10.歌姫との夜<2/6>
門番の老人に教えられた宿は、二軒とも客でいっぱいだった。
だが、歌姫が泊まるという宿の女主人と話をしたら、こちらが子供連れながら神官ということでそれなりに信用できることと、急な忙しさで店側の人手が足りないことで、交渉の余地が生まれた。グレイスが宿の手伝いをする代わりに、納戸をひとつ使わせてくれることになったのだ。
納戸いっぱいにしまわれていた毛布や椅子が、歌姫目当てに訪れた多くの客のために全部引っ張り出されたからだ。支払うのは食事代だけでいいと言ってくれたので、グレイスとランシィは混み合う前の食堂で簡単に夕飯を食べさせてもらうと、あとは言われるままに宿の建物の中を駆け回った。
各部屋に薪や寝具を運び、暖炉に火種を入れて部屋を暖め、少し上等の部屋には水差しを置いてまわる。夕刻も近いのにこんな事をしていたら普通は間に合わないのだが、今回の客は皆、歌姫目当てなので、食事が終わったらそのまま舞台になる食堂に残る。そのため、部屋に戻るのが遅くなるらしい。
ランシィはといえば、グレイスが運んだ寝具をひととおり整えて回った後、食堂で使い終わった皿を洗い場に運ぶ手伝いをしていた。もともと老人と二人きりで生活していたランシィは、片付けや手伝いを苦に思わないらしい。目端が利いて、グレイスよりも重宝がられているくらいだ。
泊まり客の夕飯があらかた終わる頃には、外はもうすっかり暗くなって、窓の外では強い風に吹かれた雪が羽毛のように散っている。食堂の中は贅沢に薪がくべられているのでとても温かいが、外は相当吹雪いているらしい。明日の朝は本格的に積もっていそうだ。
食堂のテーブルが半分ほど片付けられて、舞台代わりの空間が作られていた。舞台を囲むように並べられた椅子に客達が座り、椅子に納まりきらない子供達は、舞台の目の前の床に敷かれたむしろに場所を与えている。
どう見てもこの宿に泊まれる数の倍以上はいる。きっともう一軒の宿の客や、村人達も見に来ているのだろう。別の村から歌姫を追いかけてきたものもいるらしく、贈り物らしい綺麗な箱や紙包みを手にした若い男も多い。
その頃にはあらかた二人ができる仕事は終わっていたから、グレイスとランシィは食堂の片隅で歌姫の舞台を見られることになった。ただ、そのままでは人混みにさえぎられ、ランシィは立っていても舞台を見ることができない。行儀が悪いが、テーブルの上に腰掛けて見ることになった。
これだけ人がいると、グレイスの黒の法衣すら存在感が薄まるらしく、カーシャムの神官だと気にする者もいないようだ。片目を隠すほど伸びたランシィの前髪も、あまり奇異な目で見られることも、特に声をかけられることもなかった。
最初についたての陰から現れたのは、リュートを手にした初老の男だった。男は舞台の端の低い椅子に腰をかけると、そのままなにも言わずに弦をはじき始めた。
かき鳴らされるのは、南の国の穏やかな海を思わせるような曲だった。待っていた者たちが次第におしゃべりをやめ、曲に耳を傾けてだんだん静かになっていく。あらかた話し声もなくなると、ついたての陰から柔らかな女の歌声が響き渡った。
現れたのは、流れるような金色の髪に、絹のような白い肌が美しい小柄な若い女だった。
グレイスには自分と同じか、ひょっとしたら少し歳上のように思えたが、舞台のために化粧をしているらしいので、正確にはよく判らない。肩と胸元が大きくあいた異国の服が、柔らかに整った胸元や腰の線を強調するようにぴったりと作られていて、男達の目はまずそれに奪われたようだ。
花のように色づいた唇はそれほど大きな動きをしていないのに、声は食堂の隅にいるグレイス達にまで十分届く。異国の言葉で歌っているから内容は判らないが、表情とあわせた声の抑揚や強弱で、その歌詞に込められた感情がありありと伝わってくるかのようだった。
どうやら、来た者を歓迎する歌のようだ。彼女は歌いながら、舞台として区切られた空間の中をゆったり歩き回り、近くにいる者の視線を捕らえたり、子供達の顔をのぞき込んだりしている。
歌姫は遠くにいるグレイスの方にまで顔を向けた。一瞬視線を捕らえられたような気までして、思わずグレイスもどぎまぎしてしまった。
しかし、ふとまわりを見れば、近くにいる男達もやはり自分と同じように、戸惑ったような嬉しそうな表情をしている。
なるほど、ああやって観客の関心をつかむものなのか。さすが人気のある歌姫は、歌以外の配慮も細やかなものだ。それなりに納得して、グレイスは内心苦笑いを浮かべた。
ランシィはといえば、初めて聞く歌と、美しい歌姫の姿に、子供らしい邪気のなさで目をきらきらさせている。
「今日はみなさん、わざわざお集まり頂きありがとうございます」
最初の歌が終わり、観客からの拍手が静まると、歌姫はなかなか礼儀正しく挨拶を始めた。
「私はパルディナ、幼い頃から旅の一座で異国を多く回ってきました。今夜は皆さんに、世界のいろいろな景色を、歌を通して見て頂きたく思っています。お時間の許す限り、おつきあい下さいませ」
歌っている時よりも、声色はあどけない。言葉にあわせて、リュートの音が軽やかに響く。弾き手の男は口を開かないが、リュートの音色で一緒に挨拶しているかのようだった。
そのまま歌姫が歌い始めたのは、遠い南の島国の風景だった。今度はきちんと、この辺りでも通じる言葉である。
それは、一粒の雨の雫が世界を巡る歌だった。雨が降り、川になって湖ができ、更にその湖から河が流れて、湖よりも大きな海に流れ込む、海はいろいろな国に通じて、やがて雲になって風に運ばれてまた雨になって戻ってくる。そんな説明をしながら、海がつながる南の国の光景を歌う歌だった。
最初は海というもの自体がよく判っていなかったらしいランシィが、歌が一曲終わる頃にはちゃんと海と空と雨との関係を把握したようだ。自分達の上に降る雪が、遠い南の国の海から来たものかも知れない。そしてまた、海までの旅に出て行くのだ。舞台の近くで座っている子供達も、ランシィと同じように目を輝かせて耳を傾けている。
そしてグレイスには雨の雫が旅していく、南の島国の青々とした空と海と、渡る小舟が波に揺れる光景まで見えるようだった。実際に目にしたことはないのに、歌というものは、見たこともないものまで人に見せることができるのだ。
子供も大人も関係なく、観客の心をつかんでしまうと、あとは歌姫の独壇場だった。
町の市場の日常、草原の騎馬の民の遊牧の様子、王侯貴族達の華やかな舞踏会、年若い騎士の冒険。歌姫の声はまるで魔法のようにを風景と物語を鮮やかに紡いで、観客はまるで世界を旅する小舟の中にいるように同じ風景を見ることができた。