第82話 ~サーブル遺跡⑤ 裁き~
「――聖騎士グラファス様!」
ライフェンを遙か先に見据え、長き遺跡の道を駆け抜けてきた法騎士タムサート率いる部隊が、聖騎士グラファスとアースヒドラの交戦する戦場に辿り着いた。いや、正確には、交戦していた戦場と言うのが適切だろうか。
「ご苦労。数名の無事を確かめられただけでも、安心できた」
猛将の名で知られる聖騎士は、孫を見守る翁のような穏やかな目で、後方から駆けつけてきた部下や、帝国の若者達に振り返った。草履を履いた足元に転がる、巨大な蛇の亡骸の数々は、すでに掴み取られた彼の勝利を表すには充分な光景だ。
「ハンフリー様はこの先に進まれた。我々も、その後を追う」
バラバラにおろされたアースヒドラの亡骸を踏み越え、後方の部下を導くグラファスの背中は、頼もしいと同時に恐ろしいものだ。追いついたタムサート達の隣に、息ひとつ切らしていないグラファスの部下達がいることからも、後衛の手助けもほとんど借りず、グラファスがアースヒドラという巨大な怪物を討伐した事実は推察できるのだから、尚更である。
その折、グラファスの前方から彼に向かって走ってくる影が目に映る。一瞬警戒したグラファスだったが、それらが少数の騎士団員であることを見定め、刀に手をかけていた手を少し緩めた。
「お疲れ様です……! あーっと……えっと……」
「聖騎士グラファス様!」
息を切らしてグラファスの前に立ったガンマが、相手の名前を思い出せずに言葉を詰まらせる後ろ、アルミナがその記憶を掘り返させる形で一言放つ。どうもガンマは、人の顔を覚える習慣が足りない。
まずグラファスの目を引いたのは、少年傭兵に背負われて気を失った法騎士シリカの姿だ。さすがに部下の顔すべてを覚えているグラファスではなかったが、彼女の姿を見て、ガンマやアルミナ、キャルの顔が、過去2度同じ戦場に立って活躍したと名を聞く、第14小隊の面々であると把握する。
「状況は?」
「この先……この先に、獄獣がいて、シリカさんも負けちゃって……ライフェンは見つけたって、第14小隊の魔導士が追いかけてます……!」
息を切らせながらも、今の状況を端的に言い表すアルミナ。飛び飛びで語られる2つの情報は、アルミナの混乱を匂わせるものでもあったが、その目がしっかりとグラファスの方に向けられていることから、グラファスはその途切れた情報から状況を冷静に推察する。
「ここまでで勇騎士ハンフリー様や、ライフェンとは顔を合わせなかったか?」
「え? い、いえ……ハンフリー様にはお会いしましたが、ライフェンとは特には……」
「そうか」
グラファスの前方にはライフェンを追うハンフリーが駆け、その方向からアルミナ達が来た。そのアルミナ達がハンフリーとだけ顔を合わせ、ライフェンとだけ顔を合わせなかったということは、ハンフリーが進んだ道とライフェンの逃亡路が一致しない可能性が高い。同時に、獄獣がこの先にいるという事実を踏まえると、グラファスとしても決断の難しい局面だ。
「――法騎士タムサート。全部隊を撤退させよ。獄獣と遭遇することあらば、誰も太刀打ちできぬ」
「……かしこまりました」
それは極めて妥当な判断であった。タムサートとて獄獣と直接顔を合わせたことは無いが、目の前に獄獣に敗れた法騎士の姿があり、ベルセリウスとグラファスの二人を同時に相手取っても傷一つつけられなかったと言われる獄獣の危険性は、察知しなくてはならない。
「そなたらは、彼らと共に撤退せよ。彼女を、安全な所まで運んであげなさい」
穏やかな目で傭兵少女に語りかけるグラファスが示唆したのは、彼女らにとって大切な人であろう、シリカを守り通せという手引き。ずっと不安そうな顔で、ガンマに背負われたシリカのことを気がけていたキャルを顧みて、アルミナも、言葉無くグラファスに対してうなずいた。
「第14小隊、こちらへ。撤退しよう」
「はい……!」
タムサートに導かれる形で、ガンマやキャルがそちらに向かう。緊張の糸が切れたかのように、町角を歩く一人の少女と変わらぬ目に戻ったアルミナが、シリカを背負うガンマに真っ先に近付く。未だ目を覚まさぬ彼女を案じたくて仕方無かった想いが、ここにきて一気に溢れ出したのだろう。
法騎士タムサートや帝国兵士官に導かれて後続の兵が撤退し、単身となったグラファスは一人で進軍する。先に立つハンフリーの助けとなるため、獄獣の動向を押さえるため、ライフェンを追うため。それらの目的を背負ってこの先、警鐘鳴り響く危険地帯を走れる者は、もはや自分しかいない。そう正しく判断した聖騎士の孤独な進軍が、終戦に向けて加速した。
魔力でも身体能力でも勝る敵を打ち倒すにはどうすべきか。極めて単純な話だが、自らの魔力が底を尽く前に敵を戦闘不能にするしかない。敵の魔力切れを誘発するまで粘れる見込みがあるならば話も変わってくるが、先人かつ魔物の血を得た相手を前に、それは難しい話だろう。
「開門、落雷魔法……!」
敵の魔法を回避しつつ、単調な雷撃を繰り返すチータの動きは、そうした当たり前の戦い方とはかけ離れたものだ。魔力によって足に風を纏い、脚力を超えた速度で駆け回るライフェンにとって、この程度の攻撃を回避するのは難しくもなく、チータがやっているのは魔力の無駄遣いにしか見えない。
チータに接近し、杖を振るって攻撃するライフェン。チータも素早く、宙を蹴る魔法を展開して素早く上空に逃れる。勇騎士ベルセリウスの得意魔法、浮遊歩行と同様、何もないはずの空中を蹴って動ける空中歩行の魔法だ。風を纏う足でそのまま追撃しようとするライフェンに対し、チータも業火球魔法の魔法を放って迎撃する。それも普段とは違い、空間の亀裂を作っての発射ではなく、掌から放つ砲撃だ。
「開門、雷撃槍……!」
「むぅ……耐魔結界!」
眼前から迫る大きな火球を魔法障壁で防ぐ前方、掌から魔法を放った反動を推進力にし、チータは加速してライフェンから離れていく。続け様に視界を塞がれていたライフェンに向けて、稲妻の槍を放つチータ。詠唱だけを耳にしたライフェンは、全身に防御の魔力を纏うことで安全策を張る。稲妻の槍はライフェンを貫くが、決定的なダメージにはならない。
チータの戦い方があまりにも向こう見ずで、ライフェンは逆に警戒心を強めている。こうして防御に魔力を費やす自分に、魔力切れを促そうとしているなら非合理だ。チータの魔力の方が先に底を尽く。そんなこと、チータがわかっていないはずがないのだ。考えなしで、こんな戦術を取る猪武者の魔導士なら、こんな所まで生きて辿り着いているはずがない。
詠唱もなく息をするように行使するのも簡単な耐魔結界の魔法を、わざわざ詠唱してライフェンが唱えたのは、少しでも魔力の消費を抑えようと意識づけた術者の表れ。それを耳にしただけでも、チータはこの戦術を踏んだ甲斐はあったと思っている。
警戒させ、攻め手を鈍らせる。これ以上接近戦を繰り返されては、それこそチータは苦しい。魔力の浪費は著しいが、釣り合うだけの収穫はあった。
「開門、浸意の水術!!」
空中で足元に足場を作る魔法を展開したチータから離れた地上、大きく開かれる水色の空間の亀裂。家屋の玄関ほどの大口を開けたそれが、その大きさを超える大量の水を、まるで岩壁を決壊させて吹き出す鉄砲水のようにライフェンに向けて発射する。
一瞬でその魔法の思惑の先を推察したライフェンは、風を纏う足を蹴って空中に逃れる。まるで隼のように空中を滑るライフェンの肉体が、水を招く魔力を展開中のチータに向かってまっすぐに飛来し、その杖を振るって迫り来る。
勝負所でこの一撃を受けるわけにはいかぬチータが、さらに上空へと跳ぶ。その動きを見送りながら、空を駆け抜けるライフェンは振り返ってチータを、同時に彼の召喚した水を呼び出す亀裂を視野に入れる。亀裂は未だに大量の水を発射し、広いこの一室の床を浅い水で満たしている。
「昇岩術!!」
ライフェンが詠唱したその瞬間、チータの真下にあたる地面が大きくひび割れた。石畳が砕け、無数の瓦礫と岩石に変わったかと思った瞬間、空中にあるチータの位置めがけて、多量の岩石群が上空に向かって発射される。
空中の敵めがけて岩石を落とす魔法、岩石弾雨の魔法に対し、砕いた地面の岩石を上昇させることで空に舞う敵を撃墜するライフェンの術に、チータは空中で必死に回避をこなしながら舌打ちする。なぜならライフェンが今の魔法を行使するにあたって、石畳を岩石に変えて上空に放ったことで、地上に大きな穴が開いてしまったからだ。地表を満たす水がそこに流れ込んで、水位が低くなる。
「これで終わりだ……! 礫石渦陣!!」
ライフェンの起こす竜巻のような風が、チータのいる場所を中心に乱気流を生み出す。そしてその風は、地上を離れて空中に散分していた岩石、瓦礫、小石を魔力で以って捕え、凄まじい風の中に岩石の数々が乱舞する危険地帯を生み出すのだ。
空中に石の数々を跳ね上げて攻撃しつつ、後の大魔法のアシストを兼ねた昇岩術。さらには荒ぶる風で敵の動きを拘束しつつ、その岩石を再利用して弾丸の数を増した礫石渦陣の連鎖攻撃にチータが表情を歪める中、人の頭ほどもある大型の岩石がチータの斜め下から勢いよく差し迫る。
風の流れに自由な動きを許されぬチータも、なんとか魔力で構成した空中の蹴り場を武器に、身を逃がしてそれを回避した。その遠方でライフェンがにやりと笑ったのは、拳ほどもある瓦礫の一つが、そんなチータの真横から勢いよく飛来していたからだ。そしてその瓦礫は、対象が気付いた一瞬あと、その脇腹に着弾し、少年の肉体に深くめり込んだ。
瓦礫が自らの肋骨を貫いた衝撃に、吐瀉物を促されるチータ。その一撃は詠唱を為そうとする肺にも深い影響を与えるものであり、魔導士にとっては二重の意味で手痛いダメージだ。
「っ、が……圧撃、召水……!」
それでも胃液より早く、詠唱を口にするチータ。ここで手を止めれば、そのまま敵の追撃による敗北への道が見えていたからだ。開門の一言を断ってでも魔法の名を口走ったチータの敢行が、ライフェンの頭上に巨大な青い亀裂を作り上げた。
敵である魔導士の急所である肺の近くに瓦礫が直撃した事実に、勝利を半ば確信したライフェンの油断。一瞬その魔法の行使に気付くのが遅れたライフェンの頭上から、チータの呼び出したとてつもないほどの水が、滝のようにライフェンに襲いかかる。
「がふ、っ……! ひ、ひしめく闇を貫く幾閃の矢……!」
その流れは重みを以って、ライフェンを地上へと叩きつける方向に流れている。ライフェンは飛ぶ鳥も羽を折るような多量の水を浴びながら、その水の魔力に抗うための魔力を展開し、空中になんとしても留まろうとする。今、水に満たされた地上に落とされることは、間違いなく危険だ。
「開、門……! 落雷魔法陣!!」
空中にある亀裂から下に吹き出す水柱。その中にライフェンが踏みとどまる。その形でも別に構わない。本来口にすべきはずの前詠唱も半ばに打ち切り、咳きこむことを強いようとする肺に抗って大魔法を唱えたチータの周囲に、6つの亀裂が発生する。そしてそれらの放つ強力な雷撃が、水に満たされた地上に向かって勢いよく放たれた。
地表を浅く満たした水は、チータの魔力を身に背負うもの。浸意の水術と圧撃召水によって呼び出された多量の水は、地表近くでチータの稲妻を受けると同時にその電力を受け取り、水面を駆け抜けさせる。そしてライフェンの真上から吹き出して地上と繋がる水柱の足元まで達すると、勢いよくその水柱を駆け上がっていく。そう、ライフェンを中に捕える巨大な水柱の中をだ。
周囲を水に満たされたライフェンを、一度地上まで落ちたチータの雷撃の電流が包み込む。魔力の流れを感知するライフェンは、水の中にあって詠唱を口にすることを防がれたまま、全力で魔力を絞り出して耐魔結界を身に纏う。稲妻6本ぶんの強烈な電撃が、いくつかの電力を他方に分散しつつも、伝導率の高い水の中を駆ける凄まじい電力が、魔力で全身を守ろうとするライフェンの表情を歪めさせる。
上から自らを押さえつける水に抗う力、電流から自らを守る力。それらを両立させる魔力を捻出することが、いかに膨大な魔力を必要とすることか。魔物の力を得て、かつての限界を超えて今の自分の天井を正しく知らぬライフェンは、自らの想定を僅かに超えた無謀を踏んでいる。半ばわかっていながらも、この状況はそうせざるを得ないと苦渋を意識しているだけでも、まだ冷静ではあった。
そんなライフェンの正面位置、6つの稲妻を呼び出す少年魔導士の目の前に集まる、膨大な魔力。身を守ることに傾倒していたライフェンがそれに気付く頃には、チータの作り出した光り輝く巨大な亀裂が、まるで大砲の発射口のようにライフェンを狙い澄ましている。
チータ周囲に降りしきる、6つの稲妻の魔力が一気にその亀裂に集まっていく。それは、まさに今ライフェンを地上から襲うための稲妻の魔力を、そのままこれより放つ決定打に向けてかき集め、とどめの一撃の燃料とするための魔力の動き。
かつてレットアムの村で逃亡者が見せた手法。火炎障壁で戦場に顕現した炎の魔力をかき集め、爆炎魔法の火力として用いて最大限の爆発を為した業。チータが為そうとしているのは、まさにそれに等しい魔力のサイクル術。
「開門……! 落雷魔法陣!!」
とどめのひと声を発した瞬間、押さえこんでいた肺の悲鳴をチータは大きな咳に変えて吐き出す。そしてその苦悶を乗り越えた詠唱の甲斐あって発動したチータの必殺魔法に代わり、これまで水を召喚していた亀裂は消え失せる。直後チータの目の前に大口を開けた亀裂が、ライフェン目がけて特大の稲妻の砲撃を放つのだ。
象の全身をも包み込めるような、太く巨大な光の道筋。稲妻の特大光線とも言うべきチータの切り札が凄まじい速度でライフェンに迫り、逃げ遅れたライフェンを一瞬で呑み込んだ。その瞬間にライフェンの全身を貫いた熱と衝撃、全身の筋肉をねじ切る電撃の外力が、防御のために全身を包んだ魔力を貫いてライフェンに襲いかかる。悲鳴をあげるための喉の筋肉さえもその電流に打ちのめされ、声もなく瞳孔を見開いたライフェンは完全にチータの破壊魔力の支配下におかれた。
その砲撃が空を駆け、ライフェンの体を捉えた時間にして約3秒。勝負はその時間の中で完全についたと言っていいだろう。度重なる大型魔法の連発に、空中に身を置くのも苦しくなったチータは、半ば魔力を切らしたかのように急速に地面へ落ちていき、地面落下の衝撃だけ魔力で緩衝して膝をつく。水に押されて地面に近付いていたライフェンが、光が消えるとともに地面に吸い寄せられ、
力なく地面に叩きつけられたのがその後だ。
生身の人間に放てば間違いなく即死を促す砲撃ではあったが、敵は魔物の血をその身に宿す魔導士。生への執着心でここまで逃れてきたライフェンの精神が絞り出す防御魔力は、彼を絶命までは至らせはしないだろう。砕かれた脇腹へのダメージと、膨大な魔力の消費による意識のゆらめきに押されつつ、チータはまだ構えた杖を降ろすことが出来なかった。
直後、倒れ伏したライフェンの体が淡い光を放つ。魔力の解放を匂わせるこの光景に、警戒を怠らなかったチータは素早く対応することが出来た。ライフェンの杖先から放たれた、風刃魔法の風の刃が、横に跳ねたチータの頬のすぐそばを通過していく。
「兄上……」
「ふざ、けるな……俺が、お前如きに……!」
両手で強く地面を踏みしめ、膝を引き寄せ、軋む体を立ち上がらせるライフェン。どうあっても、弟に負けた末に帝国の縄につく未来を受け入れたくない彼の魂が、さらなる抵抗を試みるべく魔力を絞り出すのだ。
「それ以上の魔力の行使は、もはや……」
「黙れ!! 四陣風激!!」
ライフェン後方に渦巻いた空気の渦から、チータ目がけて発射される風の砲撃。意識も虚ろになりかけたチータにとって、回避を強いられる動きというのは未だに苦しい。しかし、ライフェンの放った魔法の一撃はわずかに狙いがぶれ、チータは最小限の動きで容易く回避することが出来た。
「はぁ……はぁ……ま、負けんぞ……! 風円……」
もう、終わったのだ。"渦巻く血潮"を身に宿した人間が無茶をすればどうなるか。今も広く語られ知られるその史実を聞き及んだことのあるチータにとって、彼の未来はもう知れている。
「っぐ……が……!?」
詠唱半ばにして、ライフェンがその言葉を詰まらせた。同時に、胸を抑えてうずくまるライフェンの動きが、彼の人としての半生の終わりを告げるものであると、チータも知っている。
「ば、馬鹿……ナ……!? 私は、まだ……」
高位の魔力を抱く魔物の血を流す者は、その血と肉体の調和を取るための魔力が必要となる。ネビロスという、高い魔力を持つ魔物の血を肉体に宿すライフェンは、高い魔力を得ると同時に、その肉体に流れる血と、肉体が共存するための魔力を常に失ってはならなかったのだ。
己の魔力の高さを過信していたライフェンが、精神と霊魂が生み出す魔力が底を尽きた今、その肉体はどうなるか。高い魔力を絞り出してくれるネビロスの血は、魔物に比べて脆弱な人間の肉体内に流れる中で流動の様相を変え、体組織のバランスを著しく書き換える。言うなれば、体内に流れる血の全てが、"異物"としてライフェンの肉体に認識される形となる。
人間の肉体が、体内に流れる魔物の血と反発する。魔力を失ったライフェンは、体すべてを包み込む異常を抑えるすべを持たない。胸元を握りしめて苦しむその姿とは異なり、腕を、脚を、頭を、全身を包み込む激烈な痛み。人間の肉体は、異常があれば痛みを放つのだ。ライフェンの全身を巡る魔物の血は、全身に異常があると体が訴えかけるには充分な要素。
「ギっ……げ、ハ……!?」
全身の血管が体内に流れる魔物の血の流れを止めようと、不規則な動きをする。全身の血管がそうなるのだから、どこかに血が偏る。ちょうどライフェンの肩口あたりに溜まりきった血が、肩の肌を膨れ上がらせるほどに鬱積し、直後その血管と肌が爆裂しておびただしい血を吐き出す。人間の血液とは作りからして根本が違う魔物の血が、悪夢のような光景を描く瞬間だ。
それは地獄の始まりにすぎない。魔物の血を体外に送りだそうとする、人間としての血液の流れはさらなる血をその傷口から噴き出させようとするが、全身の血がそちらに向かうのだから逆流する部分も現れる。乱暴な血の流れによって、ライフェンのこめかみの辺りが先程の肩口と同じように膨れ上がり、ここも同じく爆散する。そしてそのあまりの爆散の衝撃で砕けた、ライフェンの頭蓋骨の一部の破片が、音を立てて地面に落ちるのだ。
その衝撃で体を支えられなくなったライフェンが横倒れになっても、全身の破壊は止まらない。痙攣する全身のあらゆる所が爆散し、先程まで水に満ちていた石畳を、ライフェンの血が、魔物の血が、真っ赤に染めていく。
血の繋がった兄が無残に砕け散った姿を見るチータの目は、極めて冷ややかなものだった。罪人たるサルファード家の癌、ライフェンを、この手で一発でも殴り飛ばしてやりたい気持ちはあった。彼を裁く権利が誰にあるのかは知らない。しかし、誰がその手を下すまでもなく、ライフェンを裁いたのは彼自身だと言える結末だっただろう。
魔物に魂を売り渡した人間は、自らが受け入れた血によって裁かれた。ある意味では皮肉であり、ある意味ではあるべき形に辿り着いた兄の最期。チータはその目に、その事実を焼きつけた。
「まずいな……すぐに、動けるだろうか……」
いつ、魔物が襲ってくるかわからないこの状況下、疲弊して動けないのは恐るべき窮地だ。見回す限りに魔物の姿は無いものの、数秒後にはどうなっているかわからない遺跡内。チータは立ち上がり、同時に目の前が真っ白になりそうな感覚を踏みこらえ、杖で体を支える。こんなに魔力を消費し、自らの精神と肉体を繋げ支える霊魂を、使いものにならなくさせたのは久しぶりのことだ。
意識が飛びそうな中ではっきりと耳に届く、チータのいる位置に駆け寄ってくる足音。僅かな音にも敏感に反応するチータの神経が逆立つが、遠くともそれが魔物の足音ではなく、靴が石畳を蹴る音だとわかるにつれて、チータは徐々に胸を撫で下ろす。
「チータ……!」
遺跡の一角から顔を出した少年の姿は、間違いなく味方だった。この部屋に降りるための長い下り階段は自分が破壊してしまったが、別の入口から駆け入ってきたユースが、足を速めてチータに近付いてくる。
なんだか弱みを見せたくない相手なのか、杖を支えに立つことをやめ、目の焦点を定めてユースと向き合うチータ。ほんの少し相手の背が高いのも、こういう時には意識してしまう。
「……チータがやったのか?」
遠方で無残な姿となったライフェンを見たユースの一声はそれだった。昔、ひったくり犯に過剰な裁きを加えた自分と揉めたことのあるユースの前、チータもどう答えようか迷ったものだ。客観的に見て、誰がどう見ても自分が兄を引き裂いたようにしか見えなかったから。
「……自爆だ。僕は自分が生き残ることと、兄を捕えることに全力を費やしたつもりだった」
わざわざ嘘を作る必要もない。魔導士の少年は真実を語り、それを耳にしたユースは、改めてチータの方を向き直る。
「……そっか」
疑わしいような目を返してこなかったユースの態度が、チータには意外だったものだ。そんなユースの後方から騎士団の偉人が近づいてくることにも、そのせいで一瞬気付くのが遅れてしまう。
「ライフェンは死亡、か。亡骸を回収しようにも、あの有り様ではな」
勇騎士ハンフリーの冷淡な声がチータの耳に届く中、チータもその言葉には同意だった。さすがに実兄、遺体を持ち帰って供養するぐらいの器量はあってもよかったかもしれないが、あまりにもライフェンの亡骸がひど過ぎる形で、背負うも担ぐも憚られるのは仕方ない。自分も嫌だし、他人にそれを頼むのは良識の問題であり得ない。
「走れるか?」
「ええ……なんとか……」
撤退を促そうとするハンフリーがチータに語りかけ、チータは靴先で地面をかつかつ鳴らしてうなずいた。一瞬目まいで目の焦点がぶれそうになるが、目を閉じて深呼吸することで誤魔化す。
歩きだそうとしたチータの手を突然握って引き寄せた者がいた。何だ一体とチータが驚いている間に、チータの体を引き寄せてひょいっと背中に背負う少年の後頭部が、チータの目の前に現れる。
「無茶するなよ。どう見たって、疲れきってるだろ」
「む……」
全体重を預ける自らの重みを一身に背負い、ユースがそう言ってくることに反論できないチータ。背負われる際に握っていた杖を落とさなかっただけでも対面は保てた気がするが、これではどうにも。
「騎士ユーステット、大丈夫か? 君も、疲れが無いわけではあるまい」
「大丈夫です」
ハンフリーの問いに淀みなく答えたユースの目は、勇騎士が少年騎士にその責を任せるには充分と言えるものだった。まあ、両の手を開けて、道中で魔物と遭遇しても戦える役目を担う立場に自分が立てるなら、それはそれで最も望ましいことだ。少年一人守って遺跡を駆けるぐらい、どうという難しい話でもあるまい。
「よし、撤退しよう。ライフェンの亡骸の処遇は、後日考えることとする」
ハンフリーがゆるやかに駆ける後ろを、同い年の少年を背負ったユースが遅れずについて走る。隊長のシリカとよく似て、体を使うことにかけてはつくづく愚直な奴だと、背負われる立場のチータもついつい思ってしまったものだ。
同時に、自分にはないものを発揮して支えてくれる姿が頼もしいと感じたのも、ここだけの話。まさかそれをこいつに伝えることはないけれど、と考えるにつけ、チータはこらえきれない笑いを一息漏らしてしまう。
「なんだよ、何か笑うとこあったか?」
「……別に」
疲れた時に、そばに仲間がいるというのはいいものだ。孤独なサルファード家に生まれ育つ中では経験したことのない感覚に、危険な戦場下、チータの心は不謹慎にも安らいでいた。
 




