第83話 ~雄軍の兵にして敗戦の将~
サーブル遺跡を先に撤退していた騎士団員や帝国兵達は地上で待ち、遅れて撤退してきた者達が合流し、指揮官格を待つだけの時間。太陽に照らされて暑い気候以上に、遺跡内の同士達が無事であるかどうかを案じる心地というものが、各々の身を焦らしたものだろう。
やがて撤退してきた数多くの兵達が合流し、遺跡の外で待つ者達も大所帯となってくる。そこに法騎士タムサート率いる部隊が合流してきた辺りで、誰の目にもほぼこの遺跡の探索任務は終了したと目に見えたことだろう。勇騎士や聖騎士を除けば、タムサートと帝国士官の率いた部隊こそが、最も深く遺跡を進むだろうと思われていた部隊だったからだ。
アルミナ、ガンマ、キャルの3人が先に撤退する形になった第14小隊もそこにいる。少年傭兵の背中に、意識を失った法騎士シリカの姿があったことは、数多くの騎士に衝撃を与えただろう。法騎士たる彼女が完膚無きまでに打ちのめされたという事実は、それを為した魔物の存在を思わせ、先に撤退を命じられていた若き戦士達に、深入りしなかった賢明さを実感させるには充分だ。
それに少し遅れて、ルオスの筆頭ジャービルが合流した。百獣皇アーヴェルと交戦していた彼を案じた者は多かったものの、先に撤退していた同士達が無事であった光景こそ、ジャービルにとってはほっとするものであった。遺跡の出口近くまで追ったアーヴェルが姿をくらました時点で、地上の仲間達にアーヴェルの牙が向いていないか不安で仕方なかったのだ。この様子だと遺跡内にアーヴェルが未だに潜伏していることになるため、この後撤退してくる仲間達に対する不安も沸くが、地上に生き延びて帰ってきた者達の名を聞くにつれ、遺跡内に残っている者達も消去法で割り出せる。遅れをとらぬ指揮官達なら、まあ大丈夫だろうと思うことにした。
そして彼らが待ちわびた、指揮官格の帰還。勇騎士ハンフリーと、その後ろを駆けてくる少年騎士。チータを背負ったユースの姿を見て、いの一番に駆け寄ったのはアルミナだ。
「ユース……よかった……!」
「疲れた……チータ、もう大丈夫だろ……」
「別に最初から、走れるとは言ってた」
礼も言わずにひょいっとユースの背中から降りるチータだが、別段ユースは気にしないことにした。なんかこう、そういう奴だってのはわかっていた気がしたから。実際砂の上に降り立ってすぐ、ふぅと息をついたチータの姿を見て、そうそう楽な体で背負われていたのではないことは見えている。
猫の手を借りてでも楽して歩きたいぐらい、戦った後というのは疲れるものである。チータよりも遙かに多い数、白兵戦の中でそういう経験をしてきたユースは、そうした気持ちを批判する気持ちにはなれないのだ。戦場での戦士というやつは、こういう側面ではお人好しになりやすい。
ハンフリーが部下達に生存者の頭数を確かめる中、その過程を踏まずして帰還していない身内の名を頭に刻むガンマとアルミナ、キャルは遺跡の入口から目が離せない。ユースも帰って来てからしきりに周りを見渡して、第14小隊の筆頭である二人の姿がないことに、焦燥感を募らせている。
待つ相手が生きているかどうかわからずにいる時間は、つくづく辛いものだ。己の安否がほぼ確保された後にも渦巻く痛みに、第14小隊の胸が悪い予感に高鳴る。特に年長者の彼に関しては、獄獣との交戦という最悪の仕事を担った立場であり、最悪の想定すらずっと頭を離れない。
やがて遺跡から最後の生存者が顔を出すまでの時間が、彼らにとってどれほど長く感じられただろう。祈るような表情で遺跡の入口を見ていたキャルの目が、大男を背負う青年の姿を目にしたその瞬間、悪夢の打破に目覚めたように見開いた。
「よぉ、お前らも全員無事か」
クロムを背負ったマグニスに、矢と銃弾のように飛び出して駆け寄ったのがアルミナとキャル。シリカを背負ったままで走り出す快活なガンマの足が、兄貴と敬愛する人物の力尽きた姿に勢いよく駆けていくのもほぼ同時。
「クロムさん……」
「全員、無事だったか……何よりだ……」
すぐそばまで近寄って、涙目で自分を見上げてくるアルミナに手を伸ばし、頭を撫でるクロム。元気のない顔には違いないが、仲間の無事を嬉しそうに笑う姿が実に彼らしいものだ。いつも活発なガンマでさえも、ほっとするような表情で顔を伏せる姿に、心配掛けてすまなかったな、と一言返し、クロムはゆっくり地面に降り立つ。
「ったく、重てぇ旦那背負ってここまで来た救世主に、ねぎらいの一言も無しとはねぇ」
皮肉全開で煙草に火をつけるマグニスだが、その表情は上機嫌そのものだった。本意ではそんなことどうでもいいのだし、何より第14小隊全員無事という事実は、何事にも代えがたい朗報なのだから。
背の低いキャルがマグニスの胴元に横からしがみつき、ぎゅっと力をこめて震えている。心配でたまらなかった仲間の生還に涙をこらえられないキャルの性格なんて、マグニスにとっては百も承知だ。キャルの頭を撫でつつ、自分の都合の中では一件落着となったことに、マグニスも満足した表情で煙を吹かしていた。
クロムとマグニスの後方から、勇騎士と聖騎士が姿を現した。遺跡の中を駆ける中、マグニス達と合流した勇騎士ベルセリウスと、それに遅れて合流した聖騎士グラファスが帰還したことで、今回の戦役は完全に終了したと言っていいだろう。
「……ハンフリー。犠牲者の数は?」
「把握済みだ。帰ってから報告しよう」
平静時の柔和な顔立ちとも、戦場での鋭い表情とも違う、冷静の仮面を務めて纏うベルセリウスの胸中は、指揮官を経験したことのある者には推して計れるものだ。指揮官として満足なはたらきが出来なかったと自責する者は、撤退後にこういう顔をする傾向がある。
口にはしなかったが、第14小隊の全生存は、ベルセリウスにとって最大の救いだった。自らの判断の甘さで、番犬アジダハーカの策略にみすみす嵌められる形になってしまった第14小隊から犠牲者が出れば、その隊を率いていたベルセリウスにとって後悔の最たる要因となる。
「総員、撤退だ。アレナの休息地を超え、北のラエルカンまで速やかに帰還する」
指揮官としての表情と声で部下を導くベルセリウスの姿は、戦場の後塵の中で不安が抜けきらない部下達にとっては頼もしく映るものだ。自らの胸中など知らぬ者達に、いたずらに不安を与えることなく手を引く姿は、総指揮官としての仕事をはっきりと為していたものだと言える。数多くの魔物を討伐したという事実、罪人ライフェンを討ったという事実を捉えれば、今回の遠征は間違いなく大成功だ。魔王マーディスの遺産や、番犬アジダハーカの討伐も為せればもっと良かったのは確かだが、敵の大きさを正しく加味すれば、それは高望みが過ぎるという話。誰も気に病む必要など無いと言っていいだろう。
それでも、完璧ではなかった。自らの認識の甘さを直接的な原因として、あわや命を落としかけた者がいる事実は、人を導く立場の者ならば悔やまれて仕方のないことだ。決して完璧主義者などではないベルセリウスでさえ、そうした呵責に苦しむことはある。
ラエルカンに帰ってからが、大忙しだった。負傷者の手当て、応急処置をラエルカンで施して貰う段取り、同時にエレム王都や帝国ルオスに今回の任務での結果を報告する文書の作成、それらを早馬に乗せて速やかに首都へ届けるための手続き。最も優先されたものがこの二つで、ラエルカンに到着してすぐに、勇騎士ベルセリウスとルオスの代表ジャービルが取りかかった。医療所に駆けこむための手続きを担ったのが、勇騎士ハンフリーと聖騎士グラファスだ。名が知れているため、話が早い。
法騎士達や帝国士官達が分担して取りかかったのが、今回遺跡に置き去りになった者達のリストアップ。15名の死亡が証言から確認されており、出撃時の頭数と比較して、生きたまま遺跡内に放置された者がいないのは救いではあるが、亡骸の回収は出来るだけ済ませておきたい。戦場に赴いた者達にも、それぞれ家族がいる。遺骨を墓に入れたい遺族の想いには最大限報いたいという意志は、どの国家にも共通してあるものだ。
幸いにも命知らずの冒険家という者はいるもので、こんな時代であっても、もっと言えば魔王マーディスが存命で魔物が跋扈していた時代でさえも、一攫千金を求めて危険な地に足を向ける者は後を絶たなかった。戦場で殉死した者の亡骸に賞金を懸けて回収を促すシステムは、エレムでもルオスでも、ダニームやラエルカンでも長らく施行されてきている。それに則り、殉死者の名を挙げ、サーブル遺跡に放置された同士達の亡骸を回収する役目を募ろうというわけだ。落命した地点も可能な限り提示されるし、不謹慎な物言いをすれば、冒険者達にとっては比較的見つけやすい宝探しに近い形となる。
もっとも、魔物達の闊歩する遺跡内において、亡骸がそのままである保証などどこにもない。言葉にするのも憚られるが、落命時よりもさらに変わり果てた形になっている可能性もあり、あるいは肉食の魔物の巣まで運ばれてしまうというケースも多分にある。だから情報を受け取った冒険者達の足は早いし、この情報が出回る頃にはサーブル遺跡には多くの冒険者達が群がるだろう。たとえば野盗団など、武装したならず者の集団にとっては、ある意味では合法的に仕事を得る機会でもあるからだ。本来ならば各国が取り締まりたいようなならず者達も含めて、国が求める仕事にひっそりと群がって利害を一致させるこの縮図を見るにつけ、世の中というものは必ずしも綺麗な事ばかりでは成り立たないものだと、多くの者が若くして学ぶものである。
「魔王マーディスの遺産が潜むって情報も公開されてんのに、わざわざ行く奴がいるってのが不思議っすわ」
「金が欲しい奴ってのは、命だって賭け金よ」
医療所のベッドに横たわるクロムの隣に腰かけて、マグニスは極めて常識的な見解を述べていた。確かに賭場でも、お前それで負けたら暮らしどうすんだ、という無謀な賭けをする輩は山ほど見てきたものだが、それにしたって、である。
「命あっての物種だってのが、稼ぐ手段を失うと見失ってしまうんすよねぇ」
「職がある現状は大切にするもんだ。文無し無職になると、当たり前のことさえ見落とす」
医療所は断固禁煙なので、二人とも落ち着かない片手をぱたぱた振っている。これだからヘビースモーカーは。
「まあ、傭兵という立場ながら、お前もさっきまでそういう地に足を運んでたんだがな」
「俺にゃあ頼れる仲間がいんでしょうがよ。騎士団っていう後ろ盾なしにして、あんなクッソ危ないとこ行くわけないっしょ」
騎士団や帝国兵、傭兵、冒険者。使命にて戦場に向かう者、それに追随する形で危険を冒す者、後ろ盾無く儲けを見出し、身内で独り占めできる利益を追う者。危険な地に命を賭けて足を運ぶという意味では一致するそれぞれの立場だが、それぞれの立ち回りは根柢の部分で違うものだ。特に冒険者という人種は、魔物の討伐なんて目的は持ち合わせていないため、逃げ足ないしそれを為すための策の構成には圧倒的に長けている。立場に合わせて、人間は知恵の使い方を考えるものだ。
「傭兵はラクっすよ、旦那。騎士団の後ろ盾はあるし、いよいよとなればトンズラこいちまっても再就職先には困りませんし」
「知ってるわ。俺が何年傭兵やってきたと思ってんだ」
「なんでやめちゃったのかな~、って思って。騎士団に就職しちまうとかマジ驚いたんですけど」
マグニスの感性でも、彼が知るクロムの感性でも、傭兵という立場はクロムに似合っているのに。騎士だって別に、危険を感じれば尻尾を巻いて逃げる者はいるにせよ、傭兵と違って生き延びたってその名が騎士団に刻まれてしまう。そうなれば社会的な信用に関わるし、後の人生にも響いてくる。ならず者となった者達には、再就職先に辿り着けなかった騎士くずれや帝国兵くずれも少なくない。
「だって稼ぎがいいからよ、騎士は」
「へえ、案外旦那も安定した収入は重視するんすね」
「っていうか俺、あくまで自分の中でのルールだが、年齢に比例した稼ぎが出せないと、男として駄目だって思ってるからな」
周りにどうこう言うつもり無いけどな、と一言添えて、煙草の箱に手を伸ばすクロム。そこで手癖に気付いて引っ込める仕草が間抜けなものだ。ここは医療所。これだからヘビースモーカーは。
「まあ、旦那が第14小隊に愛着あんのはわかりますし、気持ちはわかんなくはないっすけどね。俺なら絶対騎士団になんか就職しないけど」
「働いたら負けだもんな、お前は」
「心外な。働きたくない時に働いたら負け、ですわ」
談笑する二人は、戦場から帰ってきて痛みに苛まれる周りの戦士達とは違って、和やかなものだ。そんな空気にほだされて、生き残った喜びや戦果をなんとか上げられたことを、隣の仲間と語らう者が現れることで、医療所たるこの一室の空気も随分ほぐれてきた。痛みにうなされて悶えているだけでは心まで疲れてしまうので、悪くない傾向だろう。口を利いてはいけないレベルに重傷者は、別室にて分けられているので、何も問題ない。
「そういえば、シリカの様子はどうだった?」
「けっこうキツいみたいっすよ。まあ意識は取り戻したみたいだし、命に別状はないみたいっすけど」
その重傷者が集う部屋に送られたシリカと対面する機会がないため、クロムとしても気にはなっていたようだ。元々マグニスがこの部屋に来たのだって、クロムがそれを知りたがっているだろうという気遣いに基づいたものだ。シリカの容態は、先に目を通してきている。
「そんなに気になるなら、旦那もあっちの部屋行けばよかったのに。はっきり言って旦那の方が、シリカよりも遙かに重傷じゃないっすか」
「ベッド勿体ねえだろ。俺は大丈夫なんだからよ」
充分に鍛え上げた体に加え、身体能力強化の魔法を使えることが、クロムの自信を不動としている。体の奥まで貫いた傷の深さで言えば、今回の負傷者の中では五指に入る重傷者であるはずのクロムが、こうして軽傷者の集まる部屋に身を置く根拠は、そういう側面にあった。
「……まあ、旦那がそう仰るならそれでいいっすけどね」
同時に、それが招くもう一つの弊害もマグニスは知っている。確かにどこに寝ていても変わらないのは事実だが、かと言って彼が言うほど簡単な話ではないというのに。身体能力強化の魔法は、延命には有力だが、そうそう具合のいいものではないのだ。そうでなければ誰だって、身体能力強化の魔法を極める道に走っている。
「とりあえず、ご安静に。明日にゃ王都に帰れるでしょうし、そこではいい場所入って下さいね」
「おう。王都に帰れば騎士様には手厚い福祉が待ってるからよ」
就職して正解だわ、なんて笑いながら言うクロムに、呆れるような笑いを見せてマグニスは部屋を去っていく。今夜がさぞかし大変だろうな、なんて考えつつ部屋を去るマグニスは、ようやく吸える煙草へ真っ先に手を伸ばしていた。
重傷者達の集う部屋にて安静を強いられるシリカの周りに集まるのは、第14小隊の少年少女達。チータは敢えて、怪我人と顔を合わせることを拒んだため、この場に集まったのはユースとアルミナ、ガンマとキャルだ。
シリカが意識を取り戻したと聞かされて駆けつけた4人の前、シリカは穏やかな表情で迎えてくれた。ガンマが今にも大きな声をあげそうだったので、ガンマのそばでは常にアルミナが袖を引いて舵を取っている。重傷者が集まるこの部屋で騒がしくするなど言語道断だ。
見舞いに来てくれた4人の顔をひとつひとつ見て、ありがとうの言葉を述べるシリカと、特に意に介することもなく、シリカの存命をこの上なく喜ぶユース達。相手が怪我人でなかったら、キャルなんて真っ先にシリカに抱きついていただろう。
「聞いたぞ、ガンマ。お前が私を、担いでくれたそうだな」
「シリカさん、ちょっと太った気がしましたけど」
お前が私を背負ったことなんてなかっただろ、と切り返し、それぞれが声を殺して笑う。傷ついて疲れ果てた時、共に戦場から帰ってきた仲間がそばにいる安心感は、些細な冗談でも心憎く幸福を顔まで引き出してくれるものだ。
「プロンも無事だったそうだな。もう会ってきたか?」
「はい。今、第19大隊で怪我した人達のいる医療所で、お手伝いしてるみたいです」
「そうか。あの子らしいな」
かつての短期異動期間で縁の出来た少女の無事を思い返し、彼女の話をするたびアルミナは声が弾む。シリカにとってもひと月近く面倒を見た少女であり、今は別の隊に所属していながらも、やはり一際気にかけたくなる少女には違いなかった。当時からも、やや積極的な姿勢が目立っていた少女だったし、踏み込み過ぎてもしや、なんてことも考えなくなかったから。
そばの売店で買ってきたコーンスープの入った器を、おずおずと差し出すキャル。怪我人に差し入れはどこまでしていいものか迷ったのだろう、少し腰が引け気味だったが、そうした気遣いは今のシリカにとって、口にするまでもなく胸まで沁み入るものだ。
「ありがとう。頂くよ」
春先の夜はやや冷える時間帯もあり、冷たくも熱くもない適温で持ち込まれたコーンスープの温度は、今のシリカにとって最も口に合う温かさ。自分の好みの飲み物をしっかり押さえてくる事も含めて、キャルの配慮はいつ見ても細かい。
喉を鳴らしてふぅと安らいだ息をつくシリカが、キャルの頭を撫でると、はにかんだように顔を伏せて微笑むキャル。頭を撫でられたことより、目の前の敬愛する人物が喜んでくれたことを嬉しむその想いは、周りの3人にも自分のことのようにわかったことだ。
その後、いくらかの会話を繰り返した後、そろそろ行こうかというアルミナの言葉を経て、4人はシリカに一礼する。あくまで重傷者の集う部屋、見舞いもほどほどにして退席すべき。そうした判断をするにあたっては、やはりアルミナが一枚長けている。
「それじゃあシリカさん、お大事に」
「明日は帰り道大変かもしれないけど、私達もついてますから」
「……おやすみなさい」
「ああ。ありがとう」
ガンマが、アルミナが、キャルが、その部屋を去っていく。静かな医療所の一室の中、彼らを見送ったシリカは、ふぅと息を整える。
ユースが、ここに残った。数秒前、シリカがユースには話があると言って、残るように告げたのだ。
「……御苦労様。頑張っていたな」
「あ、はい……ありがとうございます」
短い言葉を交換し、沈黙に包まれる二人の間の空気。ベッドの枕元に置かれた置時計の針の音が、こういう時にはやけに大きく聞こえるものだ。
引き止めた割には言葉を選び切っていないようで、シリカもユースの方を見て口ごもっている。相手の目を真っ直ぐ見据えないで、ユースの胸元あたりに視線が偏っているのも、目線のやり場に迷っている表れなのだろう。わざわざ話があると引き止められたユースも、変に緊張する場面だ。
とうとう何も言えぬまま、さらに目線を落としてしまうシリカ。言いたいことがあるのは確定的に明らかなこの状況、こうした態度をとる彼女の心中は、若きユースに容易く想像に及べるものではなかったものだ。
「……すまない。それだけだ」
わざわざ引き止めてまで、言いたいことがそれだけというのは、誰がどう見てもおかしな話。ユースから目を切って、自らの胸元まで目線の先を落とし込んだシリカの姿は、ユースにとっては初めて見る、心身ともに憔悴しきったことを隠しきれなくなった、憧れの人。
無言でユースの退室を願うような空気を醸し出すシリカの態度は、彼女自身も何をやっているんだと自責したくなるものだ。ユースにも、それはよく伝わる。かつて本気で落ち込んで、弱々しい顔を隠しきれない時はいつも、そばに誰もいて欲しくないと強く想ったものだった。
一歩後ろに退がる前に、ユースは口を開くことを決意する。短い時間で考え出した言葉だが、率直な想いを自然と口に出せそうな時、行動に移すのがユースという人物だ。
「……俺、もっと強くなってみせますよ。シリカさんを、守れるぐらいまで」
挑戦心。今までにも何度か、"シリカの力になれる"自分を目指していきたいというのは、相手問わず口にしてきたことだ。"シリカを守れる"自分を目指すと宣言した言葉の裏にあるのは、シリカの下から彼女を支えるのではなく、彼女を超えて力になることを意識したものに他ならない。
思わず顔を上げてユースの目を見つめたシリカの瞳には、確かな決意を表わした少年騎士の目が映る。冗談でもなく、シリカを甘く見た慢心でもなく、胸の奥に宿る熱意を口にしたユースの目は、今まで彼を力及ばない未熟な少年と長く認識していた、シリカの意識を違ったもので上塗りする。
一丁前の口を利くようになった、4つ年下の部下に抱く想いたるや如何ばかりか。ついこの間まで、頼りなくて常に面倒を見てやらねば明日にでも戦場で命を落としそうな奴だと思っていた少年が、こんな強気を叩くようになった姿は、シリカにとっては不意の夜明けに近いもの。
法騎士と騎士、上官と部下、年上と年下、男と女。シリカの胸の中に渦巻くのは、極めて具体的な言葉で表わし難い複雑な感情だ。目の前の人物を恐れず、目を逸らさないユースの眼差しの正面、シリカが返答を求められる今、この想いを正しく言葉にするには時間が足りな過ぎる。
「……やってみろ。私は、お前に守られるほど、腕は錆びていないつもりだぞ」
厳しい眼差しで刺を返してくる一方で、その瞳の奥には柔らかい光が垣間見えたような気がした。一日でも早く、憧れのシリカに認められたいと夢見てきたユースにとって、その目は僅かな前進を感じられた気がする一方、強い目を返してくるこの人を改めて見るに、壁の高さを再認識するものでもあった。
少し顔を強張らせた相手の顔を見て、いつものユースに戻ってしまったな、と感じたシリカは、口の端を緩めつつも溜め息を一つ吐いた。男子三日会わざれば括目せよ、という言葉は聞いたことがあるけれど、流石に一朝一夕で頼もしい奴に変わってくれることは無いものだ。
「明日は、よろしく頼むぞ。クロムはどうするかはわからないが、私は王都に帰るつもりだからな」
戦えるようなコンディションではないシリカだが、明日は馬車を借りて王都に帰る算段を立てているようだ。ユースによろしくと申し上げた意図は、その馬車の護送を頼むという意味。今の体調ならば、このまま数日この街に滞在して安静にしている方が確実にベターなのだが、法騎士たる地位にあるシリカとしては、少々の無理を押して騎士団本部の近い王都に身を置いておきたいのだろう。
同時に、今日のところは宿に帰って早く休んで欲しいという意図が行間が含まれた言葉だ。短く、はいと答えたユースは、礼儀正しく一礼して、部屋から去る方向に向けて一歩退く。
そのままシリカの前から姿を消す前に、一言。言うべきか言わざるべきか迷ったものだが、ユースは口にすることを選んだ言葉がある。
「……あまり、気にし過ぎないで下さいね」
恐る恐るそう言ったユースに対し、シリカが返したのは力なき笑顔。それを見てユースも、予想通り今のシリカが、今回の遠征で不覚をとったことを気に病んでいたことを確信したものだ。
わかった、と和らげた笑顔で返すシリカの顔を最後に見届け、ユースは病室を去っていく。ユースを見送ったシリカは、上体だけ起こしていた体をゆっくり倒し、枕に後頭部を置いて天井を見上げる。
暗い病室の天井だけが目の前にある。シリカはふっと首を回し、病室の出口に目線を送る。扉は閉じられており、ユース達はもうこの部屋にはいない。静かなこの一室、今の自分の姿を目にする第14小隊の少年少女達は誰もいない。
片手で両目を覆い、唇を噛みしめる自分の姿を、シリカは誰にも見せたくなかった。不覚を取り、獄獣の前に仲間達を晒したのだ。今こうして、見舞いに来てくれる彼らの命があることも、類い稀なる幸運あってこそのもの。自分含め、あの場で全員が命を落としていても何らおかしくなかった。
生きてこそあるその後悔。無事だったからすべてよし、と前向きに考えられるほど、己の力及ばずして最悪の未来への可能性を開いた自責は軽くない。今も軋む全身の痛みが、敗北の味としてシリカを締め付けると同時に、弱き自分への責め苦となって襲いかかる。未熟は言い訳にはならないのだ。あの時自分は確かに獄獣に負け、大切な仲間達を守ろうとした自らの意志は光を閉ざし、何も出来なかったという結果だけがそこにある。
悔しさで震える唇。噛み切ってしまいそうなほど両の歯で挟んで、その震えを抑えようとしても、シリカの胸を焼く悔いの痛みは晴れなかった。
 




