだが。
「盗賊達の大半は一足違いで、隠れ家から逃げ出していたよ。逃げ遅れた何人かが捕まったくらいかな」
「なんだぁ……」
子供らしい反応のランシィとは裏腹に、老人はなにやら眉を寄せて記憶をたどろうとしている様子だった。
一〇年前だと、ランシィは生まれているかいないかの頃だろうが、この老人には村までやってきた部隊の記憶があるのかも知れない。
それにしても、村に残されたのは二人だけというなら、ランシィの両親はどうなっているのだろう。若い男は戦争にとられたかもしれないが、その後に母親まで喪っているとしたら、この二人はだんだんと寂れていく村の中で今までどんな生活をしてきたのだろうか。これからどうするつもりなのだろう。
途中、簡素な夕食をはさんで、グレイスは二人のためにひたすら話し続けた。
サルツニア王都の大きさ、絢爛さ。各地から集まった食べ物や様々な品物、訪れる人々の話。大きな町にたくさんの人がいること自体が、ランシィには想像がつかないらしい。
最初は表情を読み取るのが難しかった小さな瞳に、子供らしい輝きが現れ始めているのがグレイスには嬉しかった。これで顔のもう半分をきちんと出してくれれば、もっと表情が判りやすいのに。
グレイスが半月分ほどの会話量は消費したと思われるほど話した頃、やっとランシィが眠気を訴え始めた。本人はもっと話を聞いていたそうだったが、気がつけば夜もだいぶ更けている。
寝る前の支度を済ませ、ランシィが暖炉で温めていた毛布を抱えて寝室に引っ込むと、夜の闇がいっそう濃く辺りに押し寄せて来たようだった。
久々の来客で、老人は気分がよいようだ。子供と二人きりでは手をつけることのできない葡萄酒のありかを、グレイスに示した。
言われるままに杯を探し出し、葡萄酒の少量を注いで手渡すと、老人はとても大事なものを抱えるように杯を手で包んで香りを楽しんでいる。グレイスもつきあい程度に自分の杯に紫色の液体を注ぎ、喋り倒して乾いた口に含んだ。
「……一〇年前、あの山を越えて、サルツニアの部隊がこの村に来たのだよ」
しばらくの沈黙の後、記憶をたどるように淡々と、老人が話し始めた。
「実りはしたものの、もう刈り取る人手がなくて、村の麦畑の大半はそのまま手つかずの状態だった。サルツニアの部隊はまるで、金色の海の上に通った道を渡ってくるかのようだった。とても頼もしかったのを覚えておるよ。サルツニアはアルテヤを助けに来てくれたのを、皆知っておったからなぁ」
自分が通ってきた草原が、あれが全部麦畑だったなら、確かに見事な光景だったろう。グレイスは思い描いて小さく頷いた。
「部隊を率いていたのは、オルネストという騎士殿で、部隊は正規軍ではなく傭兵部隊という話だった。短期間であの山を越えるには、過酷な経験をより多く積んだ傭兵の方が向いていると判断したのだろうな。その部隊がこの村に着いた時に、王都が制圧されて戦争が終わったという知らせが来たのだよ」
「そうでしたか……」
この村は、戦いに巻き込まれずに済んだのだ。サルツニアの軍だから、民間人相手に無法な真似はしないだろうが、やはり他国の軍隊がやってくるのはそれなりに不安な経験であったろう。
「オルネスト殿は村長に、正式な撤収の命令があるまで少しの間郊外に駐留するという挨拶をしにきてくださった。その時に、人手が足りなくて麦の刈り入れができないという話をしたら、ではせっかく来たのだしと、帰るまでの間に収穫を手伝ってくれるとまで約束してくれた。さすがにサルツニアの騎士殿、礼儀正しくて思いやりもある方だった。……あれが正規軍であったら、本当に何事もなかったのだろう」