第92話 ~瓢箪からあの人の名~
朝食を終えたユース達が、今か今かと待つ人物は、彼女をおいて他にない。昨日も顔を合わせたばかりだが、今日やっと本当の意味で家路に着くあの人を想えば、やはり不思議と気分が高揚する。ガンマがそわそわするのは些細な楽しみでも常にそうだが、アルミナまでそうなってしまってはガンマに落ち着けということも出来ない。ガンマを嗜めるのは主にアルミナの仕事だったのに。
やがて玄関の扉が開く音が耳に入るが、はやる気持ちを抑えて着席したままのアルミナ達。落ち着き払ったマグニスやチータはそのままで何もいつもと代わらないが、お尻の浮きかけたアルミナの動きはキャルの微笑ましむような目に捕まり、アルミナも思わず気恥ずかしそうな顔。
「――ただいま」
「おかえりなさい、シリカさん!」
そして当人が顔を出せば、想いは行動に溢れる。我慢できずに立ち上がったアルミナとガンマがぱたぱたと彼女に近付き、歩きながらその言葉を手向けた。
「法騎士シリカ、本日より戦線に復帰、だな」
「ああ。みんなには――特にユースには苦労をかけてしまったな」
マグニスなりのおかえりの言葉を受け取り、アルミナの頭を撫でながらシリカが目を向ける相手は、そのどちらでもない。いつも緊張いっぱいの顔で自分を見ていた彼とは少し違って見えた。背筋を伸ばして姿勢は正しているものの、いつもあった畏怖に満ちたような顔色でないのは、ここ数日を乗り越えたおかげでわずかに自信がついたせいだろうか。
「……おかえりなさい、シリカさん」
彼女と目が合うと、目を伏せるユース。案外、そう自信がついたというわけではないのか? と推測を覆された気分になるシリカだったが、一瞬見えた気がするユースの胸中がどうしても知りたくなり、元々言うはずだった言葉を、予定より少し早くに言ってみる。
「第14小隊隊長の責、よく果たしてくれた。お前の書いた報告書なども見せて貰ったが、本当によく頑張ってくれていたな」
「……はい」
本当は、どこかで二人きりになった時ぐらいにでも言ってやろうとした言葉だった。だけど今、その言葉を聞いたユースが、はにかむように、しかし嬉しそうに小さくうなずいた姿を見ると、予定より違って早くに言ってしまったことにも、後悔しない想いが沸いてくる。
隊長職の気苦労は身に沁みて知っている。経験不足かつ、初めての隊長職を手探りで遂行し、しっかりと形に残る結果をユースが見せてくれたのだ。シリカ自身、それを見届けられただけでも嬉しかったが、何よりもユースがその実感を得ていることを、シリカは内心で喜んでいた。
「マグニスは扱いづらかっただろ?」
気分一新、気軽な話題を。目を伏せがちだったユースが深呼吸一つはさんで、しみじみした声で、
「そうですねぇ……」
「おいこらユース、少しは先輩を庇え」
たった6文字でこの一週間の苦労をこの上なく表現する表情。絶好の間で即座に不平を突っ込むマグニスに、シリカも思わず噴き出した。
「私の目が黒いうちはマグニスに好き勝手はさせないよ。今日からは私に指揮権が戻るんだからな。ここ一週間のように、羽を伸ばせると思うなよ?」
穏やかながらも威圧的な目を向けられたマグニスが、へいへいとお手上げの仕草を見せる。単にいつもの形に戻るだけだというのに、楽しみが減っちまうなぁと残念な顔を見せるマグニスを見るにつけて、いかにここ数日を好き勝手に過ごしていたかがよくわかる。
普段ならば見ただけで辟易とするマグニスの態度も、今ここで見ると懐かしさを彩る色のひとつ。第14小隊という場所に帰ってきたことを実感するシリカの表情は安らいだもので、そんな顔で自分にいつもの釘を刺してくるシリカを見れば、マグニスにもシリカのほっとした胸中が見てとれる。
「みんなの顔を見て懐かしむ時間も惜しいが、随分帰ってくるのが遅れてしまったからな。悪いが、すぐに任務に移ろうと思う。みんなもう、朝食はとってあるな?」
シリカの性格を考えれば、朝一番で帰ってきて、みんなと朝食を食べるのが自然な行動だ。朝食の時間をしばらく過ぎてから帰ってきたのは、大方クロムを独りの朝食にするのが憚られて、彼と二人で朝食をとっていたのだろう。第14小隊のみんなと食卓を囲むことはこれからもずっと出来る、入院暮らしのクロムの元にこれからも通うようなことは限られる。その違いである。
「赴く先は、魔法都市ダニームだ。メンバーは……」
久しぶりの任務就任であり、どことなく張り切り気味のシリカ。透けたものだが、その辺りを隠しきれない辺りも含めてこの人らしいな、と、ユースも改めて実感するのだった。
「――とまあ、そんなわけで初日の任務ではユース、報告書を持ってこれなかったわけです」
「うるさいな……隊長の部屋を探りづらいのは当たり前のことだろ」
ダニームへ向かう船の甲板、ここ一週間の出来事をアルミナが土産話として語っている。シリカがこの一週間での出来事を旅路の中で聞きたいという理由だけで、アルミナは同行者に選ばれた。それだけシリカは、アルミナの視野と把握の広さを評価している。
任務初日の朝、シリカの部屋から報告書を取ってこられなかったユースも、これを暴露されて憮然顔。シリカの私室に入り込んで、報告書を探すという行為に踏み込めなかったのは、こうしてバラされると無性に恥ずかしい。仕方ないだろと口を尖らせつつ、目を逸らすユース。
「案外ユースも、シリカさんのこと女性として見てるのかなって思った」
「こら、案外とはどういうことだ」
アルミナの額をこつんと突いて、お前は私のことを女性認定されにくい女だとでも言いたいのか、とシリカは抗議する。案外気にしている部分なのだが、穏やかな空気の流れの中でシリカも、それを冗談と捉えるだけの余裕はあった。
「ユースだって、そういう意識あったから私に報告書を取りに行かせたんでしょ?」
「やめろよもう。認めるからもう、勘弁してくれ」
プロンと上手く喋れなかった記憶も相まって、女性の私室に入り込むのがなんだか憚られたあの日のことを明かされると、本気で頭が痛くなってくる。性に対して免疫が無いのは自分でもわかっているが、いちいちつつかれるのも面白くない。
やや濁し気味の返答だったものの、ユースがシリカのことを女として認識しているという言質を拾えたアルミナは、何が楽しいのやら嬉しそうだ。そんな顔を向けられても、シリカとしてはどう返せばいいのやら。
「シリカさんは、ユースのこと男の子として意識してないんですか?」
「お前が期待するような答えは出来ないと思うんだが……」
「いいですよぉ。この際ぶっちゃけましょうよ」
時々アルミナのことを本気で面倒臭いと感じることは、ユースにもある。女の子は恋バナが好きだとマグニスによく聞いているし、勝手にしてくれればいいと思うが、その矛先をこっちに向けた上で自分の前でそんな話をされると。しかも無責任なうきうき感が鼻につく。
「まあ、私もこんなだし、女として見て貰えるのは嬉しいよ。私から見れば弟のようなユースだが、そう言ってくれるのは嬉しいし、今後は私もそうした目で見返すのが礼儀かもしれないな」
律儀な回答にアルミナも苦笑い。脈もなさそうで、ユースがシリカに恋していたらあまりにも残酷な答えである。だからってこっちを気の毒そうな顔で見てくるから、ユースも、知るかっていう顔を返す。
一人の少女が、法騎士と少年騎士の間で話題をかき回す光景から、少し離れた場所。甲板の隅で河景色を眺める少年は、その手に握る杖を磨いていた。常に冷静沈着な彼にしては、手が落ち着かない仕草はやや珍しいものだ。
「――チータ」
程なくそれを感知したシリカは、アルミナとの話も切り上げてチータに歩み寄る。今日の任務の重要参考人である少年魔導士は、シリカに向き直ると真っ直ぐ目を向けてくる。
「今日で、決着をつけられればいいのですが」
シリカが何を言うより先に、チータはそう返した。胸中を一番悟られにくい言葉を選んでくる辺り、シリカも今のチータの内面に手を伸ばすことは得策でない気がしてくる。
ユースが隊長職を担っていた一週間、チータは法騎士ダイアンの指示のもと、数々の地を奔走してきた。綿の雨という壊滅的な災害を人為的に起こす何者かの正体を突き止めるべく、フィート教会のあったラルセローミの街含め、緑の教団の支部がある各地の町や村を巡ってきた。その都度、情報を得たり話したりの繰り返しで、事件の解決に向かって動いてきたのだ。
少なくとも綿の雨を生み出していた人間達の一味に、兄であるライフェンが関わっていたのは事実。それが属するサルファード家に疑いの目が向けられることは至極当然のことで、それはつまりチータの生まれた血筋に対する、極めて不名誉な疑念だ。
その事実を究明するために全力を費やすチータの胸中は、ユースやアルミナには計り知れない。普通の家庭に育った二人には、血の繋がった家族が、人類の敵と言えるほどの罪人となり得る状況下におかれた少年の気持ちなど、想像できないだろう。
「真実の究明、か。お前はそれを目指しているだけだと、ダイアン様から聞かされているよ」
「魔導士の目指す道は必ずそこに収束します。たとえ父が許し難き行為に手を染めていたとしても、僕はそれを暴くことに躊躇はありません」
ここまでなら彼らしい回答。チータの言及はその後、さらに続く。
「父なら、やりかねないと僕も思っていますのでね」
発言そのものより、その言葉を発すると同時に目に蒼い炎を宿したようなチータの表情が、ユースとアルミナの意識に突き刺さる。感情を顔に表すことの少ない彼がここまでの眼を見せた姿というのは、今までにあったかどうか思い出せないぐらいだ。
今は離れし親族への想いを巡らせ、嫌悪感を僅かに匂わせるチータは、シリカにこれ以上の詮索をさせなかった。魔法都市ダニームに到着し、目的地であるアカデミーに向けて歩き出すまで、第14小隊の間では一切の会話が為されなかった。
敢えて言葉を取り払えば、チータの背中から余計に際立つ強い覚悟。サルファード家を憎らしげに想い、決着を急ぐ少年魔導士の精神は、彼の周りに無意識に魔力を生じさせ、僅かに空気を歪ませるほどだった。
「お待ちしておりました」
「ご無沙汰しております。凪の賢者、ルーネ=フォウ=ファクトリア様」
ダニームの港へ辿り着いたシリカ達を迎え入れたのは、一人の少女、もといそうした風体が際立つ内面に学者としての英知を宿す、魔法都市の要人だった。蒼くふんわりした髪が織り成す、纏められたツインテールをたなびかせる頭が、迎える相手に向けて深々と下げられる姿は相変わらずだ。こう見えてお偉い様なので、シリカ達もそれに負けないぐらい頭を垂れるのは当然の仕草。法騎士含む騎士団の面々が、街角の少女にさえ混ざれる小さな人物に頭を深々と下げる光景は、なかなか自然に拝めるものではない。
「……ルーネ様、今日はどうされたのですか?」
ぎくりとしたルーネが一瞬硬直する。あどけない素顔を常日頃晒していた彼女が、今日は珍しくか眼鏡をかけていたからだ。シリカが指摘したのは、まさしくそこである。
「ルーネ様って、目が悪かったんでしたっけ?」
「えー、あー……これはその……だ、伊達……です……」
アルミナの問いかけに、しどろもどろして答えるルーネ。長らく学者をしている立場というし、目が悪くてもおかしくない話だが、そうだというわけでもないらしい。
「おしゃれですか? すごくお似合いですよ」
目の前の人物が、魔法都市でも指折りの偉大な魔法使いであることも忘れたかのように、アルミナは気軽な声でそう言うのだ。言ってることが不躾でもないためシリカも咎めないのだが、賢者という高い地位を持ちながら、二十歳手前のアルミナでもこうして気重に捉えず声をかけられる、そうした気質がルーネには不思議とある。
「に、似合います、かね……エルアに言われて押し付けられたんですが……」
魔法都市のもう一人の賢者、エルアーティの愛称を出して、伊達の眼鏡をかけた経緯を口にするルーネ。世界広しといえども、エルアーティが親友と称するのはルーネだけと言われており、そうした愛称で自らを呼ぶことを認めているのも彼女だけだ。
「推し付けられたって?」
「んーあー……話すと長くなるんですが……」
どうやらルーネとエルアーティ、二人でとある魔法学について語り合っていたらしい。そんな中、未解析であった学術理論部分を究明するにあたって、ルーネの仮説とエルアーティの仮説が真っ向から矛盾したという。どちらの理論が正しいか、しばらく二人で研究を進めていった結果、最終的にはエルアーティの立てた仮説の方が正しかった、と結論に至ったという話だ。
「まあ、形としてはエルアの勝ち、っていうことで……ひとつ言うことを聞かされることになってしまいまして……」
いつも同じ髪型、似たような法衣に身を包むルーネをイメチェンさせてやろうというエルアーティの悪戯心が授けたのが、今日ルーネがつけてきた眼鏡というわけだ。裸眼暮らしの少女が今日は眼鏡をかけてきましたよ、という程度のものだが、確かにこれ一つで随分見栄えも変わるものだ。日頃は花壇に水をあげる姿が似合いそうな幼い少女が、こうして見ると、学者を目指して勉強に勤しむ勤勉な少女にも見えてくる。まあ、現時点で既に偉大な学者である事実はさておいて。
「ルーネ様、いつもは純真なイメージがすごく強いんですけど、眼鏡かけてるとすんごく学者様って感じがしますよ。似合ってるっていうどころか、ちょっとかっこ良く見えてきますもん」
アルミナのこの寸評は、やや意図した持ち上げも含まれているが、本質としてはそのイメージも遠くない。確かに学者としてのルーネの側面が、こうして見ると余計に際立っても見える。
「そ、そうですか……? う、嬉しいですね、そんな風に言って貰えると……」
アルミナの褒め言葉に、顔を真っ赤にしてうつむくルーネ。嬉しそうなのは一目瞭然だ。
「そうですよ。まさしく賢者様っていうイメージです」
素直いっぱいに感想を述べるアルミナ。それを聞いてルーネも、ありがとうございますと一言返し、アルミナに向けてはにかんだ笑顔を見せてくれた。
「……えっ、ルーネ様?」
その笑顔を向けられたアルミナが、思わず素っ頓狂な声を発する。褒められたばかりの眼鏡を、ルーネがはずして法衣の胸元にしまい込んだからだ。
「でも、ほら。この方が、私らしいですよね?」
裸眼のルーネが、ちょっと申し訳なさそうな顔でアルミナに問いかける。せっかく褒めて下さったけれど、という意図を表情に込めたルーネの態度は、一瞬アルミナを詰まらせる。
「確かにそうかもしれませんけど……眼鏡の方も似合ってましたよ?」
「うふふ、ありがとうございます。私もこんな年になってまだ、おしゃれする余地があったんですね」
見た目が10歳前後の賢者にそんなことを言われても、色々と突っ込んでやりたい心地になる。そもそもこの人はその風体で、何歳なのだと問い詰めたい。20年前の時点で現役最前線の魔法学者を務めていたというのは聞いたことがあるから、余計にだ。
確かに裸眼の方が、あどけなさを表に出すルーネらしいといえばらしいが、本人にもそうした何らかのこだわりがあるのだろうか。ともかくルーネは、眼鏡をもう手にかける気配がない。
「少し、立ち話が過ぎましたね。そろそろ参りましょうか」
後方、アカデミー行きの馬車を指差すルーネに導かれ、第14小隊はそれに乗り込んでいく。世間話もいいが、今日は任務で来ているのだ。ルーネとお話するのはアルミナにとっても楽しいが、それを本題にしてもいけない。
馬車に乗り込み、かたかた揺れる中でアルミナは、何か引っかかることでも言っちゃったかなと少し気にしていた。初めて見るルーネの眼鏡姿はよく似合っていただけに、自分の言葉がきっかけでそれを嫌がってしまったのであれば、ちょっと悔やまれる。
「ああ、そうそう、アルミナちゃん」
馬車の隅でそんなことを考えながら上を仰いでいたアルミナに、ルーネが語りかける。ルーネ関係で少し頭を悩ませていたアルミナだったから、その声にちょっと驚いたが、
「あれ、読みましたよ。すごく面白かったです」
あれと言われて何のことか一瞬わかりかねたアルミナだったが、ルーネがなぜか小声だったので、もしかしたらあれのことかと思い当たる節に辿り着く。
「もしかして……」
「ええ、あれです。以前エレム王都に立ち寄った際、お土産代わりに買って帰ったんですよ」
それで確信した。ああ、あれのことだなと。
「あれって何だ? アルミナ」
「えっ? そ、それはね……」
離れた場所に座り、自分に背を向けているシリカをちらちらうかがいながら、アルミナが人差し指を口の前に持ってくる。何も聞かないで、という仕草としてはわかりやすい。
アルミナが声を大にして話しにくい、そしてシリカのいる方向をやたら気にする。これでユースも、なんとなく察せた。ああ、あれのことだなって。
「エルアも褒めてましたよ。今度王都に行くことがあれば、自分のぶんも買ってきて欲しいって言ってたぐらいですから」
「うわぁ……嬉しい……! ありがとうございます……!」
ルーネの手を両手で握りにいって、幸せいっぱいの顔を見せるアルミナ。自分の作ったお話を、魔法都市ダニームの賢者様に褒められただけでなく、お金を払ってまでそれを読んでもいいと評価してくれた二人の声が、何にも勝って嬉しい心地にさせてくれる。
まあ、大きな声では言えないのだけど。シリカをモデルにした主人公の恋物語が、賢者様の目にまで触れてしまっただなんて。
「でも、失礼ですけど、エルアーティ様も面白いって仰ったのは意外ですね……ああした恋愛物語にも目を通すような方には見えませんでしたから」
「エルアは何でも読みますよ。面白いものなら、何でも認める子ですから」
そりゃまあ、身内をネタにして耳まで赤くなるような小恥ずかしい恋愛小説を書いている者がいて、その者の顔まで知っていたら、確かに面白い。エルアーティは法騎士シリカがどういう人物かは知っているだけに、それが小説内ではあんなオトメに……となれば、悪い笑いが止まらないだろう。
ルーネの楽しみ方とエルアーティの楽しみ方は違う。まあ、自分の作ったお話を褒めて貰えたアルミナにはどちらにせよ嬉しい話だが、この事はシリカには知らせない方がいいだろう。またお尻が腫れる。
アカデミー内における多目的室は、学者同士の意見の語らいの場として使われることが多い。学者同士の真剣なやり取りは常日頃行われるため、多目的室を使いたがる学者も多いため、アカデミー内には多目的室がいくつも設けられている。ルーネに連れられてシリカ達が辿り着いたこの場所も、そんな一つである。
テーブル一つと、5対5で話せるように10の椅子が容易された小さな部屋。場合によっては取調べ室にでも使えそうな形の部屋だが、観葉植物や壁にかけられた絵画、雲のように柔らかな形をあつらえた壁の柱の根元と上部など、この部屋を単にそうした印象に捉えさせない造詣が凝られている。部屋ひとつとっても、こうしたこだわり満点の設計が立てられる辺り、流石は芸術の都と呼ばれるダニームの権威、アカデミー内部である。
「皆様はそちらへ」
椅子のひとつに腰掛けたルーネと、その対面に座るシリカ達。ちょうどルーネと向かい合う位置に座るべきなのは、エレム王国代表とも言えるシリカなのだが、今日は事情が違う。
ルーネの真正面に座るのはチータ。その隣に座るシリカとユース、そのユースの隣に座るアルミナだが、今日のこの場においては、三人とも蚊帳の外に近い。凪の賢者ルーネと、ルオスの魔導士チータの会談。それがこの日の目的だ。
そして、何について話すのかも決まっている。昨今の流れを顧みて、賢者と呼ばれるほどの人物がわざわざサルファード家の人間を呼び、単なるお茶話などするわけがない。
「チータさん、でしたね。もしかしたら、あなたにとってはお話したくないことも、お尋ねしなくてはいけないこともあるかもしれません。その際は、黙秘を貫かれることも咎めませんし、あなたの立場をそれによって揺らがせることもないことを約束します」
「留意します」
賢者の尋問。それにしてはルーネの表情はさほど日頃と変わらず、むしろ騒動の渦中にある少年を憂いるような顔色だ。決して明るくない話をすることは読めていたし、ルーネの表情もわからぬではないが、チータとしては容赦なく来てくれても構わない場面。何を聞かれたって、隠すつもりなんてありはしないし、全部ありのまま話す覚悟はしてきたから。
たとえ自分の言葉を引き金に、サルファード家を獄門に突き落とすことになったとしてもだ。
「……それでは、始めましょうか」
ふうと息をつき、ルーネが呼吸を整える。第一声は、綿の雨に関する言及に始まり、やがてはその主犯をサルファード家の者だと断定するに繋がる情報を聞き出そうとする流れに収束する。チータはそう読んでいた。
「ティルマ=ハイン=リクラプト。あなたは、この名前に聞き覚えはありますか?」
その推測を一瞬で吹き飛ばすルーネの問い。思わずチータも息を詰まらせそうになるほど、その名を今日この日、こんな場所で聞くことになるとは思わなかった。
「……なぜ、あなたがあの人の名前を?」
「私の知人でした。お茶をご一緒したことも多かったですよ。愛する誰かの話をする際、その笑顔が何よりまぶしいと感じる、素敵な方でした」
質問に質問を返してしまう失態を見せたチータにも、淡々とした声を返すルーネ。されど冷淡とは程遠いと感じられるのは、まるで失われた過去を思い返すかのように話すルーネの声色が、わずかにもの悲しげだったからだ。
「チータ=マイン=サルファード様。よろしければ、彼女についてお話して頂けませんか?」
暗くも真っ直ぐな目でチータの目を見据えるルーネ。瓢箪から駒が出たかのように、思い出深いあの人の名がここに現れたことに、チータは戸惑いを隠しきれていない。傍から見守るシリカ達も、部屋の空気が淀みつつあることを感じ取れてしまう。
ふぅと息をつくのは今度はチータの方だ。すべてを語ると覚悟してきた想いを、今一度整え、少年は平常時の無表情を作り上げる。
「僕の先生でした。今も昔も、僕が魔導士として最も敬愛する人です」
サルファード家に生まれ育った少年にとって、師と言える存在。自らに流れる血を忌み嫌う最たるきっかけとなったあの日の出来事を同時に思い返しながら、敬愛した人物の名を再びチータはその胸に刻みつけ直した。




