第78話 ~砂漠の獄獣② 勝機ここに在らず~
「っ……!?」
遺跡内を駆けていた逃亡者、ライフェンの足が唐突に止まる。後方から迫る、タムサート率いる騎士団と帝国兵から逃れるために走っていたさなか、前方にまた違う人影が見えたからだ。
こんな状況、こんな時分に、発掘者が遺跡荒らしがこの場所を訪れるはずがない。間違いなく、後方から迫る部隊とは別の部隊が、自分を探してここまで来ているのだと確信し、ライフェンは思わず柱の陰に隠れる。
「落ち付け……ここは、突っ切るしかないはずだ……!」
じっとしていても、向こうにいる魔導士の誰かがこちらに気付く可能性は低くない。この広い遺跡でたった一人の人間を探すために駆ける帝国兵が、魔力の探知に長けた魔導士を引き連れていないなんてあり得ない。目と耳と指名手配所だけ頼りに無策で突っ込んでくる国家ども相手なら、何と楽な話か。
「――礫石渦陣!!」
高純度の魔力を惜しみなく注いで詠唱したライフェンの魔力は、目先の人間達の中心で巨大な風を作りだす。竜巻となったその風は地面を抉り、砕かれた地面が大小様々な石を跳ね上げ、風の軌道にその石をの数々を乗せて操る。砂と岩石を取り込んだ土色の竜巻は、騎士団と帝国兵の連合軍の中心で大きく渦巻き、その圏内に近付いた者に岩石をぶつけ、砂をかけ、混乱を生じさせる。
半ば不意打ちの魔法にも、その場に居合わせた魔導士の数々が魔力を絞り出し、自らの風の魔法と土色の竜巻をぶつけ合わせ、魔力の消沈を図る。そしてライフェンは、彼らがそれに気を奪われている隙を見て、その隊のすぐそばを素早く駆け抜けて望む方向に駆けていく。
「あれは……!?」
土属性と風属性の魔力を複合したライフェンの上級魔法に困惑させられながらも、ルオスの精鋭魔導士達は、近くを駆けた不審者の動き、魔力の移ろいを見逃さなかった。ライフェンが駆けていったその先がどこであるかを見届けながらも、術者が離れた土色の竜巻を鎮めることに、速やかなる対応を為す。
「勇騎士ハンフリー様! 対象を補足!」
「聖騎士グラファス様! ライフェンはあちらへ!」
この部隊の二大巨頭である騎士二人は、距離をとって戦場を駆けている。魔導士達が報告する先は、自分に近い方の指揮官に対してだ。そして彼らの指し示す方向がいずれも一致していることに、ハンフリーもグラファスも情報の的確さを迷わず確信できる。
ライフェンの竜巻によって人間達が怯まされ、傷を負った者もいる。戦闘不能になった者のそばに何人かの兵を残すことを指示した後、ハンフリーとグラファスがライフェンを追う道を駆けていく。勿論、ライフェンの魔力を追える優秀な魔導士も引き連れてだ。
広き遺跡からたった一人の人間を探すはじまりから、いよいよ対象の動きを捉えた所まで来た。近付く決着をさらに速めるため、勇猛なる騎士達が遺跡内を全速力で進軍する。
ひとまずシリカ達が目指すのは、他の隊との合流だ。ライフェンの捜索も同時に出来ることなら叶えたいが、手がかり無き中でそれを主たる目的とするのは、あまりにも博打が過ぎる。
ただ、第14小隊にも懐刀はあった。それはライフェンの実弟であるチータが、ライフェンの魔力を探査することが出来るかもしれない、という点。幼少の頃から長らくライフェンと接してきたチータは、ライフェンの魔力については誰より敏感になり得るし、本来そうした探査魔法を得意としないチータも、ライフェンが犯罪者として指名手配となったあの日から、そうした魔法を使いこなすための修練は密かに積んでいた。こんな日が訪れるかもしれない、という想定がある状況下だった以上、チータも手をこまねいてひと月半を過ごしてなどいられない。
不安はあった。長らく顔を合わせていないのは事実だし、血の繋がりがあるとはいえ、ライフェンの魔力がそばにあっても、感じ取れるかはわからない。ひと月半の付け焼き刃に近い、魔力探知の技術がいざという時に活きてくれるかもわからない。シリカ達もチータ自身も、この件に関しては強い期待を敢えて抱くことはせず、上手くいけば良い程度のカードと捉えていたものだ。
「…………!! 隊長!」
そのチータが、目を見開いてシリカの名を呼ぶ。チータの前を駆けるシリカも、その声の色からチータの訴えかけたい何かに、それだけの意味があることをつぶさに感じ取る。
「そこを右です! 兄は、ライフェンはその先にいます!」
「――よし!」
それ以上の言葉は要らない。確信に満ちた部下の言葉を信じ、示された方向に向けて走るシリカに、第14小隊が置き去りにされぬようその足を全力で走らせる。
天井も高く、幅も広い巨大な回廊。後方と前方に長い一直線の道が伸びるその場所を駆けるシリカ達第14小隊に、やがて予想を超えた障害が現れた。
「っ……!」
誰もが足を止めかけた中で、シリカはなおもその足を加速させた。目の前に待ち受ける巨大な魔物は、その手に握ったバトルアックスを即座に構え、騎士剣を握るシリカに対して構えて見せる。
シリカが攻撃射程範囲内に入ったその瞬間、その魔物はシリカ目がけて斧を薙いだ。人間の肉体にそれがぶつかれば、鎧や兜を突き抜けてその身体を粉々にするであろう一撃を、前進するその速度を一瞬で後方へのベクトルに変換する強いバックステップで回避したシリカは、さらに即座に地を蹴って前に向かう。ストップ&アウェイ、直後瞬時のインファイトを鮮やかに為したシリカは、斧を振るって無防備になったはずのその魔物の腹部目がけてその騎士剣を振るう。
膝を振り上げたその魔物の、ミスリルにも勝る硬度で膝を包むプロテクターによって、その攻撃は火花を散らして食い止められる。先手必勝を防がれたシリカは、この怪物と距離を詰めて立ち続ける危険を全身で拒否し、すぐにその膝を蹴って一気に離れる動き。
その瞬間、シリカに並んで加速していたユースとチータは、その巨大な魔物の横を通り抜け、少し進んだその場所で振り返る。一本道のこの空間で、ユースとチータ、シリカとガンマとアルミナとキャルが、現れた脅威を挟み撃ちにする形でそれぞれの武器を構える。
魔獣ミノタウロスの上位種にあたる、ビーストロードと呼ばれる怪物。大人が大人を肩車しても天井に頭が届かないであろうこの空間において、手を伸ばせばその天井まで手を届かせかねない長身、そして白銀の体毛に全身を包んだ雄牛の頭を持つ人型の魔物が、前後の人間達を見据えながらその鼻息を荒くする。魔王マーディスや獄獣ディルエラが練成したと言われる、ミスリルにも勝る硬度を持つ武鉱石で作られた、バトルアックスと肘当て、膝当てで武装した怪物は、あのミノタウロスさえも可愛く見えるほどの怪力と速度を持つ、とんでもない生物であると言い伝えられている。
法騎士であった頃の若き日のベルセリウスが、単身それを討伐した時には、未来の勇者の誕生であると騎士団内でも大喝采であったその存在。それだけ討伐には困難を極める存在であり、それを今ここ、一人の若過ぎる法騎士と、数人の傭兵だけで応戦しなくてはならない現実。隊長たるシリカの脳裏に、最悪の事態が想定されたことなどすでに数秒前の話だ。
「……チータ! 行け! ライフェンを追い詰めろ!」
それでも、シリカの下した指令はそれだった。シリカ達とで挟む形で、ビーストロードの討伐を図ろうとしていたチータの意志に反し、ライフェンの魔力を追えるチータを、そのはたらきに向けて駆けさせる決断。そしてそれが意味するところは、チータを欠いた人員で以って、シリカはこのビーストロードに応戦するという覚悟を示している。
迷いは一瞬あった。だが、チータは素早く踵を返し、命令に殉じる。不安がなかったわけではない。だが、迷うぐらいならば信頼できる先人の命に従うという想いのもと、迅速な決断に踏み出したチータを、ユースが横目で見送ってビーストロードを睨みつける。
「――ガンマは、アルミナとキャルを頼む。奴は、私達が片付ける!」
「了解っす……!」
マグニスのいない今、後衛を守る役目をガンマに託したシリカは、ビーストロードを討つ役目を、自らとユースの二人の手に握る。騎士剣を構えるシリカとユース、斧をひと振りするガンマ、銃弾を補充するアルミナと弓を矢に番うキャル。そして、太く長い柄を持つバトルアックスを握りしめ、重く恐ろしい唸り声をその口から溢れさせるビーストロード。
目線を通わせたシリカとユースが、ほぼ同時にその足を蹴り出した。
ただ、強い。それ以外に獄獣を形容する言葉を、クロムは見付けられなかった。
その手に握る斧から繰り出される、連続攻撃。ただ振り回しているだけに見えて、的確にこちらの足取りや動きを予測して、回避の難しい角度から何度も振るわれる斧。回避を重ねて隙を突いた反撃に移ろうにも、頑強な腕輪を盾代わりに纏う、空いた左腕が常に良き位置にあり、隙がない。
そして獄獣の斧が奏でる、その音だけで鼓膜を破ってきそうな凄まじい風切り音。その速度と一度槍を交えた僅か前の経験則から、その攻撃は武器で食い止めることはおろか、はじき返すことすら困難であると知れた、圧倒的なエネルギーを持つ重攻撃。回避以外の手段が何一つ許されない攻撃だ。
「――チッ!!」
好転し得ない状況に突破口を開くべく、クロムはディルエラの攻撃をかいくぐってその槍を突き出す。岩石で全身を構築したゴーレムの肉体さえも砕く、圧倒的なパワーを一身に貫く一撃を、腕輪と槍先を衝突させてディルエラが防いで止める。
「たいしたパワーだな……! 人間でそれだけの力を出せる奴は久しぶりだ!」
腕を振り上げクロムの槍を空中にはね上げると、クロムは後方に跳びながら槍を手放さず、宙返りをする形でディルエラから距離を取る。今この武器を手放すことは、敗北と死を意味した未来に直結する。
「見せろよそのパワー、もっと……! それで限界なんて言わねえよなぁ!!」
突進するディルエラが、その斧を大振りに振り下ろしてきた。目線の動きから、いくらでもクロムの動きに合わせてその攻撃は軌道を変え得るのだろう。
隙があると見えたわけではない。だが、これに対する反撃の他に、この怪物に一矢報いる形を想定できないクロムは、勝負を賭けて足を踏み出した。ぎりぎりまで引きつけた、頭から自らを真っ二つにすべく襲いかかる斧を、斜め前方に踏み出して回避する。自らに迫ったその瞬間、ディルエラの斧が僅かに加速したことからも、大味に見えて緻密な技術を秘めた獄獣の手腕が示される。
地面に突き刺さるディルエラの大斧が地を揺らすすぐそば、クロムが突き出した槍はディルエラの顎元を下から突き上げる一撃。敵の攻撃を回避と同時にカウンターで繰り出すこの一撃を、斧を振り降ろした直後のディルエラに回避できるはずがない。的確な狙いだったはずだ。
ディルエラの左拳が、その槍先を横殴りに叩き飛ばす。突き進むはずだった軌道は無かったことにされ、大きく逸れた槍に合わせ、上ずるクロムの肉体が描く、大きな隙。
斧を手放したディルエラの右拳が、近くクロムの肉体に向かって音速の如く襲いかかる。隙だらけの立ち姿から迅速に槍を引いて構え、さらには後方に跳んでのクロムの対応は、今の状況から思えば完璧な立ち回りだった。目の前に構えた槍の柄で、ディルエラの拳を受けるしかない。
そして、ディルエラの拳が槍に衝突した瞬間、それは起こった。槍を握るクロムの手先から腕へ、さらには胴体と腕の接合部である肩まで貫いた、あり得ないような重い衝撃が、槍と拳がぶつかった瞬間、クロムの両腕の体組織をズタズタにする。後方に跳んで衝撃を逃がしながらで、それだ。腕にディルエラの拳から受けるエネルギーを分散しつつ、残った推進力はクロムの肉体を後方に向けて吹っ飛ばし、遠方の石壁に叩きつけられたクロムが、肺への衝撃に激しい嘔吐感を覚える。
人間にぶつかられた石壁が、クレーターのような破壊跡を作るほどの凄まじいインパクト。それを一身に受けたクロムは、壁から離れたのち地面に崩れるように落ち、その口からおびただしい量の血を吐き出した。
重低音の足音を響かせながらクロムに歩み寄るディルエラの姿は、片膝をついて顔を上げるクロムにとって、まさしく死神の使いそのもの。明確なる死の予感を感じつつ、血に染まった口元を拭ってクロムが、顔を上げて敵を見定める。焦点が合っていないその瞳は、それを見た獄獣に優勢を実感させる結果となるが、その表情を隠す余裕など流石になかった。
「さすがに、人間にゃ限度があるか。それ以上の身体強化は出来ねえようだな」
ディルエラの言葉には、クロムも渇いた笑いが漏れたものだ。最初から全力だったに決まっている。とうに限界以上まで、身体能力の魔法を全身に纏わせて戦っていたというのに、あれ以上の力を振り絞れとは、獄獣さんも悪い冗談を仰るという笑い。
身体能力強化など用いなくとも、人並み以上には力があるクロム。それに加えて、今ではもはや術者も途絶えたと言われるような、身体能力強化の魔法を纏えば、ミノタウロスと腕相撲しても負けないほどのパワーを引き出せる。タイリップ山地で数匹の魔物に囲まれた時ですら、この力を頼らずとも悠々生きて帰ってきた過去からくる自信が、こいつの前では何の意味も為さない。
桁が違い過ぎたのだ。単なる怪力ばかりが名高かった獄獣のげに恐るべきは、その言葉だけでは到底語りきれず、それ以外の言葉で形容できない、純然たる圧倒的なパワー。どんな細かい理屈も戦法も、そのパワーとスピードだけで打ち破る獄獣ディルエラの反則的な強さは、今からどんな天才的な閃きが訪れたとしても、これを討ち果たすことなど出来ぬと思わされるもの。
「……まぁ、長生きした方だわな」
無茶の多い半生だったし、思い返せばとっくに死んでもおかしくない場面が、過去に何度もあったものだ。決死の覚悟でそれらを切り抜けてきた過去はあったものの、どうしようもない時はどうしようもないというのも、また真実。クロムの心中を包むのは、覚悟という名の諦観に近いもの。
その意に反するかのように、軋む体に鞭打って槍を構えるクロム。魔法を解けばこんな重い槍など握ってもいられないその腕に、精神と霊魂を疲弊させてでも武器を握らせる。痛みと霊魂を蝕む負担が全身を貫き、倒れていれば味わわなくて済む苦痛が身体を満たす。
ディルエラが地を蹴って、クロムに引導を渡す一撃へと踏み込む。やるだけやってやるか、と息をついて、クロムは長年共に戦場を駆けてきた相棒を握りしめ、最期の抗いに向けて構えた。
その時だ。ある一角からディルエラに飛来した魔力の凝縮体。広い視野を持つディルエラの眼が捉えたのは、自らの顔面に向かって直進する業火球。突然の襲撃に、ディルエラはその足を止め、掌をその前に突き出して盾とする。
自らの掌よりも大きな、人間の等身大級のスケールを持つ巨大火球を、その掌で食い止めるディルエラ。その手に伝わる灼熱の温度にディルエラが舌打ちしつつも、その手を力強く握り締めた瞬間、火球はその中核を握り潰されて消え失せる。火球が飛んできた方向をディルエラが睨むと、その先には無人の、この大空間からの出口がある。
目線をクロムに向けた時、火球を放った何者かの正体が判明する。その人物は、まるで火車のように回転する火球を靴の裏に携え、僅か宙を浮いてクロムのそばで腰を降ろしていた。そしてディルエラの目の前、力尽きたようにうなだれるクロムの下に体を潜り込ませ、彼を背負うような形を作っている。
「ほう。ありゃあ、もしかして……」
火車に乗り、地表を滑るその存在に、ディルエラが興味津々の目を宿した。敵の動向も気にせず、限界を超えた戦友を背負うマグニスは、体の方向を今来た方向に向け直す。
「戻って、きてくれたのか……」
「流石に旦那でも、上手く逃げおおせる保証は無いと思いましてね……!」
マグニスの靴の裏の火球が、火花を散らして勢いよく回転する。しっかり掴まって、と一声あげ、クロムを背負ったマグニスが、シリカ達が一度逃れたあの出口に向かって直進する。
「――列砕陣」
それより一手早く、ディルエラの拳が足もとの地表を殴りつけていた。そしてその瞬間、ディルエラが殴った地点から発生した凄まじい衝撃波が地表を走り、マグニスが目指すこの部屋の出口に向かって突き進む。
その衝撃波は自らの走った地表を凄まじい破壊力で抉り、強烈な破壊力に石床が砕けると同時に、その重い瓦礫や石を天井近くまで跳ね上げる。衝撃波が駆けた跡に残された爪痕は、まるで隕石が地面をこすりつけて滑っていったような破壊跡を描き、真っ直ぐ伸びた破壊跡の幅は、雄馬が悠々と走れるほどの広い道幅を作り、平坦だった地表を著しくズタズタにする結果を残す。
そしてその衝撃波がこの大空間の入口に到達した瞬間、地表から跳ね上げられる瓦礫を携えた衝撃が、その入口の天井部をも破壊し、落盤を起こしてその入口を崩して塞いでしまう。その入口から脱出し、シリカ達に後ろから追いつこうとしたマグニスの予定が狂わされ、塞がれた入口の前でクロムを背負ったマグニスが舌打ちする。
「少しは遊んでいけよ。お前、イフリート族だろ?」
マグニスをそう呼び表わしたディルエラに振り返り、マグニスが見せた目は敵愾心に満ちていた。汚らわしくもあり誇らしいその名を気安く呼ばれることは、彼にとって最も腹立たしい事象の一つ。マグニスの怒りがその精神に強い火を灯し、その精神が彼の霊魂に絡みついて生じさせる魔力が、次のマグニスの一手を導き出す。
目先に吐息を吹きかけるマグニスの行動に伴い、マグニスの足元に巨大な火球が発生する。直後それを天井付近に向けて蹴飛ばしたマグニスにより、人間まるまる呑み込めるほどの巨大な火球が、その方向に向けて直進する。そして天井にぶつかった火球は大爆発を起こし、その凄まじい衝撃は天井に穴を空け、上の階層への風穴を作るのだ。
「あばよ、クソ親玉」
靴の裏の火車を高速回転させたマグニスは、自らの肉体を高く浮かし、上の階層に向けて開かれた風穴に向かって直進する。腰元の鉄球の一つを握ったディルエラの動きは、それを投げつけ逃がさぬとせんばかりの動きだ。それを片視野に入れているマグニスも、空中を駆けながら警戒心を高める。
だが、ディルエラは何もしない。マグニスが穴の先、上の階層に身を逃したことを見送り、フンと鼻を鳴らして鉄球を元の位置に収める。
「まあ、"飼い"でもいい。次に顔を合わせた時が、楽しみでもあるからな」
ディルエラは独り言と共に、歩きだす。そして、壁の一角に近付いて、右拳を握ってふぅと息をつく。
振り抜いたディルエラの右拳の殴り上げが、ディルエラの眼前の壁をいとも簡単に打ち壊す。乱暴に風穴を開けられた壁の、生き残った石壁さえもその足で蹴飛ばして壊すと、ディルエラは開けっぱなしのドアをくぐるかのごとく悠々と歩いていく。
「さァて……どうするかな。体も温まってきたし、もう少しぐらいは遊んでいこうかね」
ディルエラの耳がひくひくと動き、その耳から一つの情報を受け取ったディルエラが、重い足音を立てながら、遺跡の中を歩きだす。恐れ知らずの最強の獄獣は、このサーブル遺跡において最大の脅威として、人類と同じくする空間を徘徊する。
次の獲物を既に見定めているディルエラは、終始悪辣な笑みを絶やしていなかった。
ベルセリウスの剣が、アジダハーカの二の腕を深く切りつける。傷を負いながらもその拳でベルセリウスを突きにかかるアジダハーカだが、一歩退いてベルセリウスはそれを回避する。しかし退がって自らに拳が当たらなかったその瞬間、再び一気に前に出て、アジダハーカの蓑のような衣服に包まれた先の、首元目がけて剣を突いてかかる。
咄嗟に後方に跳躍して回避するアジダハーカだが、追い迫るベルセリウスは後退するアジダハーカの速度に勝って追いつきにかかる。着地と同時に、右膝を敵に向かわせる回し蹴りを放つアジダハーカだが、その膝に纏うプロテクターに騎士剣を振り下ろしたベルセリウスは、その反作用の力に任せ、アジダハーカの膝を支点にして回転する。結果として身を浮かせるベルセリウスが、アジダハーカの回し蹴りの上部を舞って回避する形。
空中で自らの体が一瞬真っ逆さまになったその瞬間、アジダハーカの頭部目がけてベルセリウスは剣を薙ぐ。どんな体勢からでも、敵を射程内に入れれば攻勢に移るベルセリウスの変幻自在の型は、空中での体捌きを得意とするシリカのさらに上を行く完成形であり、黒騎士ウルアグアの物理法則を無視した空中戦法にも渡り合える最大の武器。
仮面ごと自らの頭を切断すべく襲いかかる剣を、アジダハーカは体を傾けて回避する。回し蹴りを放った直後で不安定な姿勢だったものの、余る左拳による直突をベルセリウスに放って応戦する。ベルセリウスはすぐさま剣を引き、その拳を騎士剣の側面で受け、衝撃を空中でそのまま受けて遠方まで吹き飛ばされる。
飛ばされながらも空中姿勢を整え、足を下にして着地したベルセリウスは、力のベクトルに流されて靴裏をすり減らしながら地表を滑る形になる。体の重心を下げ、やがてアジダハーカから距離をとって停止したベルセリウスも、一度息をついた後、すぐに前方のアジダハーカに向けて直進する。
その瞬間、戦況が動いた。遙か遠方から響く地響きが、ベルセリウスとアジダハーカが戦うこの戦場区画を激しく揺らす。アジダハーカに向かおうとしていたベルセリウスも思わず足を止め、迎え討つ構えを保ちながらも、アジダハーカも戸惑うように地に目線を落とす。
「……主か。どうやら、ひとまず満足されたようだな」
その揺れが意味するところを、アジダハーカは知っている。自らの主である獄獣が、己の楽しみを満たしきったと、配下であるアジダハーカに伝えるための地響き。それは同時に、騎士団ないし帝国兵の主要兵を足止めするという仕事を与えられたアジダハーカに、そろそろ切り上げても良いと伝えるサインでもある。
「勇騎士ベルセリウス。貴様は強かった。また会おう」
「なに……!?」
アジダハーカはそれだけ言い残すと、素早く踵を返して逃亡の向きに駆けた。アジダハーカの正しい目線から見ても、相手の方が自分よりも高い実力を持ち得ると判断した以上、これ以上のしつこい抗戦で、命を落とすリスクを回避するための動きだ。
追おうにも、アジダハーカの動きは速過ぎる。アジダハーカが周囲の力及ばぬ兵にその手を下し、犠牲者を増やさぬために足を止めることは出来たものの、逃走に全力を費やすあの足に、出遅れてなお追いつくことは難しい。
「……くそっ!!」
ベルセリウスは、脳内に刻み込んだ遺跡内の地図を、全力で思い起こす。アジダハーカに塞がれた道の先に進んだ、シリカ達の位置まで迂回するための道を頭に描くと、その道に向かって独り、全力で駆けだすのだ。
アジダハーカがここにいたということは、この遺跡内に獄獣ディルエラが潜伏している可能性は、他に何も要素が無くとも容易に想定出来ることだ。さらにその潜伏位置は、アジダハーカが後続の兵の追従を塞いだあの道の向こうである可能性が極めて高い。そして何より、この遺跡内で獄獣ディルエラと戦って、せめて互角まで届く戦いが出来る者は、ベルセリウスかハンフリー、ジャービルの3人しかいないのだ。獄獣の居場所を目指す役目は、自分以外に背負えない。
もしもシリカ達が獄獣ディルエラと遭遇しているなら、第14小隊の全滅は覚悟すべきことだ。極めて強く現実的にそれを想定しつつ、冷徹な頭でベルセリウスは遺跡の階段を駆け降りた。
「……助かった」
「はいはい、喋らない! どう見てもご安静推奨っすわ!」
クロムを背負って遺跡の中を駆けるマグニスは、行く先に迷ったものだ。戦闘不能のクロムを連れて遺跡から彼を脱出させるか、重い彼を背負ってでもシリカ達のもとへ舞い戻るか。クロムは戦えないかもしれないが、自分はまだシリカ達の助けになれる立場だから。最悪この旦那なら、満身創痍のこの状態でも、弱い魔物が相手なら自分であしらう手腕があるだろうとも知っている。
どうせ、この人のことだから、どうしたがるかなんてわかりきっている。だからマグニスは、いっそそれならとばかりに、頭に刻み込んだ遺跡の地図を全力で思い返し、シリカ達が進んだ先に辿り着き得る道を求め、遺跡の中を走り抜ける。
「シリカ、達は無事か……? 出来るなら……」
「あーハイハイわかってますって! 今から全力でそこ向かいますんで、黙っててくだせーや!」
普通だったら、死に損いの体で人の心配なんかしてんじゃねえよと全力で罵倒してやりたい気分だ。この人は、今の状態でも戦力になるだけの力を絞り出すだけの底力を持っているから始末に負えない。ごく当然の正論で封殺できない我が儘な先輩を持つと、後輩は本当に気苦労が絶えないものだ。
「……世話になる。帰ったら、煙草一箱な……」
安いわ! とマグニスが怒鳴り返すと、クロムがくっくっと笑う。肺の痛みにわずかに血を漏らしたか、その笑い声が急に途絶えたことを耳にしたマグニスとしては、本当に黙っていて欲しい。命を救われた礼すらも、互いに粗相を起こした時のペナルティの習慣に倣い、煙草一箱奢るぐらいで済まそうとするマイペースさには、心配しているこちらの気になれよと言ってやりたくなる。
なんて顔してんだよ、と、マグニスの顔も見えない位置から言ってくる、第14小隊結成の前から付き合いの深い戦友。たまに本気で安否を気遣ってやったらこれだ。おかげで心配する気も失せて、靴の裏の火車を回転させる魔力を注ぐことに集中できたマグニスは、尚も速度を上げて遺跡の内部を駆け抜けるのだった。




