第8話 ~コブレ廃坑③ 壁~
洞窟の奥から、不可解な音が聞こえる。前に進むにつれて、岩壁を削るような音が大きく聞こえるようになり、一度聞こえてしまえばそれは明らかだ。それは想像で補うならば、鉱夫達が坑道を広げるために掘削している時に聞こえる音に近く聞こえた。時々、がらがらと岩石が地面に転がり落ちるような音が、その想像力に拍車をかけている。
この先にいる何者かの手によってそんな音がしているのだとしたら、まずそれは人間の手によるものではない。岩壁の掘削なんて一人の人間に出来るような所業ではないし、とはいえ多人数の人間がそんなことを、こんな場所でやっているはずがない。
汗ばんだ手を何度も腰元の布で拭きながら、ユースは緊迫した面持ちで前に進む。銃に込められた弾丸の数を何度も確かめるアルミナの表情も険しいものだ。無表情を貫いているシリカも、胸中では様々な思惑が巡っていることだろう。
気を抜くな。ここまでに何度も言ってきた言葉を敢えてシリカは口にしない。ふと隣に目線を送れば、そんな言葉も思考の妨げになりそうなほど、気を張った二人の顔がある。異変を表す轟音鳴り響く洞窟の奥を、シリカはまっすぐに見据えて歩を進めた。
「……まずい」
音の正体がわかった瞬間に、シリカが立ち止まって呟いた。後ずさりこそしなかったものの、彼女が明らかに前に進むことをためらった動きに、ユースとアルミナにも極度の緊張が走る。
二人の遙か先には、光を放たない岩壁の行き止まりがある。だが、その行き止まりの壁の周りの、コズニック山脈の岩肌から露出した蛍懐石が照らす岩壁は、光のちらつきのせいでうごめいているように見える。岩壁が動くはずがないのだから、そうとしか思えないはずだ。
だが、確かに動いている。先に見える、行き止まりを示す岩壁の"向こう側"から、岩を切り崩し洞窟を掘り進むような音が聞こえるのだ。そしてこの距離にまで至ればようやくはっきり聞き分けられたことだが、岩と岩がぶつかりあってガリガリと削り合うような削岩音が、岩を砕く音に紛れて聞こえてくる。
距離をおいて目の前にある壁は、間違いなくただの岩壁ではない。生きている。
目の前の事実から、真に何が起こっているか計り知れずにいるユースとアルミナだったが、シリカはこの事象を起こし得る魔物の存在を知っている。この先にいる魔物がそれだとしたら、今からどうすべきかもはっきりとわかっていた。間違いなく、撤退すべきだ。
シリカはユースとアルミナの肩を叩き、敢えて声を出さずに首を動かして後退を指示する。思わぬ指示に一瞬戸惑いを見せる二人だったが、シリカの真剣な眼差しに押されて、それが今すべき判断なのだろうと読み取る。同時にその態度から、自分達も恐らく声を出してはいけないのだろうと、暗に感じ取ってだ。
踵を返して三人は帰路に向けて歩きだす。シリカはもう一度、先ほどの不審な岩壁もどきに目線を送り警戒するが、アルミナが振り返ろうとするとその背中を軽く叩いて押す。早く前に進めという示唆に、好奇心を封じたアルミナが早足になる。
だが、すぐに3人の足が止まった。3人の目の前に現れたのは、3匹のゴブリン。そしてその後ろには、人間の等身大の大きさよりもさらに大きい、手足を持った人型の影が見えた。その大きな影も、人間などではないことは見るに明らかだ。
岩肌の蛍懐石が照らす光に現れたその大きな影は、背の高い大人よりもさらに一段高い長身で、そんな長身を以ってしても全体のシルエットが横幅広く見えるほど、太い腕と脚を持っていた。そのシルエットで言っても、頭のてっぺんに、人間にはあるはずもない2つの耳が見えており、腰の後ろからは長い尻尾がちらついて見える。
「あれってまさか……ワータイガー……!?」
思わず口走ったアルミナの言葉がまさしく答えだ。じりじりとゴブリンを従えてこちらに迫るその大きな影は、人間を卓越した巨体と肉体を誇る、虎の頭を持つ獣人ワータイガーだった。
ここまで3人が歩いてきた道筋に、あんな魔物はいなかった。つまり、さっき尻目にして進んだ、左の横道の奥から出てきた魔物なのだろう。シリカが危惧していたことはまさしく魔物達の狙いであり、行き止まりの壁と合わせて挟み撃ちにされる形となった。
その壁も、先ほどと変わった動きは見せていないものの、シリカにとってはいつ襲ってくるかわからない脅威。はっきり言ってシリカ目線、あちらの方が遙かに厄介なのだ。
「ユース、アルミナ。ワータイガーは、ゴブリンやコボルドなどとは比較にならない攻撃力と俊敏さを併せ持っている。迂闊に、その武器で敵の攻撃をいなそうなどと考えるなよ」
小声で、しかし強い口調でシリカが二人に囁いた。それが二人に正しく伝わったことは今さら語るべきことでもないが、何よりもシリカの声が小さいことがここにおいては重要だった。
しかし、そんなシリカの尽力を無下にするかのように、前方の魔物の親玉が動きを見せた。突如ワータイガーは息を吸い込み、洞窟内に響き渡るような大声で吠えたのだ。思わずワータイガーの前に立つ3匹のゴブリンもびくりとし、ユースやアルミナも体をすくませる。
「まずい……!」
今の咆哮は危険だ。事態が急転直下で悪化したことを悟ったシリカは、間髪入れずに地を蹴って、前方に向かって突進する。それを見たゴブリン達は、向かい来る人間の標的に向かって前進し、3匹同時にシリカに棍棒を武器に襲いかかった。
最速で自分に襲いかかるであろう1本目の棍棒を剣で弾き飛ばし、2本目の棍棒を持ったゴブリンをその勢い任せに首を刎ね飛ばす。3匹目のゴブリンは棍棒を横薙ぎに振るったが、高く跳躍したシリカに当たることは敵わず、シリカは落下するままに武器をはじかれた方のゴブリンに剣を振り下ろし、頭から股まで一太刀に真っ二つにした。そして着地した瞬間にその剣を振るい、3匹目のゴブリンの胴体を一瞬で切断する。
あっという間の出来事だった。ユース達は一瞬、あまりに流麗な動きで3匹のゴブリンを殲滅したシリカの姿を目で追うことすら出来ず、目の前の光景を無心で眺めているだけだった。それは最早、自分達の力量では、見て参考にすら出来ないレベルの戦いぶり。
「走れ、お前達! 撤退だというのが伝わらなかったか!」
シリカが振り向いてユースとアルミナに怒鳴る。我に返った二人はその言葉に手を引かれ、進行方向にワータイガーがいることも懸念せず、まっすぐ走った。
ワータイガーは鋭い目つきに殺気を満たし、シリカ達ににじり寄る。ワータイガーなりの距離感を取るための動きだったが、それは一瞬で無意味なものとなった。シリカの方がワータイガーに向かって、先ほどと同じように一直線に走り向かったからだ。
ワータイガーが迎撃態勢に切り替えたその瞬間、シリカの鋭い騎士剣がワータイガーの首元目がけて、右から薙ぎ払われる。しかしワータイガーはその剣を右手の爪先で的確にはじき上げ、シリカの放った斬撃が上に逸れる。同時にワータイガーの巨大な左の拳が、隙が出来たと見えたシリカの胸元目がけて勢いよく殴り抜かれる。
シリカは瞬時に一歩後ろに飛び退いて、ワータイガーの突き拳は一歩届かず空振る。すぐに手を引いたワータイガーだが、その腕があった場所に、直後シリカの剣が空を切る。未だ無傷の二人だが、一歩間違えば致命傷という瞬間が、ここまでで両者合わせて3回だ。
また一歩退いて距離を取りたいシリカだったが、ここは前に進む他にない。時間がない。後方から、地響きに近い巨大な足音が聞こえてくる。あれがこの場所に間に合ってしまえば、さらに状況は厳しくなる。迷わずシリカは地を蹴って、再びワータイガーに向かってその剣を振り下ろした。
瞬発的にバックステップを披露してその斬撃をかわしたワータイガーは、剣を振り下ろしたシリカに向かって1発2発とその拳を繰り出してくる。即座に剣を上げたシリカがその攻撃を剣で防ぐが、それを見受けたワータイガーは勢いを止めずにさらなる鉄拳を繰り出す。
雨あられのように飛んでくる、ワータイガーの太い腕から繰り出される巨大な拳の砲弾をシリカはさばき続ける。一歩一歩と後ろに下がり、あと3歩も後退すれば岩壁を背に追い詰められようという時、状況が動く。ワータイガーの右拳の攻撃が、剣で作った防御の壁をすり抜けてシリカの顔面を捉えようとしたその瞬間、シリカはかがんでその拳をかわしてみせた。それを見受けたワータイガーは攻撃がかわされたことに動じず、すぐさま左拳を振り下ろしてシリカの脳天を狙う。
かがんだシリカが剣を振り上げた瞬間に勝負はほぼ決まった。振り下ろされたワータイガーの拳がシリカに届くよりも早く、シリカの剣がワータイガーの左腕を切り落としたからだ。左腕の関節部に深く食い込んだ剣はそのまま腕を通過して、まるで腕をワータイガーが自ら捨てて地面に叩きつけたかのごとく、その太い腕が勢いよく地面に落ちて骨の砕ける音がした。
ここまで状況の変化に敏感に対応していたワータイガーも、この一撃を受けた瞬間には驚愕と苦痛に満ちた表情で動きが止まった。その隙を見逃さず、シリカの放った鋭い斬撃がワータイガーの左の肩口から右の脇腹まで、一気に切り裂く。ユースがゴブリンの肉体を真っ二つにした時とははっきりと違い、一太刀でまっすぐに真っ二つにしてみせたのだ。
頭と右腕を含む部分が地面に落下し、どっしりと地面に足をつけた肉体はすぐには倒れず、ゆっくりと傾く。その部分はシリカの方に向かって前のめりに倒れてきたが、シリカは冷静に飛び退いてかわした。ワータイガーの上半身はまだ息があるようで、ゼィゼィと荒い息を漏らす。
先程は瀕死のゴブリンにとどめを刺したシリカだったが、今はそんな余裕はない。息を呑み、シリカの戦いぶりを見ていることしか出来なかった二人の部下を、鋭い目で睨みつける。急げという無言のプレッシャーを全身に受けて、ユースとアルミナが再び前に進もうとする。
次の瞬間。
「ユース! アルミナ! 後ろだ!」
咄嗟に叫んだシリカの声に反応して思わず振り返ったその時、二人の視界の先には一つの光る何かがあった。そして直後、その光る何かがとてつもなくまばゆい光を放った。
瞬時、その光の源から高速の光弾が発射される。一瞬早くその光る何かを認識した二人は、自らに向かって放たれたその光弾を交わして左右に分かれ跳んだ。その直後、二人がいた場所に着弾した光弾が、爆音とともに火柱をあげたのだ。
一瞬上がった火柱の光とともに、二人は確かに見た。眼前にそびえる巨大な敵の姿。ごつごつした体は、洞窟の高さと幅に届こうかという大きさで、仮にその横をすり抜けて洞窟を進もうと思えば、身をすくめて歩かねばならないほどの巨体。そしてその真ん中にぎょろりとうごめく光る物体は、見るからにその怪物の眼。
「二人とも、そいつから目を逸らさずここまで来い! お前達に何とか出来る相手じゃない!」
シリカに言われるまま、足早に後ずさりして彼女のもとまで急ぐ二人。ユースもアルミナも、書物で目を通したことはあっても目にするのは初めてのその存在に、絶対に自分達では敵わない相手だと確信した上で上官の言葉に従う。
岩石の肉体と巨体を持つ怪物ゴーレム。目の前にいる存在は、その上位種だ。単眼が特徴のその巨人はサイクロプスと呼ばれ、かつて魔王マーディスが率いる魔物達の中でも恐れられた魔物の一匹だった。
サイクロプスがその顔を上げると、光る単眼が洞窟の天井近くまで上がる。これがこの魔物にとっての、正姿勢なのだろう。先ほど行き止まりの壁にさえ見えた岩壁のような風貌は、サイクロプスの背中を見ていただけに過ぎず、こうして正面から向き合ってみれば腕も足もある。岩石で構成された巨大な肉体とは不釣り合いに短い手足だが、その腕を眼前まで延ばせば、おそらく単眼を守るための体勢は取れるであろう長さだ。
サイクロプスの習性を加味すれば、ここ数日で突然出来た例の横穴の原因が、恐らくこのサイクロプスにあることはシリカには読み取れた。しかし、その詳細は後で報告書にでも書けばいいだけの話で、今はどうでもいい。今はこの怪物からどうにかして逃れ、コブレ廃坑にいる人々にこの事実を伝え緊急避難を促し、騎士団に報告すればやがて大隊がここに派遣されるだろう。そうして討伐するのが今とれるベストの選択だと言える。この場にいる3人だけでこれを討伐するというのは、本来抱える必要もないリスクが多すぎる。
シリカは先ほどのワータイガーの亡骸を一瞥して表情をしかめた。あれが余計な吠え声を放たなければ、サイクロプスが背後の自分達に気付かなかった可能性は充分にある。あれだけ声を出さないよう、ユースやアルミナに指示していたというのに、この仕打ちは報われないというものだ。
サイクロプスはじりじりと距離を詰めてくるが、決して急がない。シリカ達3人はこの怪物から決して意識を逸らせないし、後ずさる形でゆっくり距離を取るしかない。動きの遅いサイクロプスよりもシリカ達が退がる速度の方が若干速いが、サイクロプスが焦らないことにも理由がある。
不意にサイクロプスと向き合ったシリカの後方から、嫌な気配がする。それは先ほどまで進んできた道であり、つまりはワータイガーが出現した方向だ。先ほどのワータイガーがこの洞窟に棲む唯一のワータイガーだというのなら、今後ろから迫ってくる魔物はゴブリンかコボルドである可能性が高い。それならいい。どうとでも出来る。
その希望を打ち砕く足音。シリカはさりげなく数歩、ユースやアルミナから距離をとった後、サイクロプスから意識を切らないまま後方を振り返った。
「シリカさん!」
ユースが叫んだ瞬間、サイクロプスの単眼から光弾が発射され、シリカ目がけて飛んでいく。織り込み済みだったシリカは跳躍してそれをかわしたが、振り返った瞬間に視界に入った気配の正体には、流石にシリカも舌打ちせずにいられない想いだった。
後方から現れたのは、もう1匹のワータイガー。ワータイガーはシリカ達を挟んだ向こう側にいるサイクロプスの存在に気付いた途端、にやりと笑ってよだれを垂らした。目の前の人間達はあの怪物から決して意識を逸らすことが出来ないはずだ。ならば単身で狩るよりも、随分と戦いやすいであろうことをその目が悟っている。
そしてそれは事実だった。シリカ達は3人で、前方のサイクロプスと後方のワータイガーを対処しなくてはならないのだ。これはほんの少し前の状況とは、比べものにならない程まずい。
ユースもアルミナも、黙ってこんな所でやられるつもりはない。だが、どう動くのがベストとはっきり決断できる程の経験などあろうはずもなかった。全力を以って応戦しようにも、正しい立ち回りの答えがない現状、まだ動けずにいた。
「……ユース、アルミナ。お前達2人で、あのワータイガーを仕留められるか」
隊長から導き出された答えはそれだった。思わず二人とも全身の毛が逆立つ。
さっきシリカと戦ったワータイガーを見ていたから、あの魔物の恐ろしさはよくわかっている。ゴブリン3匹をものの一瞬で殲滅したシリカが、1対1で手を焼いていた相手だ。二人がかりとはいえ、それを自分達で相手取らねばならぬとなれば、本来ぞっとする話。
「……出来ます」
「やってみせます……!」
それでも迷わず、二人はそう答えた。やるしかないのだ。シリカが部下に厳しい上官であるのは身に沁みてわかっていることだが、試練と称して無意味に部下を危機に晒すようなことをしない人物であることも、二人にすれば確信できる事実。
シリカは、これが今すべきベストの選択だと判断して指示している。二人はそれを信じた。
「後ろは気にするな。必ず、何とかしてみせる」
ワータイガーを正面に見据えたユースやアルミナと背を合わせ、シリカが決意のこもった声を放つ。この言葉を耳から胸まで受け止めて、二人は覚悟を決めた。
「いくぞ、アルミナ……!」
「ええ……!」
ユースがワータイガーに向かって直進し、アルミナがその後を追ってゆっくりと前進する。その後ろでサイクロプスの目が光り、光弾が発射されてシリカ目がけて飛来する。
それを横に跳んでかわした瞬間、着弾した光弾が火柱をあげる。それはまさしく、第14小隊に訪れた、試練の火蓋を切って落とす狼煙だった。