第91話 ~隊長ユーステット⑦ 離れていても~
法騎士カリウスは、魔力を武器に戦う巨人の魔物、トロルの上位種にあたる怪物の討伐に力を注いでいる。スプリガンと呼ばれるその魔物は、片腕で岩盤を粉々に砕くパワーと、巨体に似合わぬ速度を自在に操る肉体を揃えながら、地面を揺らす魔法で敵の足元を崩す手段も持つ、極めて恐ろしい魔物である。
魔獣ケルベロス率いる魔物の大群を打ち破り、いざケルベロスの討伐に臨もうという時、スプリガンがこちらに向かってくる姿を視野に入れた時のカリウスの動揺は、アイゼンにさえも読み取れたものだ。共に戦っていたアイゼン含む騎士達を、ケルベロスの前に置き去りにして離れるのは、法騎士カリウスも絶対にしたくないことだったが、スプリガンとケルベロスが同じ戦場に並んでしまったら、それこそ取り返しがつかない。スプリガンに足元を揺らされる上、素早い動きと殺傷能力に秀でた爪と牙を持つケルベロスを相手取るとなれば、間違いなく死者が出る。ましてスプリガンを相手取れる兵など、この隊では法騎士カリウスをおいて他にいないのだ。
討伐不要、生存のみを優先せよとの令を受け、アイゼンならびに騎士達は奮戦していた。中でもケルベロスの鼻先に一太刀入れたアイゼンのはたらきは大きく、おかげでケルベロスは完全にアイゼンを怒りの矛先とし、他の騎士達はケルベロスから距離をとることが比較的容易だった。
反撃を試みぬスタンスを徹底したアイゼンは、ユース達が来るまでの間、なんとか持ちこたえることが出来た。騎士団暮らしで鍛え上げたその全身が、肩で息をするぐらいまで疲労するぐらいなのだから、相当頑張っていたのは目に見てとれる。あと僅か、ユース達が駆けつけるのが遅れていたら、最悪の事態も考えられたかもしれない。
疲労困憊寸前のアイゼンより前に出て、ユースとガンマはケルベロスに立ち向かう。これ以上、アイゼンをケルベロスの歯牙の前に晒すわけにはいかない。動ける自分達が前線を担うのだ。
接近したユースが騎士剣を握っていることも恐れず、真っ向からその大口を開けて噛み砕きにくるケルベロスの威圧感には、ユースも足を鈍らせかける衝動に駆られる。ぎりぎりのところで横に跳ね、剣を振るってその顔面を切りつけようとした瞬間、視界の脇から襲いかかる何かが、ユースの直感に凄まじい危機感を伝える。
ケルベロスの二つ目の頭が繰り出す噛み付きの攻撃が、あわやユースの胴体を食い千切る寸前、後方に跳躍してユースはその危機を逃れた。地面に着地するまでの間がいやに長く感じたほど、今の危険は心底まで届き、嫌な汗が吹き出たものだ。
ユースに一瞬遅れてケルベロスを射程範囲内に入れたガンマがその大斧を振るうと、ケルベロスは高く跳び上がる。巨体がガンマの斧を高く飛び越えるだけでも度肝を抜く光景だが、そのままケルベロスが飛びかかる対象は遠方のアイゼンだ。鼻先を傷つけられた恨みを晴らすべく開かれた大口が、自ら向かって急接近する光景は、アイゼンにとっても身の毛がよだつもの。
大きく横に逃れたアイゼンをケルベロスの牙が捕らえることは出来なかったものの、すぐさまその巨体を回してアイゼンに襲いかかろうとするケルベロス。自らの速度と威圧感が相手の反撃を封じる大きな要因となることをわかっているケルベロスは、攻め一辺倒の動きを惜しみなく発揮する。ユースがケルベロスの後ろから近付き、騎士剣を振るうまでの短い間に、アイゼンに向けて3度の噛み付き攻撃が繰り出されている。その牙を回避し、肉体を貫かれることはなかったが、一撃一撃がアイゼンを疲弊させ、精神を追い詰める。
ユースの剣を横っ飛びに回避して、邪魔者に苛立つケルベロスはユースに襲い掛かる。一つ目の頭が噛み付きにかかり、横にかわそうものなら二つ目三つ目の首でその隙を突くのだ。先程の行動でそれを知るユースは、ケルベロスの攻撃を後退で回避するしか道が無い。口を閉じた鼻先を騎士剣で反撃しようとしても、直後襲い掛かってくる別の牙が、その手を引っ込めさせるのだ。
退がるユースの後方から真っ直ぐにケルベロスに向かって駆け抜けるガンマが、ユースとまるですれ違うようになった瞬間、ケルベロス目がけてその斧を振り下ろした。広い視野で危険を察したケルベロスは賢く後退し、その攻撃を回避する。いくら巨体のケルベロスとて、あの大斧で真っ二つにされればひとたまりもないだろう。
戦場は半ば膠着状態。ケルベロスはガンマの決定打を警戒し、ユース達はケルベロスの猛攻をかいくぐって刃を届かせる手段に至れない。アイゼンの前に立ち、一番体力を失っている同士を守る形を作るが、ケルベロスはそれでも攻めてくる。ガンマの斧の攻撃だけはしっかりと回避し、ユースやアイゼンに素早く飛びかかってくる動きの中、三人の体力は削られていく。
「開門、雷撃錐」
その激戦区、突然響いた詠唱が為す稲妻の召喚。ケルベロスの頭上に開いた3つの亀裂が放つ稲妻が、ケルベロスに強烈な電撃を届けた。
「チータ!」
「決定打にはならない! お前達がとどめを刺すしかない!」
戦場を広く駆けるチータがここに現れたことは、ユースにとって心強い救援。しかし稲妻を受けながらも、後方に跳躍して稲妻の射程外に逃れるケルベロスは、体の痛みに怒りを覚えつつもその眼差しは余計に鋭くなっている。体力や耐久性に秀でる巨大な魔物は、魔法による攻撃で傷を与えようと、その生命力に致命傷を与えることが難しい。
それを証明するように、再びユースに飛びかかるケルベロス。何度見ても慣れない巨体の突進は身をすくませにくるが、それでもユースはケルベロスの連続した噛み付きを回避し続ける。一撃でもその牙に捕らえられれば終わりという緊張感が、疲労と引き換えにユースの全力を引き出す。
「開門、地点沈下」
ケルベロスの横から斧を振りかぶるガンマの一撃を跳んで逃れるケルベロス。ケルベロスの着地地点を読んだチータがその詠唱を口にした直後、ケルベロスの右後ろ足が着地した地点の地表を割り、くぼんだ穴に抜け落ちる。わずかにケルベロスがバランスを崩したことは言うまでもない。
ケルベロスに隙が出来たことを見定めたユースの行動は早い。何事かと戸惑いかけたケルベロスの正面からユースが迫るが、すぐに冷静な頭を取り戻し、その大口を開けてユースを迎え撃つ。たとえ頭の一つを騎士剣で貫かれようが、他の頭が敵を直後に葬るだけだ。ケルベロスの攻撃性の最たる所以はそこにある。
咄嗟のケルベロスの反撃をユースは跳躍し、ケルベロスの背中目がけて落ちていく。そのまま背中に騎士剣を振り下ろす心積もりを、すぐさま地を蹴って身を逃すケルベロスの動き。足一本を取られた直後にこの動きをされたことには、チータも強敵の実力を再認識せざるを得ない。
そんなケルベロスの回避した先に真っ先に駆けつけた影。この場で最も動きを鈍らせつつあったアイゼンが、重い体の全力を振り絞り、ケルベロスの頭の一つに矢のように直進する。そしてその頬に、全力で騎士剣を突き立てた。
一つの頭を横から刺し抜かれた激痛は、ケルベロスの激怒を買うには充分だった。直後別の頭がアイゼン目がけて大口を開けて襲いかかるが、剣を手放してでもアイゼンは跳び退き、すんでの所でそれから逃れる。剣を引き抜くために力を費やしていたら、間違いなく首から上をあの牙に持っていかれていただろう。
「開門、落雷魔法」
アイゼンがケルベロスに突き立てた剣めがけて、チータがピンポイントの雷撃を放つ。剣を通じてケルベロスを貫く電流は、傷口を焼く痛みを通じてケルベロスに凄まじいダメージを与える。アイゼンの剣に貫かれたケルベロスの頭の一つ、その口はしばらく使い物にならないだろう。
武器を失ったアイゼンに、離れていろと手を振るって、ユースはケルベロスに立ち向かう。アイゼンの剣を受けたのはケルベロスの右の頭だ。正面から向かい来る少年騎士に、ケルベロスが真ん中の頭の牙で迎撃するが、ユースは左に回避してその剣を振るう。さっきまで恐れていた、ケルベロスの右頭の牙は、今完全に封じられている。
ユースの剣がケルベロスの真ん中の頭を、横からばっさりと斬りつける。その傷を深く出来なかったのは、口を封じられてもなお、ケルベロスの右の頭が勢いよく伸びてきて、ユースに頭突きを繰り出してきたからだ。ケルベロスの頬を斬りつけながら、左腕に構える盾を引き上げ、その頭突きを受けたユースは、巨体が繰り出すパワーに押されて吹き飛ばされる。地面に体を叩きつけられながらも、なんとか受身を取りつつ転がって、すぐさま立ち上がる。
ケルベロスに吹き飛ばされたユースの名をアイゼンが叫んだその瞬間には、ガンマの大斧がケルベロスの右から振りかぶられている。ケルベロスの素早い回避力を何度も見ているガンマは、敢えて必要以上に踏み込んで、頭三つを同時に切り落とせるぐらいにまで近付いて、その大斧を振り上げた。
離れる方向に跳んで逃れたケルベロスだが、巨大な斧の描く弧の射程範囲は広く、アイゼンに貫かれた方の頭は逃れきれなかった。斧先がその頭を顎下から真っ二つにする一撃は、ケルベロスにとって大きなダメージとなっただろう。
「開門、雷撃錐」
出血激しくも死に至らないケルベロスは、直後チータの唱えた強烈な電撃を受けても怯まない。大きな傷口から電撃が体内を貫いても動きを緩めない魔獣の動きは、戦場に一切の予断を許さない。ユース目がけて突き進むケルベロスは、正面の頭を傷つけられた怒りに満ちている。
それでも確かに存在するダメージが、僅かにケルベロスの動きを鈍らせている。頭を一つ失ったことも相まって、ユースを襲う二つの頭の攻撃性が衰えている。反撃を決意したユースは、ケルベロスの左の頭が口を開き、自らの頭に向かって噛み付いてきた瞬間、一種の賭けに出る。
勢いよく身を下げたユースの頭上をケルベロスの頭が通過した瞬間、ユースはその騎士剣を突き上げた。顎の下から鼻の頭までを縫い付けるように突き刺さる騎士剣の一撃は、ケルベロスの左の頭に致命的な一撃だ。少なくとも、その口がまともにはたらきを為すことはもう不可能だろう。
その頭を突き上げたことで、ケルベロスの真ん中の頭の目の前すぐ、ユースがいる。ひとつの頭を突き上げるはたらきに武器を費やしたユース、そこにが隙に満ちていることを、ケルベロスが見逃すはずがない。その牙が自らに襲い掛かろうとした瞬間、ユースの心をわし掴みにした戦慄たるや、壮絶だ。
それを救ったのが一閃の斧。ケルベロス正面から直進したガンマが、一気に距離を詰めてケルベロスの真ん中の頭めがけて斧を振り下ろす。ユースに意識を傾倒させかけていたケルベロスも、その存在に気付いた瞬間には地を蹴って、回避の動きを取る。
ケルベロスの頭の一つを貫いたまま、腰を落として踏みこらえたユースの重みが、ケルベロスの回避をわずかに遅らせた。後方に逃れようとしたケルベロスの巨体は、自身が望むほどの速度と移動力を発揮できず、深く踏み込んだガンマの大斧の振り下ろしが、ケルベロスの真ん中の頭を真っ二つに切り裂いた。
動いたケルベロスに引っ張られる形となったユースは、真ん中の頭を切り裂かれたダメージでバランスを崩すケルベロスの動きも相まって、相当振り回される形になる。それでもなんとか二本の足で地面を踏みしめたユースは、一気に騎士剣を引き抜いてケルベロスから一歩離れる。剣を抜かれた痛みにケルベロスが意識を奪われた次の瞬間には、地を蹴ったユースの剣が、残ったケルベロスの頭の鼻先を深く斬りつけ、さらなるダメージを通す。
悶えて首を振り上げたケルベロスの動きに伴い、頭と胴体の繋がる部分に騎士剣を振りかぶり、いわば左の頭の喉下をかっさばくユース。大きな傷口から噴き出す赤黒い血を避けるようにユースが離れると、傷だらけの頭たちがユースをぎろりと睨み付ける。6つの真っ赤な目が一度に殺意の眼差しを向けてくる光景は、1年前の自分なら圧倒されていただろう。今も全身から溢れる汗が、一瞬止まったかと思ったほどだ。
地を蹴ってユースに直進しようとしたケルベロスだったが、傷の数々が負わせたダメージがあまりに大きかったか、まるで酔ったようにふらつきながら向かってくる。身構えるユースを追い越し、ガンマが決定打のフルスイングを放った瞬間、それを回避する余力も無かったケルベロスは、三つの頭を横薙ぎに一気に切り裂かれる。斧の抱く運動エネルギーはその勢いのままにケルベロスの巨体を吹っ飛ばし、頭の数々を無残に両断されたケルベロスの巨体が、高原に転がるように横たわる。
「……さすがに勝負あっただろ」
斧を構え直してガンマが口走ったとおり、ケルベロスはもう立ち上がってこなかった。立ち上がるために四本の足を動かす気配もなく、ひくつく全身に対し、傷口からとめどなく溢れるおびただしい血が、ケルベロスの死を何よりも示唆していた。
恐る恐るの思いを封じこめ、素早く瀕死のケルベロスに近付き、突き刺さったままのアイゼンの騎士剣を引き抜くユース。抜いた瞬間にケルベロスの全身がびくんと跳ねたのには、二つの意味でぞっとしたものだが、ユースは怯まず勢いよく跳び退いて離れる。
「ありがとう、ユース……助かったよ……」
「……アイゼンのおかげだよ。俺の力じゃ、敵わなかった」
息も絶え絶えのアイゼンに、彼の愛用の騎士剣を差し出すユース。長くこの戦場でケルベロスを相手に独り生存し、それを討つきっかけの一撃を放った親友には、礼を言われるユースも傲慢にはなれない。この勝利の立役者はガンマであり、チータであり、間違いなくアイゼンでもあった。
法騎士カリウスに生存のみを言い渡され、アイゼンと同じく逃げ回ることしか出来なかった騎士達を責められる状況ではあるまい。それだけケルベロスは、どうにも出来ない存在だったと言えよう。チータが駆けつけて知恵を加えてくれなければ、今頃どうなっていたかわからないという戦慄が、遅れてユースの全身の鳥肌を逆立てる。
「これは……!?」
遠方の強敵を討伐し、ようやく駆けつけた法騎士カリウスにとっても、この光景は衝撃的だった。案じてならなかった第26中隊の若い戦士達は全員が生存し、そこにある亡骸は魔獣ケルベロスのそれのみ。さらには返り血をわずかに浴びた第14小隊の騎士と傭兵がそこにいる。これらが示唆する、数秒前にここで起こったことは、想像に至ってもにわかには信じられないものだ。
「……君達がやったのか」
「頑張りました!!」
驚嘆の声を静かに漏らすカリウスに、爽快な勝利宣言を返すガンマが真実を露呈させる。自分の手でケルベロスを討伐したとは自分目線言いづらいアイゼンは、ちょっと気まずそうにユースを指差す。周りの力あってなんとか勝利を掴んだと自認するユースは、ガンマほど堂々とは出来ず、小さくうなずき返すことしか出来なかった。チータはケルベロスを討伐できたと視認したら、とっとと他の激戦区に向けて移動してしまったのか、既に姿さえ無かった。
「――ひとまず、他の魔物を片付けようか。君達に惜しみない賞賛を送るのは、それからだ」
そう、戦いはまだ終わっていない。今も命を懸けて戦う同士達は、その武器を振るって賢明に動いている。カリウスの冷静な声と、次に向かうべき先を指し示されたユース達は、その足を誰よりも先に駆けさせた。
凶悪な魔物ケルベロスを討伐した主役たる二人が、誰よりも早くにだ。その片方が、ほんの4年前は自他共に認める落ちこぼれの少年騎士だったことなんて、この場に居合わせた誰が後から知っても、そんな馬鹿な話があるかと信じないだろう。二人に遅れて動き出す第26中隊の騎士達すべてが、ユースとガンマに未来の勇者の姿を予感せずにはいられなかった。
「おう、シリカ。お疲れさん」
「ん、腕のギプスは取れたのか?」
「まあな。煙草は没収されちまったけど」
当たり前だ、と至極真っ当な突っ込みを受けて、クロムは頭をかいて苦笑する。私物をわざわざ没収されるということは、こっそり煙草でも吸ってる所を何らかの形で医者に悟られたのだろう。
シリカと違って回復の遅れるクロムは、まだまだしばらく病室暮らしである。ユース達と久しぶりに自宅で顔を合わせられたシリカだったが、任務のない今日のうちは、クロムを独りにする気にはなれず、この病室に帰ってきたのだった。
「手が自由になったのは有難ぇけどな。こうして暇潰しも出来たわけで」
クロムはベッド近くの棚から、数枚の紙の束を取り出す。それはシリカが法騎士ダイアンから受け取った、第14小隊隊長の任を預かるユースの書いた報告書だ。普通は騎士団に一度提出した報告書は、もう騎士団上層部から外に出ることは無いのだが、シリカはユースの直属の上官であり、隊長職を一時ユースに委任している立場であることから、ユースの作った報告書に目を通す権利が与えられている。それを受け取ったシリカが、入院中のクロムの要望もあって、ここに持ち込んでいたのだ。
「本来ならばそれは、私以外が見るべきものではないんだがな。お前はユースにとっては上司に近い立場だし、大きな問題にはならないと思うが……」
「まあ、グレーゾーンだわな。無理言ってすまなかったな」
本当にすまないと思っているのやら。クロでなければまあいいじゃん、という考え方を地で持つ奴なのは知ってるだけに、今の謝罪はちょっと胡散臭い。
「んで、お前は先に目を通してると思うが、どうだ?」
ユースの書いた報告書を差し出して返すに際し、これを読んだシリカの抱いた感想を問いかけるクロム。何も思わなかった、なんて回答があるはずがない。
クロムに答えるよりも先に、改めてその報告書に目を通すシリカ。何度見たって、一度抱いた想いがそうそう変わることなんてない。自らの胸中を確かめるように報告書を見るシリカの表情が、次第に息子を見守る母のような穏やかな顔になっていくのが、クロムにとっては答えのようなものだ。
「あいつ、綺麗な字を書くんだな。今まで気に留めてなかったが、こうして見るとよくわかる」
「内容よりもまずそこだわな。俺も改めて見て、同じことを思ったよ」
誤字を消す際の罫線もひとつひとつが丁寧で、筆を握った際のユースの姿勢が頭によく浮かぶ。初めての報告書作りということで背筋を伸ばした面もあるとは思うが、元より仕事や任務に対するユースの姿勢は知っているだけに、認識が間違っている気はしない。
「あとは、そうだな……私が初めて書いた頃の報告書に、よく似ているなと」
「報告しなくていいことまで細かく、か?」
過去の自分を思い返し、くすくす笑うシリカ。起こったことすべて書き連ねて報告し、1枚の報告書で済むような内容を3枚使って書いたこともあった。当時の自分が努力の方向性を間違っていたことを自嘲するのは、今は少しなりともあの頃の自分と変われた自負があるからだ。
「まあ、でも……報告書の書き方を上騎士ラヴォアス様に聞きながら作った私だったが、ユースはきっとこれを一人で書いたんだろうな。騎士団報告書によく見られる書式を無視した書き方だ」
「それってマズい?」
「いや、全然。内容と全く関係のない話だからな」
寂しげな表情で報告書に目を通すシリカの胸の内も、付き合いの長いクロムには伝わる。シリカがユースのことを、どういう目で見ているかを知っているからだ。
「……一人でこれだけしっかりしたものを作れるっていうのは、見事だな」
遠回しにだが、想いを口にする。真意を汲み取ってその先を話すのは、クロムかマグニスにしか出来ない。
「立派になったもんだ、って言ってやると、あいつも喜ぶと思うが」
親はなくとも子は育つ。ユースの成長を誰よりも望んでいたシリカにとって、ユースがこうして立派な騎士に近付いていることは、この上なく嬉しいことだろう。反面、報告書作りなどに関しては何も触れていない中で、独力でユースがちゃんとしたものを作ってきたことに、不思議な寂しさを覚えてしまうのは独りよがりなのだろうか。
「……私が教えられることは、まだあるはずだよな?」
クロムの問いに答える形と、胸の奥にあるもやつきを口にする形を両立した言葉。どちらの意味で捉えてもいいのだが、返すべき言葉はクロムの中にひとつしかない。
「まだまだあいつにはお前が必要だと思うぞ。ユースを単なる立派な騎士でなく、あいつ自身が胸を張れるほど素晴らしい騎士にしてやりたいと本気で思うなら、お前がそばにいてやることだ」
第14小隊に長く身を置いていればわかることだ。ユースにとってのシリカが何なのか、シリカにとってのユースが何なのか。二人のうち片方欠けることあらば、それはもう最善ではない。マグニスと二人ではっきり結論付けたこの持論は、向こう何年経っても覆らない自信がある。
「しっかり導いてやれよ、法騎士さん。お前にしか出来ないことなんだからよ」
うん、と、柔らかな笑顔とともにうなずくシリカの姿には、何より安心する。シリカに限らず、誰しも自らの在り方に迷いを感じることはある。今歩む道が正しいものであったとしても、当人にはそれが良き道なのかはわからないのだから。だから時々、その道を肯定してやるぐらいの力添えは、してやってもいいはずだ。
シリカがユースのそばにいることは、クロムにとって間違いなく正解なのだ。接し方も、在り方も、好きにすればいい。その一事にさえ重きを置いてくれるなら、きっと間違いは無いはずだから。
「ただ、たまには優しくしてやれよ? マグニスが前に言ったほど問題視するようなもんでもねえと思うが、頑張ってる後輩にご褒美あげるぐらいの度量はあってもいいんじゃね」
「ま、まあ……その辺りは留意するよ……」
本気で苦い笑顔を見せてくるあたり、割と以前の一件は気にしていたのかもしれない。まあ、想い余って泣いたぐらいだし、忘れているとも思えないが。
「人を育てるってのも大変だよな」
朗らかかつ、悩みを共感する想いを表す笑顔と共に、クロムが一言呟く。つくづくその一言に尽きる日々の苦悩を。言葉として耳にすると胃が重くなる。
独りじゃない。クロムやマグニスに支えられて、自分はここまでやってきた。今までそんな日が来るのかと思っていたことだが、自分を支える主たる人物の名に、あの少年騎士が加わる日もやがて訪れるのだろうか。
今一度、報告書に目を向けたシリカの目が、不安を一蹴するかのように緩む。手のかかる弟のような少年が、一人の頼もしい騎士に近付いていることを確かめたその目に宿る幸せ。すぐそばでそれを見られたクロムには、怪我人横たわるこのベッドが特等席のようにも感じられた。
シリカが帰ってくる前夜、最後の報告書作り。ペンを握るユースにとっては、ここ連日預かった責務の総仕上げとも言える時間だ。
法騎士カリウス様に、ガンマやチータ共々お褒めの言葉を頂いた。第26中隊に短期移籍した時、自分のことを先輩と言って慕ってくれた少騎士バルトは、数多くの魔物を討伐する功績を挙げたことを、今は別部隊にある自分にわざわざ報告してくれた。それも、誇らしい笑みを携えてだ。
報告書に胸を張って書きたいことが、いっぱいある。突き詰めれば反省点は少なくなかっただろう。シリカのように、同じ隊に属する者や仲間達を守りながら、あるいは導きながら戦えたわけではない。ケルベロスの討伐は果たしたとはいえ、もっと支援すべき戦場が多かったことは後から聞いている。アルミナやキャル、マグニスやチータがそちらをカバーしてくれたおかげで、やや視野の狭まった自分の手に届かなかった場所まで、第14小隊は広く戦場を支配できた。
それでも総じて、上手くいった。親友の命を救うことが出来、死傷者を一人も出さずして勝利を収めた結果の中に、自分という存在が確かにいた実感がある。シリカやクロムが前線を支配する中、何もしなくとも雄軍の兵となった過去など山ほどあったのだ。力になることも出来ず勝利のおこぼれだけ頂いていたあの日と違い、自らの手で掴んだ成功の実感は、たとえようもなく誇らしい。
報告書を届ける相手は聖騎士ナトームだ。だけどこの勝利を伝えたいあの人の顔が、ずっと頭に浮かんで仕方ない。自らをたとえ一応でも信頼し、隊長職を預けてくれたあの人に、この一週間の最後の任務を良き結果に纏められたことを、今すぐにでも伝えたい。やれました、と胸を張って言える喜びが、明日に控えていることを思えば、楽しみできっと今日は眠れなくなるだろう。
筆が走る。思わず、誇らしい出来事のすべてを書き連ねてしまう。あっという間に1枚の報告書が文字列でいっぱいになる。第14小隊の仲間達が最高のはたらきをしてくれたこと、彼ら彼女らが法騎士カリウスに賞賛の言葉を頂いたことを、もっともっと書きたい。簡潔に纏めよ、というナトームの教えがなかったら、報告書が何枚必要になってくるだろう。みんなで任務の成功を勝ち取った事実を、誰かに伝えるために言葉を描くことは、こんなにも楽しいものなのか。
任務を最高の形で終えられた夜のシリカが、努めて冷静な表情を携えながらも、どことなく嬉しそうなのを隠し切れていない姿を何度も見てきた。今ならかつて以上に、そうした時のあの人の気持ちがわかる気がする。不安と苦悩に満ちて始まる隊長生活、それも今の胸に抱く想いと照らし比べれば、もはやいい思い出。それを乗り越え結果を手にした時の喜びは、代わる言葉を見つけることも難解たる幸せだ。
溢れる想いが滲み出た手汗は、眠気と疲労も同時に洗い流す。やり遂げた。そんな想いを伝えたいあの人に向けるかのように、下書きとなった報告書の失敗例を横目に、少年はそのペンを走らせた。




