14.歌姫との夜<6/6>
目を白黒させているグレイスの顔を下からのぞき込むように、それまでうつむき加減で視線を合わせなかった歌姫が顔を上げた。潤んだ瞳とつややかな唇に、いたずらを成功させたかのような余裕の笑みを乗せている。
「ほんとは、あんな男ひとり、追い払うのは簡単だったんだけど、あなたが来たのが判ったから」
言いながら、戸惑っているグレイスの背中に腕を回し、顔を近づける。香水でも使っているのか、花のような甘い香りでくらくらする。さっきの震えはなんだったのか。
「え? あ、あの? なん……」
「なんでって、あたしのほうが聞きたいわ」
かつがれていたのか? なんのために?
だが、ずりずり下がって距離をとろうとするグレイスに、歌姫は少し不機嫌そうに目を細めた。そんな表情ですら魅惑的なのだから困ってしまう。
「あたしの歌の、なにがお気に召さなかったのかしら? あたしよりも絵の中の女神の方が、あなたには魅力的?」
「あ……」
歌の途中で、グレイスの気がそれたところを、歌姫はしっかり見ていたのだ。よほど自分の演目に自信があるのかも知れないが、あれは不可抗力である。ランシィが声をかけてくれなかったら、身動きもできなかったに違いない。
「あれは、あなたに理由があるわけじゃなくて」
「じゃあ、どんな理由なの?」
逃げ腰に距離をとろうとするグレイスに、更に詰め寄るように歌姫は顔を寄せる。意図的に押しつけられた体の柔らかさに、ともすれば抗う力さえ萎えてしまいそうだった。それでもグレイスは必死で首を振った。
「その、連れの子に絵の意味を問われたから答えただけで、あなたがあの絵より魅力がないだなんてことは」
「それならどうして、そんな風にあたしから逃げようとするの?」
グレイスの顔の右側に寄せた唇から、囁くように歌姫が問いかけた。
単に歌姫は、自分の自尊心を傷つけた男がたまたまやってきたから、軽い仕返しでもしているつもりなのかも知れない。でも、もし自分がさっきの男のように自制心を失ったらどうするつもりなのだ。
「あんな絵よりも、あたしの方がずっといいと思わない?」
「いや、あの」
それはまた別の話なのだが、ここでうんと言ってしまったら話がまたややこしくなる。かといって、違うと答えたら次はなにを言われるのか。うまい返し方が思いつかず、とにかくずりずりと身を引いていたら、今度こそ寝台の端の窓際に追い詰められてしまった。
窓の隙間から漏れてくる風が閉じられたカーテンを揺らし、グレイスの頬を冷たく撫でたが、いっぱいいっぱいの頭がその程度で冷えるわけでもない。歌姫は逃げ場をふさぐように、グレイスの胸に自分の体を押しつけた。歌姫の甘い香りと柔らかな肌の感触に、グレイスはとうとう動けなくなってしまった。
獲物を完全に手中に収めて満足げに目を細め、歌姫は自分の手をグレイスの胸に添えると、花びらのような赤い唇を近づけてきた。
これで視線まで捕らえられてしまったら、本当になにも考えられなくなってしまう。グレイスは呪縛から逃れるように、必死で顔をそらそうとした。
カーテンの隙間から、吹雪のおさまった窓の外の様子が目に入った。
「……っ?」
顔をそらさせないように、グレイスの頬に手を添えようとしていた歌姫が、声にならない悲鳴をあげた。グレイスがいきなり歌姫の両肩を掴んで、強く押し戻したのだ。
さっきまでの戸惑った顔つきから一転して、真剣な目で窓の外を見るグレイスを、歌姫は驚いた様子で見返した。憑きものが落ちたような、とも、なにかに取り憑かれたような、とも言える変わりようだった。
「失礼、ちゃんと扉の鍵はかけてくださいね」
言いながら、グレイスは素早く立ち上がると、歌姫が止める間もなく部屋を駆け出て行ってしまった。廊下の空気が部屋の中に入り込み、むき出しの歌姫の肩を冷たく撫でる。
「な……なんだっていうのよ」
寝台の上にぺたりと座り込み、半開きになった扉を少しの間呆然と見つめていた歌姫は、我に返った様子で窓のカーテンに手を伸ばした。
三階にある部屋の窓からは、宿の裏手がよく見える。吹雪が一旦やみ、雪で白く浮き上がった地面の上に、点々と足跡が続いている。その先に、外套も羽織らないまま雪の向こうの闇に向かって歩いていく、小さな子供の後ろ姿が見えた。




